「ふつうの軽音部」37話:情熱のない暗闇を引き裂く「僕の声」/「日本の左翼思想」は賞味期限切れではないか(3):左翼思想は「自立の思想」を回復できるか

Posted at 24/09/08

9月8日(日)晴れ

週末、だいぶ疲れが溜まってきていて仕事を終えて買い物をして家に帰り、ご飯を食べてからも何もする気にならなかったので、少しネットを見て抵抗はしたが結局9時過ぎには寝てしまった。

目が覚めたら12時20分くらいで日が変わっていたので「ふつうの軽音部」を読む。鳩野の回想から始まり、演奏場面。というか今回は最初から最後までELLEGARDENの「ジターバグ」を演奏していた。完全に1回フルに(というか前回の途中からスタンバイの場面に入り、19ページでもうスタンバイに入って、21ページで大きく息を吸い、22−23ページで歌い出してる)演奏場面だったのは初めてだから、この演奏にとても力を入れて描写しているのが伝わってくる。(以下ネタバレあり)

https://shonenjumpplus.com/episode/17106567254627466317

「次にくるマンガ大賞」のウェブ部門第一位をとって最初の更新が前回だったから、本当に持ってるなという印象だったが、今回はピークに持ってきたという感じ。「はーとぶれいく」4人の演奏の時の表情や、軽音部で顔も演奏もいい2大バンドのギターボーカル、鷹見と大道が驚いた表情もすごくいい。

歌詞が鳩野のこれまでと、はーとぶれいく結成後のそれぞれの想いに重なり、他の3人のメンバーの厘、桃、彩目の満足そうな、「いいぞ鳩野」という表情が重なる。

「一切の情熱がかき消されそうな時には いつだって君の声がこの暗闇を引き裂いてくれてる」

そして鳩野が明るい顔で「いつかそんな言葉が僕のものになりますように そうなりますように」と歌う。本当にこのバンドが鳩野の歌を灯火に、「暗闇を引き裂いてくれる」歌声として進んできたことがよくわかる演出で、まさにこのバンドのテーマとも言える歌がよくあったなと思うし、逆に言えばこの曲を知っていたからこの話が作られたのかもしれないと思えるような一体感だった。

演奏しながらそれぞれが、厘は「鳩野の凄さをもっと発揮させたい」と思っているし桃は鳩野のバックで演奏していることで自然に気持ちが昂るのを感じていて、彩目は「舐めてる奴らにはかましたらなあかんやろ!」と思っている三者三様の熱い思いがストレートに演奏に反映されていて、これぞ理想の高校生バンドという感じがした。

高みがその演奏に圧倒される表情をするとともに、「水尾が言ってた自分たちが勝てないかもしれないバンドはこれか」と気づき、投資を燃やす表情をするのも熱い。それが第37話「そのバンドを知る」というサブタイに繋がり、まさに少年ジャンプという展開になった。100点満点で500000点。

https://amzn.to/3Xlbyk2

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夜中に目を覚ましてマンガを読んだためコメント欄を追いかけたりTwitterのコメントを読んだりしていたら結局2時を過ぎてしまい、流石に寝ることにして、起きたら6時半だった。

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一昨日と昨日の続きの「日本の左翼思想は賞味期限切れか」について、流石にまとめておこうと思う。(3)ということになる。

https://x.com/honnokinomori/status/1831311287491735928

昨日は日本の戦後の平和運動が「与えられた平和を守れ」という形になり、自衛隊の設置や安保改定などは「与えられた平和をアメリカ政府や日本政府が奪おうとしている」ということへの抗議的な意味合いが強かったのではないか、ということを書いた。

これに関しては60年安保はむしろ左派的なナショナリズムの現れだったという解釈も最近は盛んになってきているが、冷戦構造の中で日本の国内も左右の勢力に分断され、社会党委員長の浅沼稲次郎が右翼少年に暗殺されるというような対立の激化の中で、米ソ冷戦に巻き込まれて参戦するということに危機感を持っていた人たちも多かったという指摘を受け、それは確かにそういう面も多かっただろうなと思った。

だから当時は米ソの戦争に巻き込まれないために「憲法9条」が有効に働いているという認識は、「もともとアメリカが制定させた憲法なんだから文句は言わさない」という国民感情もあって、有効に働いていたと言える面はあるだろう。

しかしこうした状況が冷戦状況が深まる中で左翼の「憲法9条を守れ」という運動につながり、「憲法9条を守っていれば戦争は起こらない」というおよそ非科学的な主張につながって、われわれ1970年代に教育を受けた世代はそういう半ば宗教的な戦争否定論をきかされて育ったし、1980年代以降の世代はさらに「日本国家悪玉論」が叩きこまれて「日本政府が戦争をしようとしなかったら戦争は起こらない」とか「日本を防衛するという名目で軍備を拡張し戦争をしようとしている」という非現実的な主張をたたきこまれた。

これらはある種の洗脳であり、日教組のスローガンである「教え子を再び戦場へ送るな」という言葉のもとに、強く戦争を否定する教育をたたきこまれてきた。正直言ってこれらの教育はある種の虐待でさえあったと思うのだが、まだそこまでの認識は一般になってないかもしれない。

現実問題としては、憲法制定の審議の際に共産党の野坂参三が「軍備のない憲法はナンセンスだ」といったように、独立国として軍隊を持つことは当然なのだが、軍備の復活によって旧軍部の復権が早まることを恐れた政党政治家や官僚政治家たちは占領軍の方針に乗ってこの憲法を制定したということになるだろう。

占領終了後、軍部を排除した新しい統治体制が確立して初めて自衛隊の強化に乗り出すことになるが、国民の反発する意識は長期にわたって強く、自衛隊は人材確保に苦労し続けることになった。

冷戦が終わり、世界的に左翼が敗北する中でも、左翼の「9条を守れ」という主張は変わらなかったが、変わったとしたら「米ソ冷戦に巻き込まれるのはゴメンだ」と思っていた右派がアメリカ一強状況の中で「日本も自衛隊を海外派遣して国際平和に貢献すべきだ」という方向に転換したことだろう。特に湾岸戦争で多額の資金を拠出したのにクウェートによる多国籍軍への感謝の新聞広告で日本に触れられなかったことは深刻な衝撃を右派に与えた。そこからは「日本の国際的地位を保ち向上させるためには憲法9条改正が必要」という意見が一気に高まったわけである。

一方で軍備を不可触の状態におくことは学術会議など共産党の力が強いアカデミアでも推進されてきたし、自民党側としてはいかにして自衛隊を正式に国軍と規定するかということが戦後の目標であり続けたわけだが、こうした機会を拾って防衛力の整備や自衛隊の海外派兵を可能にする法制を整えていった。

現実には災害派遣などの地道な努力を重ねることにより市民の側の認識も変わっていき、世論の変化に特に大きな影響を与えたのが1984年の日航機墜落事故の救出作戦であったという話を読んだことがある。これらも戦後国家として失ったものを取り戻すための動きであり、国民にとっても国家の正常の在り方への復帰という意味で意義のあることだったと言えるだろう。

左派の抵抗が大きいこともあり、現実には政府は法整備によって現実の行動に必要な体制は整えていったが、憲法を改正するというよりシンプルな国制ないし国体の改革はいまだに実現していない。

制度面において、実務上可能なように法制や制度を整えていくことは珍しいことではないが、国の仕組みとしては、また制度としてよりシンプルな方が強靭であることは重要なことだと思う。しかしそれは今までは反対が強くて叶わなかったわけである。

なぜこのような現象が起こったのかということを考えてみると、「日本の平和主義」が「与えられたもの」であったからだ、という最初の見解に戻る。

戦後国民が戦争を忌避したことは事実であるが、国際政治の現実においては非武装は不可能だろう。それが様々な戦後国際政治のプロセスの中で、東西冷戦体制の中で「日本の平和は米軍と自衛隊が協力して守る」という体制がつくられ、現実的には「圧倒的な軍事力を持つ米軍の手によって日本の平和が守られる」という形になった。

つまり「日本の平和」は「日本の軍事力を奪う」というかたちで逆説的に連合軍によって与えられたものであり、ある意味属国的な半独立の地位に置かれたわけだが、左翼陣営ではこれを「憲法9条が日本を守っている」という不可思議な再解釈をし-----日本が単独の軍事行動をしないように憲法が縛り付けているという形をアメリカも望んでいるという意味では正しいのだが-----それを半ば宗教的な信念をもって守り続けた。

つまり、現実に守ってくれている米軍ではなく、いわば「お守り」である「憲法9条」が日本を守っているというトンデモの信念が生まれたということなのだろう。

ここではすでに米軍は逆に平和の敵という信念にすらなっていて、特に沖縄復帰後は繰り返される米兵の犯罪もあって米軍への批判や不満は強まっていったし、米軍になるべく頼らない形で日本を防衛するという日本国政府と自衛隊の方針は-----駐留経費を節減したいという米側の要求にも沿うものであったが-----左翼側には「戦争ができる国に戻すための策謀」であると解釈され、神経症的な反発が続くということになったわけである。

2022年に国連常任理事国であるロシアによってウクライナへの侵攻が始まり、ソ連とその後継国家であるロシアこそが日本国憲法前文にある「平和を愛する諸国民」であると考えてきた、少なくとも建前としてそれを意識してきた人には衝撃はあったはずなのだが、それに対する反応は鈍いものだった。少なくとも私は日本国憲法前文の立場に立つならば、国際秩序を守るために日本ができるだけのことはしなければならないし、また同じような動きを伺わせる中国が近隣にある以上、平和と国際秩序、国際法世界を曲がりなりにも維持するために、防衛力を必要に応じて整えることは正当性を得たと思った。

また何よりも自衛隊員の市民としての権利を守るためにも、早く自衛隊をめぐる法環境が整理されて憲法上の地位を獲得させた方がいいと思うのだが、また憲法を不磨の大典であるかのような宗教的な信念もまだ残っている。

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こうした問題は憲法が実質的に「与えられたもの」であるということに深くかかわるのだと思う。カーゴカルトのように天から与えられたものだから神聖だというような概念であるとしか考えられないところがある。天賦憲法説である。

こうした日本国家の存立の基盤をなす憲法体制の神聖化、脱世俗化してしまったことは、大きな問題があるだろう。

大日本帝国憲法は明治維新政府が反政府勢力であり西欧的なスタンダードでもあった自由民権運動の主張と折り合いをつけながら成立させた自前の憲法体制であったが、政府・内閣に権力が集中せず、軍部の独走を招くという欠陥のあった憲法でもあった。

日本国憲法はそれらの反省も踏まえて内閣に行政権力が集中する形で強力な政府を作ったが、戦前の統治体制が封建的であるというGHQの主張を受け入れざるを得ず、内務省が解体されて警察権力が弱められて治安の不安を招き、関東大震災における自警団の暴走などを踏まえて制定された治安維持法もまた圧政の象徴と解釈されて廃止されるなど、不安の残る部分はあった。自衛隊も完全に内閣の指揮下に置かれるようになったことで政府と軍部の抗争という戦前の最悪の事態は避けられるようになったが、いずれにしても現行憲法には様々な問題があることも事実だろう。

しかし憲法自体を神聖視することでそうした批判が難しくなり、きちんとした議論が行われなくなっていることは問題で、戦後保守政治は実質的に戦後国家が失ったものをそれなりには回収したのではあるけれども、それらを憲法に規定するというシンプルな形ではなく便法として事実上実現するという形になっていることもあり、体系的に国家と国民の関係が記述されない形になっているという問題は残っている。

もちろん、憲法改正それ自体が目的ではないので、病気を治そうとして直したけれども患者は死んでしまった、というような事態になることは避けなければならず、憲法改正で破綻をきたすよりは今までのように便法の積み重ねの方がより現実的だという思想もより根強いだろうとは思う。現実問題としては自民党の憲法改正草案が出されたときに、この程度のことしか考えられない人たちに憲法改正を任せていいのかということは正直強く感じたことも事実である。

しかし、憲法はつまりはただの文書であって、改正規定も憲法自体にあるわけだから、それらを粛々と改正してより国家としてありうべき形にすることは重要だと思う。自民党も見識のある人に依頼して、それを国民的な議論の上で新しい国の形を作り上げていくことは重要なことだろうと思う。

そのように進んでいく上で、日本の左翼思想はどのように国の未来を示すことができるのだろうか。国際環境を妄想でなく現実のものとして捉えた上で議論可能な余地がそこにあるのか。その辺りにやや疑問を感じるということはある。

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一例として平和主義の問題を検討してみたが、私がここで言いたい根本的なことは、「保守が自立思想から国家の自立を求めている」のに対し、左翼が何かに「依存する」ことを前提とした主張になっているということであり、「左翼思想」という本来は人間観の根本から世界観までを表していたはずのものが、最近の言葉で言えば「公金チューチューを正当化する論理」に矮小化してしまっているといるということである。

「女性の権利」にしても婦人参政権からして自分たちが勝ち取ったものではない。本来のフェミニズムは女性が自立し、責任ある立場に立って男性と対等に責任ある立場についていくことであったはずだが、日本のフェミニズムは女性の権利の主張ばかりに矮小化してしまい、弊害ばかりが目に付くようになっていると思う。女性の政治家がトップの地位に就くことは「権利」ではなく、男女の別なく「獲得すべきもの」であるのに、それが与えられなければならないものであり、それが与えられない日本は遅れているとかミゾジニーの国であるような言い方になっている。

そうして現実に東京都知事になった小池百合子氏には否定的な態度に終始し、高市氏や上川氏などが自民党総裁から総理大臣になろうとしていることに対しても肯定的な反応を示さない。それが女性枠、つまり「あたえられたもの」でないから不満なのだと思う。

権利の問題に限っても、女性に権利を与えることで男性が割を食うことについては冷淡であり、全体のバランスを考える思考が著しく欠如していて、そうすれば社会がどうなるかということについての責任感に欠けている。これはフェミニズムに限ったことではなく、マイノリティ問題に特化して生き残りを図るようになった左翼全般に言える変質だと思う。

多少乱暴にまとめてみれば、左翼の思想は「平和も権利も与えられたもの」であるから「これからも与えられ続けるべき」と考えている、ということなのだと思う。これは対米従属右翼の「アメリカにしたがい続けることで日本は平和も繁栄も享受できるのだからアメリカが理不尽な主張をしてもご無理ごもっともとしたがうべき」という主張と裏表だろう。今左右を通じて最も失われたものは、「自立した国家を支える国民としての矜持」なのかもしれない。

言葉を変えて言えば、日本が戦後憲法をはじめ「平和や繁栄を与えられた」、あるいは「おしつけられた」ことにたいして、取り上げられたものは「国民としての誇り・自尊心」だったということなのだと思う。

取り戻さなければならないものは何よりもそれであって、本来は左翼であれそうした観点は持ち得たはず、というかナショナリズムというものは本来フランス革命の時に生まれたものである以上、祖国を守ることは左翼の本旨でもあった。

逆に言えば今の日本の左翼は本来の左翼の魂を失っているのではないかと思う。たとえ自民党とは違う方向性であっても、自立した国家の国民として自らの国を支え、また世界平和にいかに貢献していくかは左翼思想にとっても重要なことであるはずである。もしそれが可能であるということを明瞭に示せるのなら、左翼思想の賞味期限はより延長されることも可能だろうとは思うのだが。


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