教養とは世界を認識する枠組み:テクノロジーはいかにすれば新しい教養と融合しうるか

Posted at 24/08/23

8月23日(金)晴れ

教養とは何なのか、ということについて考えていたのだけど、教養とは知識ではないだろうと思う。教養とは世界を認識する枠組みのことであり、それが我々人間が築き上げてきた文化や文明の知見に基づいてより妥当な形で構成されていることを「教養がある」というのだと思う。

逆に言えば、世界を認識する枠組みは、誰でも持っている。もちろん子供でも、自分の身の回りのことしか本当にはわからないが、世界はどうなっているかということを子供なりに知っている。それは両親や周りの人間から与えられる情報や、彼自身の「個性」から生まれる興味関心などによって選択された対象から得られたものから構成はされている。子供が得られる情報や知見は大人になってからは失われてしまうようなものもあるし、そういう意味では子供も子供にしかない「世界観」を持っているとも言えるのだが、概して他人と共有しにくいものであることは多く、そういう意味では「教養」とは他人と共有できるもの、という前提を持っていると考えられる。

また陰謀論に囚われている人や、人にまゆを潜められるような意識の高い考え方を持っている人たちにしても、そこには独特の世界観があると言える。概ねそれが妥当なものであればより広い次元での教養に加えられる場合もあるし、さまざまな検討が重ねられるうちに捨てられていく場合もあるが、「教養は他人と共有しうるもの」という前提から考えてみればわかるように、ある一定の民族性や時代性、党派性などの「人々のグループ」の中で共有されるものがその集団における基本教養を成している、という面もある。

いずれにしても教養は世界を認識する枠組みをなすものであって、その枠組みは主に言葉によって表現されるから、「共有されるべき言語で書かれた作品」を読んでいることが「教養がある」と表現されたり、また生活の仕方について身の回りのことが常識的にこなせる「しつけ」や国家によって標準的な国民としての教養を身につけさせる「教育」によってその基礎が築かれているものでもある。

テクノロジーが今ほど発達していない時代には、文系的な教養がその大部分を占めていた。それは、人間はどう生きるべきかという倫理の問題や、社会はどうあるべきかという正義の問題、人類は何を目指すべきかというある種の真理の問題などについてそれなりの考え方を持っていることが人間という社会的動物が家族や集団あるいは共同体、国家や世界などを生き、また運営していく上で重要だと考えられていたからだ。

テクノロジーというのはそのための手段であると考えられてきたわけだが、現代では「手段としてのテクノロジー」を超えた部分が出てきていることは感じられるし、理系優位の時代というのは「紙とエンピツ」でしか世界を認識できない従来の文系教養のあり方を素朴視して、新しい技術によって新しい世界認識が創造できる、と考える人たちが出てきたということかもしれないと思う。

昔はそうしたテクノロジーはたとえば超絶技巧のピアニストや人間の限界を超えたアスリートたちの生み出すもの、あるいは彼らの触れた世界のようなものとして教養の一部になっていたのだと思うけれども、現代のテクノロジーは原子力利用などの巨大システムやインターネットや人工知能などの知に関する知見の根本的見直しを迫る技術、認知科学などの人の認識そのものの仕組みを見直す理解など、従来の教養体系を解体再構築するような方向で発達してきている面があり、その辺りが従来の文系教養というものをアウトオブデートなものだと認識させている面があるのだろうと思う。

しかし実際にはそれらを使うのは人間である、という部分が変わっているわけではなく、魔法使いの弟子が魔法を使いこなせずに大変なことをしでかしてしまうというような技術や認識の未熟によってしでかされた世界史上の出来事を克服していけば良いという部分はまたあるだろうと思う。

しかし一方では新しい技術の誕生が世界を、特に人間世界を変えてしまうという面があるのも確かであり、例えば文字の発明によって鬼神たちが自らの消滅を嘆いた、という蒼頡の鬼哭啾々の説話にもあるように、新しい時代には新しい時代の認識の枠組みが必要になってくるということは確かで、これから教養の体系に組み込まれていくべきものの多くの部分は理系的なものである、ということもまた確かなのだろうと思う。

ベンヤミンが「複製技術時代の芸術」という論考を残しているように、新しい表現形態が起こるときには、従来の表現形態も含めて見直されて、新しい認識の枠組みが与えられていくことになる。逆に言えば、その認識の枠組みの変更を迫ることがないような技術は、本当に世界を変えたとは言えない、とも言える。

おそらくは原発のような巨大システムやAIのような新しい知の可能性、認知科学のような新しい認識についての考え方について、それを教養の側から人間の世界に包摂しようとする試みはまだ完全にはうまくいっていないのだろうと思う。そこに教養軽視論が起こる最大の理由があるようには思う。

新しい世界には新しい認識の枠組みが必要で、それが従来の教養の延長線上にないものだとしたら、それは教養というもの自体の耐用年数が期限切れになったと考えざるを得ない面はある。しかし世界において本当にはそうはなっていない、いまだに人間とはという考え方についての教養は世界的に見ても旧教養に依拠して成立していると思われるから、新しいテクノロジーの側も教養の底力のようなものを軽視するのもあまり良い策であるとは思えない。

現状どちらの側の不信感も強いようには思うが、現実問題としてはそれらの橋渡しのできる人材が求められているのだろうと思うけれども、AIなどの技術がそれが不用のように思わせてしまうのはあまりいい状態ではないという感じはする。

たとえば戦争や大災害のような本当に人間的なものの基盤を全て奪うようなことが現実に起こらないとそこまで振り返る機運が生まれないのかもしれないのだが、マンガや小説などの表現の中にその検討が行われているものもあるように思うし、そういう意味でもフィクションを含めた表現の可能性を尊重していくことは重要だろうと思う。

小林秀雄などはその人間的限界の拡張みたいな方向性を一つは芸術の方向性に見ていたのだと思うけれども、立花隆などは脳死や宇宙飛行士に関心を持ったように、科学技術の方向にその目を向けていたと思う。亡くなられた松岡正剛さんは工作舎などの出版活動を通じて、どちらかというとスピリチュアルな方向に人類の拡張の可能性を見ていたのではないかと思うのだが、現代にもそうしたテクノロジー的現実に対応した教養の拡大の可能性について考察していく人が現れることは重要だと思う。

そういうものの見方というのは専門性の枠組みを超えていくことが必要なので、専門性信仰が高まっている現代においては胡散臭い試みに見えてしまうという弱点はあるし、SNS時代にはそういう人々からの批判も強く受けやすいという問題もあるのだけど、文系と理系の枠組みを超えたところで新しい教養の構築はなされていかないと人類の未来は暗いようには思うので、そういう方向からいろいろ考えていきたいとは思っている。


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