雑談家・座談の名手・専門家の信用できなさ・知の巨人・全てを知りたいという欲望

Posted at 24/08/22

8月22日(木)曇り

朝からいろいろ考えたいたらブログを書くのが遅くなった。昨日はなんというか午前中は腹痛と下痢症状に苦しんだ感じだったが、整体で心配事が影響していると言われて、とりあえず体調を整えつつ心配事を解決していくしかないなと思った。今朝は早めに起きたがずっと曇っていてあまり暑くない。とはいえ最低気温は23.7度もあって決して涼しい気温というわけでもない。でも直射日光が当たらないというだけでだいぶマシなんだなと思う。冷房を入れなくてもサッシを開けて風を通すだけで寒く感じるくらい。

ネットを見ながらいろいろなことを考えて、その中には文章を書く材料(ネタ)になるような思考もあるのだが、そういうものをちゃんとメモしないでなんとなく頭に留めたまま他のものを読むうちに忘れてしまう、みたいなことがよくある。その程度で消えてしまうような思考なら大した材料にはならないか、と思うところもあるのだが、そういうのと似たようなネタがネットで受けているのをみるとしまった書けばよかったと思うことも多々ある。

私は「雑談家」とか「座談の名手」みたいな人が割と好きなのだが、最近なかなかそういう人に会わない感じがする。ネットではそんな動画やポッドキャストはたくさんあるのだろうと思うのだが、昔読んだような小林秀雄と誰かの対談みたいな面白さはそんなに感じない。まあ上品なやり取りの中に人生の本質が浮かび上がるような対談みたいな、「伊集院光の100年ラジオ」でやってるような座談みたいなものも、最近はなかなか聞かない。バラエティ番組みたいなものは基本的に苦手だし、それをネット化したYouTube動画みたいなものも基本的にあまりみる気がしない。ならば自分で作ればいいのではないか、と思わないでもないが、「対談」というものは雑誌にまとめたものを読むのが一番面白い気もする。

小林秀雄の戦争協力への反省について聞かれた時に答えた言葉、「僕はバカだから反省なぞしない。利口な奴らはたんと反省するがいいさ」みたいな名言というのはやはり対談だから出てくるという面もあり、対談文化みたいなものそれ自体は大事だろうとは思う。

基本的に専門家というものが信用できない、みたいな話があって、パンデミックで出てきた感染症の学者や病理学者、ウクライナ戦争やガザ戦争でコメントする国際政治学者、そのほかいろいろと賛否両論がある人たちがあるのだが、これはどの分野の人でもその専門分野における常識というものが、逆に一般常識とはずれがあるというあたりに問題があるのだろうと思う。あとは、基本的に左翼系の人の言うことはあまり面白くない。何かの公式が裏にあるような感じでものを言うからだろうと思う。

だからTwitterでもそうだけど、右派や保守系の人たちのいうことを読んでいる方が面白いということになる。もちろん専門家の知識というのは端倪すべからざるものがあり、その話に強烈な面白さがあることはよくあるのでフォローしている人も多いのだが、ツイートに常識的なコメントをつけたら腹を立てたのかブロックしてくることもよくあり、知識と人格は必ずしも同期しないのだなあと思ってしまう。専門家だからそれなりに識見はあるのだろうと思うけれども、識見は知識だけでなく人格に基礎付けられている部分も大きいわけだから、そのあたりでその人の意見を割り引いて聞いてしまうこともよくあるわけである。

「知の巨人」よりもその道の専門家、という話があってそれはまあ事実であるにしても、やはりある種の全体教養みたいなものを持っている人の考え方というのは聞いておきたいものを感じることは多く、それが昔は小林秀雄のような文学系の批評家である時代があったのだと思うが、そのあとは立花隆のようなジャーナリスト、(この系譜は田原総一朗とか池上彰につながる)松岡正剛のような編集者がその位置を占める感じの流れもあったかなと思う。あとは養老孟司や内田樹といった何にでも口を挟む感じの学者さんたちというのもあるが。

小林の流れを汲むのは江藤淳とかだと思うが、小林がそんなに政治性は感じさせないまま保守の重鎮という感じであったのに比べ、江藤は日本国憲法批判もあってやはり右がかった印象があって、その辺りは少し損はしているなという印象はある。小林ももちろん、彼の美術論や音楽論などは今の水準から言えばそう高いものではないのだろうけど、彼がそれらを鑑賞してどう感じたかということ自体が一つの真実ということもあって、また文章の決定的なうまさというものが読みそのものの快楽を生み出すという点で批評的な意味だけでなく文章それ自体が価値を持つようになる。

「知の巨人」という言い方そのものはもはや滑稽なものでしかないのだけど、それでもこの世界に生きる一人の「知りたい」という欲望を持った存在として、自分なりの知の体系によって世界を捉えてみたいという欲望は私などには強くある。

松岡正剛さんの訃報を聞き、いろいろと思うところはあったのだがどのような文章をどう書けばいいのかわからず、書き出してみたらこのような文章になった。彼の業績にいろいろと思うところはあるものの、「全てを捉えたい」という欲望に関しては先駆者の一人だとは思う。ご冥福をお祈りしたい。


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