「エモい記事」問題と新聞の果たすべき役割/取材力のあるメディアをどう維持する・育てるのか
Posted at 24/09/03 PermaLink» Tweet
9月3日(火)曇り
昨日は比較的良い天気で気温もかなり高くなっていたが、今日はまた関東を中心にあまり天気が良くないようだ。江東区の最高気温予想を見たら27度なので、真夏に比べたらかなり涼しくなったのだなと思う。
少し前の記事だが、元新聞記者の方が書いたこういう記事があった。
https://president.jp/articles/-/85551
これは一時期話題になった「エモい記事」問題を切り口に、新聞およびジャーナリズムの現在抱えている問題について分析し、新聞がこれからも担わなければならない役割は何なのか、ということについて書かれている記事だ。
よく知られているように、新聞は売れていない。売れなくなっている。これについては、新聞業界の中の人は皆それなりに危機感を持っている。そして、その危機感の表れの一つがこの「エモい記事」である、ということが一つある。
新聞記者自身も、自分の書いた記事が読まれていないという危機感を持っている、というのは全くその通りだろうなと思ったが、当然だが彼らは「自分の書いた記事が読まれたい」と思っている。
新聞記者になりたいと考える動機はそれぞれだろうと思うけれども、政治や社会の動きをビビッドに伝えたい、と思っている人もいるだろうし、自分の書いた記事を広く読んでもらいたいという思いもあるだろうとは思う。
最近の調査で気になっていたのは、そうした「事実を調べて伝えたい」ということよりも、「自分の記事で世の中を動かしたい」という希望の人が増えている、というか世界の中で突出して日本の新聞にはそういう動機で就職する人が多い、ということだった。
つまり、「世の中のことを調べてその事実を伝えることで世の中をしっかり動かしていく」、という考えよりも、「自分の意見で世の中を動かしたい」という人が多いということである。
これは朝日新聞や毎日新聞、東京新聞など、よく左翼系と言われることがあるが、そういう新聞に就職する人たちの動機が、「左翼系の自分たちの意見」を伝えるためにその新聞社に入りたい、という人が多いということであるのだと思う。
当然だが、新聞の記事はそういうオピニオン的なものばかりではない、というかそういうものはむしろ少数であって、警察に詰めて事件を伝えたり、政治家を追いかけて発言を引き出したり、地味な仕事の方が当然多いだろう。そしてそういう地味な記事は必ずしも読まれないかもしれない。自分の意見で世の中を動かしたいと思う人たちにとっては物足りない部分もあるだろう。
一時期ネットメディアに多くの新聞記者が流れたことがあったが、それらの人たちはそこで自分の意見を開陳し、注目されてキラキラしていた人たちも多かったと思う。
ネットメディアの側も、当初は取材体制をしっかり整えて新人を募集し、新聞にとって変わる新しいジャーナリズムを興す、という大望もあったようなのだが、現在になってみると、それに成功したメディアがあるとは思えない。人の興味を惹くような細々したことを取材して伝えるメディアはそれなりにあるが、政治や社会など全般について本格的な取材をするようなメディアは思いつかない。
この記事によれば、
「これも現状は、という注釈はつくがネットメディアから出てきた“ジャーナリスト”の記事はどうしてもオピニオン中心という傾向が強く、粘り強くファクトをとってくる技術に乏しいように思う。問題はそれだけではない。推測に推測を重ねたような緩い表現が横行し、情報の重みづけができておらず、陰謀論すれすれか過剰なオピニオンで売り物になる原稿が拡散していく。」
つまり、ネットメディアは「新聞にとって変わるようなジャーナリズム」を構築することは、少なくとも今のところは成功していないということ亞ついの郎。
著者の主張は「新聞はネットの失敗を繰り返すな、ネットを模倣するな」ということなのだけど、つまり「エモい記事」というのはPVを稼ぐことが目的の「ネットメディア的」なわけである。そしてこれは別の方が指摘していたが、以前はそういう「エモい記事」を書くのは「一部の記者の個性であった」のだが、今は全社的にそういうものを書かせようとする傾向がある、ということなわけである。
そこに新聞メディアの退廃を論じることはもちろん可能だが、もう少し考えてみたい。
何にそのエモさを感じるかということは、例えば朝日新聞の読者と読売新聞の読者では違うわけで、それぞれの新聞のカラー、読者の傾向に合わせた「エモさ」を演出することになる。
もともと新聞というのは政治的なもので、フランスにも左派系のル・モンド、保守系のル・フィガロの二大紙があるように、国民の政治的傾向に合わせて読者の好みそうな記事を書くという傾向はある。明治時代の日本の新聞も徳富蘇峰の「國民新聞」が保守系の論陣を張り、「報知新聞」は大隈重信系・立憲改進党系の政党に近い論陣を張っていた。
これは私は知らなくてこの記事を読んで知ったのだが、大阪毎日新聞の発展の基礎を築いた本山彦一は、福澤諭吉門下で福澤の発行する時事新報の記者などを務めていたが、1903年に大阪毎日新聞の社長に就任し、「独立自営・不偏不党」を唱えたのだという。これは明治期の特定の勢力に肩入れするような内容にしないように、まず収益を上げることを考えて、新聞に本格的に広告を入れることによって経営を安定させるという手法を確立した人だということだ。
毎日新聞は今ではどちらかというと左派系という印象だが、時々飛ばし記事を載せるスクープ狙いという印象もあり、そんなに良い印象ではないのだけど、この「広告を入れる」というのは当時としては「不偏不党」を確保するための新しい手法を確立したのは素晴らしいと思った。
最初の問題に返って言えば、不偏不党というのは右寄りにしろ左寄りにしろ読者におもねり媚びた「エモい記事」を書かないということでもあるだろう。それでは新聞は何を大事にしていくべきなのか。
新聞にとって、というか報道にとって最も大事なことは、この記事にある以下の部分だろうと思う。
「しかし、どんな記事であっても曲げてはいけないことがある。ビル・コヴァッチとトム・ローゼンスティールが記した標準的なジャーナリズムの教科書『ジャーナリストの条件 時代を超える10の原則』(澤康臣・訳、新潮社)に掲げられた「事実確認の規律」を守ることだ。これを緩めてはいけない。
彼らがはっきりと記しているように「結局は事実確認の規律が、ジャーナリズムと、エンターテイメントやプロパガンダ、フィクション、芸術とを区別する」からだ。あらゆるエンタメは何が最も人の気を引くかに重きを置き、プロパガンダは事実を恣意しい的に用いるか、でっち上げるかして自分たちを信じさせることだけに注力する。フィクションは事実を曲げてでも彼らが「真実と呼ぶもの」を感じ取れるように物語を練り上げるという一点において、ジャーナリズムと目指す地点が変わる。
ジャーナリズムは「起きたことを正しく捉えるためにどんなプロセスを経るか」を重視することによって、初めてオリジナリティを獲得する。」
ここは全くその通りだと思ったし、「マスゴミ」と揶揄される現在の新聞やテレビの報道においても、この「事実確認の規律」が守られているなら、やはり尊重すべきだと思う。逆に言えば、「ジャーナリズムのオリジナリティは事実確認の規律にかかっている」わけで、「ファクトをいかにとってくるか」が重要だということだろう。
現実に、新聞記者に取材された人が抱く新聞記者への一番大きな不満は、自分の書きたい記事の方向を先に決めていて、それに合わせたことを聞き出そうとするだけで、こちらが訴えたいことを全く聞いてくれない、ということだろう。結果的に、自分が話したことと全く違った記事になっているという不満を持つ人は多いだろう。もちろんその記者に「聞く技術がない」ということも大いにあるとは思うのだが。
先に述べたように、現実には「ネットメディアという新しいジャーナリズム」は誕生することはなかった。結局は新聞やテレビのようなオールドメディアしか「事実確認の規律を持ち、ファクトをしっかり取ってこれるオリジナリティのある記事を書ける存在」はない、というのが現状だということだ。
それを考えると、「マスゴミ」と言われ当派生を云々されながらも、新聞の社会的役割はまだ消えていないと思う。ただ、「汚染水」問題や福島報道、埼玉のクルド人をめぐる問題に見られるように、その新聞社の方向性に縛られてきちんと事実確認が行われていない報道がそれなりにある、あるいは報道されるべきと多くの人が考えていながら報道されていない事実がある、というのもまた事実ではある。
現実問題、ネットメディアに期待できない以上、新聞の取材力が落ちると日本社会がどんどん錆び付き「報道されないがために分断が進む」という状況が起こるだろうし、福島問題やクルド人をめぐる問題がその「最初の破れ目の一つ」にならなければいいが、という気はする。
この記事はもちろん新聞への期待を述べる目的で書かれているだろうから新聞を鼓舞しているのは間違い無いのだけど、我々一般人にとっても明日の「報道」の方向性がどういうものになるのか、注目していく必要はあると思うし、新聞の姿勢や取材力については批判しつつ期待もしたいと思っている。
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