才能と技術と努力と人との出会い:「らーめん再遊記」/職人気質が身につける技術と「ふつうの軽音部」/障害やセミリンガルなど「重い話」と「商売」

Posted at 24/08/31

8月31日(土)曇り

昨日は母を病院に連れて行き、施設に送って行った後、ツタヤに回ってマンガの単行本を買ったのだが、「らーめん再遊記」11巻と「米倉夫婦のレシピ帳」4巻は買えたが「ありす、宇宙(どこ)までも」1巻がなく、買えなかった。

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以前から小学館はマンガの単行本の初版発行部数が少なく、自分が読みたいと思うややマイナーな作家さんの作品を実家の地元で買おうとすると苦労することはあったのだが、特にそれは連載終了間際のようなあまり売り上げが期待できないと考えているのかなという作品に多くあったのだけど、週刊スピリッツの連載で第1巻、これから盛り上げていこうと考えられているだろう作品が配本されてないというのはどういうことかと思った。同日発売の他の単行本は買えたので台風による流通の問題ではないだろう。地元(つまり田舎)だからそうなのかと思っていたが、最近は丸善丸の内本店などの大規模書店でも時々そういうことがあり、本当に実際に部数を絞っているのだと思う。最終手段としては神保町の書泉グランデに行くのだが、これだけ手に入りにくいというのはちょっとどうにかしてもらいたいと思う。街の書店でなるべく買いたいと思うのだが、これではネットで買わざるを得なくなる。悪循環だと思う。

批判ばかり書いて申し訳ないが、売野幾子さんのこの作品は「セミリンガル」だが宇宙飛行士を目指す少女と施設育ちだが「努力で人生は変えられる」という強い思いを持つ少年の二人三脚の物語で、とても読みたいし読んでもらいたい内容なので、どうにか手に入れたいと思っている。

「ハンチバック」の市川沙央さんがパラリンピックについて書いていたが、障害者でもある市川さんはパラリンピックに強い関心を表明しているが、その理由の一つとして「あまりにも民放に障害者がうつらないから」ということを挙げている。

https://digital.asahi.com/articles/ASS8Q2FCJS8QUTQP00HM.html?iref=pc_ss_date_article

芥川賞の特集があったときも、市川さんの前の受賞者と後の受賞者が取り上げられ、市川さんは飛ばされるなどの出来事もあったらしく、「障害者を画面に出さないため」ということも考えてしまう、と書いている。

世の中で障害者がいわば透明化される傾向がある、という指摘がされているわけだが、私はどうもその指摘がピンときていなかったのだけど、よく考えてみると私は毎週車椅子の母を病院に連れて行っているわけで、病院では車椅子の人や杖をついて歩いている人、点滴を繋いだままベッドで移動している人、などを頻繁にみているし、地方都市なのでおじいさんやおばあさんがよろよろと歩いている姿も街でふつうに見かける。だからそういうものが視界にあるのはすごく自然なことなのだけど、言われてみたらテレビなどにはあまり出てこないかもしれない。

「水曜日のダウンタウン」がコロナ対策を茶化して批判されていたが、まあ要は「健常者・健康な人・病気を意識しないで済んでいる人の視点」なわけである。確かにそんな中に障害者を画面に出したらなんとなく重くなる、というのはわからなくはないが、インクルーシブを主張したり「28時間テレビ」などで障害者のためと称するいわゆる感動ポルノで視聴率を稼いでいるなら、応分の落とし前というものもあるのではないかという気がする。

まあそれこそ邪推なのだろうけれども、「ありす、宇宙(どこ)までも」がセミリンガル(幼いうちに多言語環境に置かれたためにどの言語もちゃんと身につかないまま大人になってしまった状態)という問題を指摘していることで部数が取れないという判断があったとしたら、「トランスジェンダーになりたい少女たち」の問題などと共通するところで出版界こそがもっと党派性に囚われるのではなく、出版の意義などをきちんと評価した上でフラットに問題を見てもらいたいと思うところはあるなと思った。

***

最近いろいろなことをやろうとしているので、人生における才能や技術、努力や運といった問題について考えることが多いのだけど、そういう問題は個人的なレベルで考えていたが、よく考えてみると多くの人が考えたり悩んだりしている問題だよなということに気づいたので、少しそのことについて書いてみることにした。

私はマーチンのギターを持っている。これは10年くらい前になんとなくお茶の水でアコースティックギターを見ていて、中学生の頃に欲しくても買えなかったマーチンのギターが、小さめのサイズだが手が届く値段で展示されていたので、欲しくなって買ったというものだ。エレキだとフェンダーかギブソンということになるが、アコースティックだと少なくとも私の中学生時代はマーチンかギブソンだった。もちろんそんなものには手が届かないので知り合いから譲ってもらったおそらくは国産のギターを弾いていたのだが。

私がギターを覚えたのは中学生の時で、最初は音楽の教科書に載っているような曲をコード弾きでジャンジャンやっていたけど教本を買ってきてアルペジオやスリーフィンガーにチャレンジし、ある程度は弾けるようになった。私はどちらかというと飽きっぽいので、とりあえずスリーフィンガーで弾きながら歌えるくらいになったらもう満足してしまってそれ以上上手くならず、大学で一度だけバンドをやったことがあるがそれ以降は演劇をやっていたときに劇中歌の伴奏をするくらいにしか使っていなかった。

それでも20代の間は左手の指先は弦を押さえるので硬くなっていたし、爪をいつも短くしているなど、いつでも弾けるようにはしていた。結局数十年弾かないうちに弾けなくなってしまって、せっかくマーチンを買ったけどまともに音が出ない感じではあるのだが、何となくそういうものを持っているのは心楽しいものがある、みたいな感じはある。

最近「ふつうの軽音部」を読むようになってそういう頃の自分の気持ちやギターを弾いていた時に考えていたことなどを思い出したりする。私が弾いていたのは主にアコースティックでいわゆるフォークソング、ニューミュージックと言われるジャンルな訳だけど、「ふつうの軽音部」は日本ロックなので相当違うことは確かなのだが。

ピアノにしてもギターにしても私はモチベーションが続かなくてある程度以上は上手くならなかった(どちらももうまともに弾けないが、実は同じような理由で電子ピアノも持っている)のだけど、逆に言えば巧みに弾ける人たちが本当にすごいということはわかる。

「ふつうの軽音部」が「次にくるマンガ大賞」を取って以来、改めて自分の中で「ふつおん(略称は色々候補があるようだがこれが一番言いやすい気がする)」が盛り上がっている、いや盛り下がったことは未だかつてないのだが、ので、iPhoneの「ミュージック」のリストに「ふつうの軽音部」を作って出てきた曲を放り込んでいるのだが、リストで聞いてみると改めていいし、21世紀の日本ロックというものがこういうシーンになっているのかと改めて理解できる感じがした。

そういうこともあって「ジャンプ+」やTwitterでのコメントだけでなく、広くネットで検索したりして、下の文章を見つけた。

https://k-onblog.com/futuu-no-keionbu-28/

これは彩目をメンバーに入れるために永井公園で弾き語りの約束をしたのに中華料理店のバイトが入っていた、というピンチの時に、同じ軽音部、protocolのギターでバイト仲間であり同中でもある水尾がバイトを代わってくれたお礼に、弾き語りを聞かせてくれと言われていた約束を果たす、という回、28話「仲間と出会う」の感想である。

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(9月4日発売の3巻に収録)

この文章はとても良かったのだけど、自分が特になるほどと思ったのは、作中の水尾についての解釈で、「一つのことを決めたらそれだけに没頭するタイプ 恋愛や遊びには、目もくれず部活に没頭する…」という人なので、エンジョイ勢が多かったバレー部では孤立し、バイトもできそうな軽音部に移ってきた。

「プロのギタリストは真面目で職人肌が多いんです。突き詰めようとすればなんぼでも突き詰められますし 
ギタリスト界隈では巧くて絶賛されることはあれども馬鹿にされることはほぼないですから没頭するにはうってつけ!沼ともいう…w」

とコメントされている。水尾の性格について、天然、無口、一つのことを極めるのが好き、という造形になっているのはもちろん把握していたのだけど、要するにそれは「職人かたぎ」ということなのだということに目が開かされた感じがした。

水尾は鳩野の歌を聞いた後、「俺さ、昔からギターやってたって言ったけど、だいぶブランクあって正直ヘタクソやから帰って練習するわ。今日は歌聞かせてくれてありがとう」と言ってさっさと帰ってしまい、残された鳩野は唖然として「いや、なんか感想言ってけよ!!なんでどいつもこいつも何も言わねーんだよ!!」と思うのだが、「何かに集中してやるのは正しくないみたいだから軽音部入ってバイトとかしながらゆるい感じでやるんだ」と思っていた水尾が「正直ヘタクソやから帰って練習するわ(実際には水尾は鳩野よりダンチで上手い)」というのは「自分も一つのことに集中して頑張っていいんだ」と思えたということなので、迷いモードに入っていた水尾を「正しい道に導いた」ということなわけである。だから「帰って練習する」というのは最高の褒め言葉なのだが、事情を知らない鳩野には知る由もない、というところが面白いわけである。

水尾がなぜそう思ったことが感動的なのか、ということが、「職人かたぎ」という彼の性格を正確に把握した後で考えてみると、それが本当に重要だということがよくわかるわけで、だからこの文章を読んで良かった、と思ったわけである。

水尾がギターが上手いのはある程度才能はあるのだろうけど、鳩野の歌は技術とか努力とかいうよりは天性のものではあるのだけど、それでも毎日「誰にも言われないのに」永井公演で弾き語り修行の練習を続けてきて(それをたまたま水尾のおばあちゃんがずっと聞いていた)、そして失敗したライブの時に比べて全然違う演奏ができているということに水尾は心を動かされたわけで、「仲間と出会った」と思ったのだろう。

私などは一つのことを集中してレベルを上げていく、という職人かたぎなところがあまりない、自分の力を落とさないための努力はしないわけではないし、また何か目標がはっきりできてそのための方法も掴めていたらいくらでも努力することはやぶさかではないのだけど、技術を上げていくことのみに集中していくことがそんなに面白くない、水尾のように「なにかひとつのことに打ち込んでるのが心地いいからそうしてるだけだ」というところはない。

ただ職人というのはそういうものだと思うし、日本にはそうやって技術を磨き、とんでもないレベルに達している人たちがさまざまな分野にたくさんいる、ということが大事なことだとは思っている。

この「ふつうの軽音部」にしても、このブログにしても、そういうことを言語化しているのがとてもいいと思って、今回改めてそういうことを思ったのだった。

***

技術は継続した努力によって伸びていく、身についていくものだが、重要なファクターはまだある。それは才能と運、という問題だ。

昨日買った二冊のうちの一冊は「らーめん再遊記」11巻なのだが、これは「独創的なラーメンの天才・原田正次」をめぐるエピソードの後半部分にあたる。つまり、「才能」というものをテーマとして扱っているわけである。

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このマンガの主人公は芹沢というラーメン屋で、彼はこの長く続くシリーズで世間的に「ラーメンハゲ」と呼ばれているのだが、この物語は基本的に男臭い話で、芹沢の過去のすったもんだについて出てくることが多い。私は全部は読んでいないのだが、この「再遊記」のシリーズの途中から出てきた板倉和文という青年がなぜか気に入ってしまったので彼が出てきて以降のところを買って読んでいる。彼はラーメン屋の息子で大学生なのだが、グルタという名前でラーメンYouTuberをやっていて、ラーメンを作るスキルも批評力も知識もそれなりにある、というキャラである。

11巻の話は独創的なラーメンを作っていた「ニューウェーブ」時代の芹沢と因縁があった、というか芹沢スラが天才として畏怖していた原田という男の話で、彼は今は柴崎佐和子という酒場を経営する女性のヒモになって暮らしているのだが、25年ぶりに自分の店・「麺窟王」を復活するというのでグルタや外食コンサルの小宮山たちに手伝ってもらって店を立ち上げようとするのだが、そこに芹沢が因縁をつけて新作ラーメン勝負ということになる。しかし当日原田は逃げしまい、結局彼は才能と情熱の枯渇から逃げてしまっていて、いつまでも枯れた才能にしがみついているだけだったと芹沢に厳しく指摘されるわけである。

同席したラーメン評論家の有栖が、以下のような「才能」についての話をする。

「これはラーメンに限らず(中略)あらゆるジャンルでよくあることだけど」と前置きし、「大きな才能の持ち主が若くしてすごい仕事をやり遂げる。(中略)もっとすごいものを作ろうとしても作れず、それでもスタンスを変えずに上を目指すと、多くの場合、悩むばかりで何も作れなくなる」という。「そして時間だけが虚しく過ぎ、まだ十分に残っていた才能もどんどん失われていく」というわけである。

そして「何故なら、才能とはナマモノだからね。アイドルの可愛らしさやイケメン俳優の格好良さと同じく、賞味期限付きで天から授けられた幸運に過ぎない」と喝破する。「努力して身につけた技術はそうそう腐らないけど、才能は思慮深く扱ってやらないと歳月とともに腐り、朽ち果ててしまう。おそらく原田さんはこういう元天才たちの典型的な落とし穴にはまっているように思えたんだ」というわけである。

この話は非常に説得力があって、「才能とは期限付きで天から与えられた幸運」というのは本当にそうだなと思う。才能は、それが発揮できる環境・条件を意図して「思慮深く」維持していかないと、長く保ち続けることはできないし、それでもいつか無くなる可能性もあるわけである。

以前は「破滅型の天才」というものが持て囃された時代があり、若くして死んだ才能が偶像として崇拝されるということは今でもあるわけで、それが「SHIORI EXPERIENCE」のテーマでもあったりするわけだけど、一時的な才能に溺れてしまうと死なずに生き続けた場合は過去の栄光に縋るだけの人生になってしまうというのはあまりにもよく聞く話だ。そしてこの「ラーメン再遊記」も、基本的にはそういうラーメン業界に生きる男たちの「苦いドラマ」が中心になっている。

しかしこの「原田正次編」では芹沢にコテンパンに言われた原田が自分がそうなっていることを認めておわりかと思いきや、それを聞いて「本当に原田さんは才能も情熱も枯渇したのだろうか」と疑問に思ったグルタが小宮山のスタッフや柴崎を巻き込んで原田が手慰みで作った「生姜焼きラーメン」の店を出すという思いがけない展開になる。原田や芹沢たちはその場に踏み込むわけだが、グルタの作ったラーメンの欠点を指摘し、原田が自分で作った生姜焼きラーメンを食べて、芹沢は「今まで原田が作ったラーメンの中で一番うまかったと思う」という。

結局それをきっかけに原田は生姜焼きラーメンを出す店を作り、大繁盛するというこのシリーズには滅多にない完全にめでたしめでたしのオチになって、感動させられたのだが、これはグルタの行動力がそういう結果を招いたのであって、やはりこのキャラクターの評価が自分の中でさらに上がったのだった。

これはやはり、才能というものが一つの奇跡を生み出した話であり、またそれを見つけ出し育てる、手助けする人間があってこその開花でもある、という話でもあって、本当にいろいろなことを考えさせられた。

これらの話から才能や技術、努力や運や運命について一般論を導き出すのはまあ蛮勇ではあるのだが、一つ言えるのは、もちろんこれらがマンガだから、ということもあるけれども「出会いが人を変える」ということが一つある。そして「人を変える力を持つ人」というのは確かにいるんだなということで、それを「ふつうの軽音部」の幸山厘は「神」と表現するわけだが、確かにそれはある種の神がかり的な何かの力かもしれないとは思う。

この二つの話でその力を持った鳩野とグルタは両方とも「自分の好きなことに一生懸命」であるところが共通しているのだと思う。人を動かしたり、ひいては世の中をポジティブに変えていくというのは、おそらくはそういう人たちで、例えば「安倍晋三回顧録」などを読んでいても、この人は本当に政治が好きだな、と思うところがある。好きでもない映画の評論を書いて作品やムーブメントを否定するようなインフルエンサーも世の中にはいるが、そういう人が世界をポジティブな方向に変えていくことは決してないだろうと思う。

いずれにしても、才能も技術も努力も、場合によっては運や出会いさえも人間は「自分次第」のところはあるだろう。せっかく人間として生まれた以上は、そういうものをフルに活かして生きていきたいものだと改めて思った。


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