福田和也さんの訃報:日本で保守であることの困難について/ポリコレという全てを凡庸にする脱魔法の杖/演劇マンガと演劇の語り方

Posted at 24/09/22

7月22日(日)雨のち晴れ

今日は秋分の日。昨日から雨が降ったり止んだり。今日はお彼岸の中日ということでお墓参りに行こうと思っているのだが、午後からは晴れるようなので午後にしようかと思ったり。お墓自体は実家から車で3分なので用意だけしていけばどうということはないのだが、天気がこんなでは・・・という感じ。

今日明日で東京に帰るつもりは、元々はなかったのだけど昨日何だかあまりに疲れが溜まっているのを自覚して、気分を変えた方がいいかも・・・と思い始めたのだけど、世の中は連休だし明日もどこも混むかもな・・・と思うと二の足を踏んでいたりする。逆に疲れすぎたので大人しくしていた方がいいという考えもあるのだが、まとまってない。

まあ雨ということもあるし秋雨前線が南下しているということもあり、北の冷たい空気が流れ込んでいるということなのか、サッシを開け放っているとひんやりと涼しい、というか半袖だと少し肌寒かったりする。

そういうわけで昨日は9時前に寝てしまったのだが、起きたら4時で、時間としては7時間寝たからだいぶ良く寝たという感じだったから、とりあえず起きて色々していたのだが、なんというか色々考えているうちに大風呂敷を広げてしまって、ものを書くには向かない頭になってしまった。

というのは、昨日は「ふつうの軽音部」の原作者・クワハリさんがTwitterで紹介していたマンガワンの新連載「Change the World」を読んでいたのだが、これが演劇を扱ったマンガで、なんというか自分が演劇をやっていた頃のことを思い出し、考え始めてしまったからなのだった。

https://urasunday.com/title/3008

いろいろないきがかりで、というかやりたいことが絞れないうちに「一人ではできない」演劇はやれなくなってしまったということもあって、演劇からは離れてしまっていたのだが、なんというかこの作品は自分が演劇に感じていた演劇の良さ、演劇でしか経験できないもの、というのを見事に表現してくれていて、いろいろなことを考え始めたわけである。

作中の「運命とか信じるなよ。俺たちの運命は、俺たちが握っているんだから。」

というセリフがとても良くて、これはシェークスピアの「運命を握るのは星ではなく、自分自身である」という表現から引いているということなのだが、これは「ジュリアス・シーザー」のキャシアスのセリフだそうだ。まあ没落するキャシアス(カッシウス・ロンギヌス)のセリフだというのは夢に挑んで敗れたものの一つの象徴としてそのセリフを口にした主人公の友人が挫折していくのだが、演劇にかける思いの熱さが読むものを強く刺激する作品だなと思う。

まあそれからどういうわけかドナルド・キーンが四世中村富十郎の演技を評した言葉「人間があんな素晴らしいことをする、と思って泣いた」という言葉だとか、演劇について考え始めて、野田秀樹の芝居はこうだとか唐十郎の芝居はこうだとか、やっていた当時では思い付かない言葉と概念でそれを考えているのが面白くて、ああ、ようやく演劇を語れるようになったのかもしれないなと思ったりした。

もう一つは、昨日読んだ福田和也氏の訃報についてだ。

https://www.yomiuri.co.jp/culture/book/20240921-OYT1T50053/

福田さんは1960年生まれなので私より2歳上なのだが、つまりは同世代の論客という意識が私にはあった。保守派の論客としては渡部昇一や西尾幹二の世代、石原慎太郎や江藤淳の世代の次は福田和也の時代だと思っていたのだが、早くに体を壊されたのかここのところあまり、というかSNS時代になってからはほとんど名前を聞く機会がなくなっていて、それでも私の知らないところで仕事をされているのだろうと思っていたので、今回の訃報と亡くなる前の痩せた写真は驚きだった。

彼はある種古いタイプの論壇人として生きようとした人、例えば村上春樹さんが作家生活を続けるためにランニングで体力維持を図ったり、小林よしのりさんが規則正しい生活をして「ゴーマニズム宣言」を書いたりしているのと違い、お金がある人は贅沢をするべきだと考え若手や学生たちに高い酒を飲ませたりする古いタイプの作家・論壇人の振る舞いをあえてやっていた、本人も好きだからやってたのだとは思うがそういうタイプはすでに我々の世代では珍しいと思うので、ある意味での「理想の実践」であったのかもしれないという気がする。

古いタイプの生き方、つまりそれは清潔で小利口な現代社会においてはある種の「異形」ともなっていたその生き方は、今日ではまず最初にポリコレに引っかかるだろう。その中で生きようとするにはそうした現代の批判と戦いながら生きるか、でなければある種の相対主義的な資本主義のバケモノとして「それあなたの感想ですよね?」とか言いながら生きるか、ないしはポリコレを肉体化してポリコレ坊、もといポリコレ棒を振り回して相手を薙ぎ倒し口を封じていくか、ということになるのかもしれない。ポリコレとは「全てを凡庸にする脱魔法の杖」なのだと思う。

現代の日本において保守であることの困難というのは、本来の西欧的な意味での保守のように系譜的に遡ることで自分自身の由来を明らかにし、それと自分の精神の現在と日本の風土を一体的に語ることができないことだと思う。我々の現代の思想は本居宣長の直系でもなく、伊東仁斎の直系でもない。芸術的な意味で千利休や藤原定家の末裔であることは示すことは不可能ではないが、それは自らのその近代における系譜の断絶性を痛感せずには済まないわけである。一番つながりを感じられるのはむしろ頼山陽の「天下の大勢」論の思想かもしれないのだが、当然ながらそれで全てが語れるわけではない。

百田尚樹氏のような一般に保守と言われる人たちが日本史を書いても縄文時代から始まらざるを得ないのは日本が西欧近代というものを権威として受け入れた以上致し方のないことなのだが、それらの考古学的成果を記紀の説話に接続する取り組みはなかなか受け入れられてはいないと言わざるを得ないだろう。その辺はむしろ中国の方が二里頭遺跡(文化)を実在が疑問視される夏王朝のものと見てそれが定説になりつつあるなど接続の意欲が強いが、日本では纏向遺跡を大和朝廷初期のものとみなすのはまだ冒険的な試みのようである。

そういうわけで古代史と近代史は、というか歴史というものにはイデオロギー的なものが入り込まざるを得ないところがあり、そこには保守ないしナショナリズムの思想が絡んでくるわけだけど、福田氏は基本的に江戸時代以前に遡ることなく近代日本、近代天皇制というものを直視しようとした感があった。ただ近代天皇制というものが思想的に依拠していたのはやはり日本の歴史であり、あるいは神話であったわけだから、いずれはそこに至らざるを得ないだろう。皇国史観のイデオローグとされた平泉澄が再評価されつつありそうでされなかったり微妙なポジションにいるのはその辺のせめぎ合いもあるのかなと思う。

現代日本の保守思想というのはもう一方でバーク以来の西欧保守主義の立場を取ることで、この辺りは西部邁によってかなり知られるようになった感じはある。本来リベラルである宇野重規さんが書いた「保守主義とは何か」でもオークショットなどは割合好意的に説明されていたし、ヨーロッパ保守主義は日本の保守主義に受け入れやすい部分もあるように思う。

アメリカの保守主義は福音派教会と結びついた宗教色の強いものになっていて、ヨーロッパに比べてはるかに宗教色が強いように思われる。だからその辺りのことは読んでいて辟易する部分があるのだが、「プロチョイスかプロライフか(つまり妊娠中絶の是非)」といった現代の政治に直結した部分があるだけに無視も難しいところがある。アメリカの保守主義は基本的に反知性主義が強いし、日本で思われている以上に「宗教的覚醒」が重視されている集団が多くある。

福田さんは「奇妙な廃墟」でフランスのアクシオン・フランセーズという歴史家のアリエスも関係があった保守団体など、ナチスと協力した「コラボ」と呼ばれる作家たちを紹介したりしていたが、これは保田與重郎などの文学右翼とも言える人たちの紹介とも通じるものなのだろう。

福田さんは近代にのみ限定した保守思想を展開したように私には思われるのだが、それは、自分の生活感の延長として捉えられる限界が明治だ、ということなのかなと今考えながら思った。私などは今これを書いている実家の居間から見える景色、これは110年くらい前に大正天皇の即位を記念して作った庭だったりするのだけど、少なくともその100年m前からは先祖がここに住み続けているわけで、少なくとも江戸時代からのことが語れないならやはり保守思想としては浅いと感じてしまう部分がある。だからといっても江戸しぐさ論みたいな方に言っても困るのだけど。

まあそんな感じで、福田さんの訃報は「批評」というものと「保守」というもの、両方とも自分には関心が強いものについての世間的な第一人者が、道半ばでなくなったという感じが強い。

私は子供の頃から天皇という存在は割と親しい感じはあったし実家の存在が過去と自分とをつなげるものだという意識が強くあったので歴史というものの実在性についての意識は強くあったのだけど、父がマルクスや黒田寛一の理論を読んだり、イスラエルのキブツ(実際に訪問している)などに関心を持つ人であったこともあって、なんとなく自然に左翼的教養が入ってきていた。そういうものは1989年の冷戦構造崩壊から日本における55体制の崩壊と地震災害の頻発、地下鉄サリン事件など宗教テロリズム、バブル崩壊以降の金融敗戦などが続いた1990年代にその有効性を信じなくなっていたのでその辺りからようやく保守や右翼というものを勉強し始めた。だから福田さんの本などはとても参考になっていたと思う。

日本の現代小説などもあまり読んでいなかったが、「作家の値打ち」を読んで初めて村上春樹を読んだりしたし、石原慎太郎の小説もこの本の評価の高いものを読んだりした。文学好きにはならなかったが、ドアがそこにあることを示してもらえたのはよかったなと思う。

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書いてみたらなんだか思った以上に自分語りになってしまったし論旨も脱線しっぱなしなのだが、同世代の思想家から自分が引き出されたものはたくさんあったということなのだろうと思う。ご冥福をお祈りしたい。

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そのほか書きたいものもあるが、今日はこの辺で。「ふつうの軽音部」、予想してなかった展開でさらに面白くなってきた。

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