弥助問題に見られるアイデンティティ政治に対抗する日本人の「公共性」/創作の地獄を描いた「神作家・紫式部のありえない日々」

Posted at 24/07/27

7月27日(土)晴れ

昨日は午前中に母を病院に連れて行き、その後ツタヤに行ってコミックゼロサムを買って帰った。この中では「神作家・紫式部のありえない日々」が面白かった。

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紫式部の局に、突然源俊賢が来訪する。俊賢は物語に政治的な狙いがあるのではないかと疑って彼女を問い詰めようとするが、その話の中で「須磨」の話になり、これが彼に刺さるのは俊賢の父の源高明が太宰府に流され自分もついていったから、であることが明らかにされる。そして結局中央正解で復活できなかった父によって、俊賢は「出世のために」二世皇子(醍醐天皇の孫)の身でありながら、大学寮に通わされた(通常大学領に通うのは中流貴族のみ)ことがトラウマになっているという話が出てきた。

これは明らかに光源氏が葵上との息子の夕霧(同じく二世皇子)を六位に留め、大学寮に通わせた内容が書かれる伏線で、この「少女」の巻で光源氏は、自身の教育観を述べる。それは「大和ごころ(実務能力)だけでなく漢才(漢学・律令制や漢詩の知識)も上級貴族にとっても必要だ」と述べることで、俊賢の心にも届く内容になるだろうことが推測されるわけだ。これは源氏物語の展開を多少知っていると大変納得できる話で、まさに神回だった。

そして俊賢の話を聞いて紫式部は創作意欲を抑えきれず、取り憑かれたように物語を書き始める。そして「人の不幸や屈辱の話を聞いて同情する前に面白いと思い、物語に生かそうと思ってしまう自分」を「地獄に落ちるのではないか」と思う。紫式部は架空の物語で人々を惑わせたために地獄に落ちたというのは能(謡曲)の「源氏供養」に出てくる話で、そこまで設定を生かしているわけだが、つまりこれは創作に関わる人全てが感じるのとおそらくは同じことで、作者さんの感じている「創作の罪深さ」の告白でもあるのだなと思った。

源俊賢は一条朝の四納言として知られ能吏であったわけだが、この時期には権大納言で、そのさきも正二位民部卿が極官であり、父のように大臣の位には登れなかった。光源氏のモデルとして一説に源高明があったが、こういうことが根拠になっているのかなと思ったり。

私は「光る君へ」は録画はしているが紫式部像がどうも気に入らないので結局ほとんど見ていない。こんな飛んだ(道長の娘を産んでしまうような)女よりも「神作家・紫式部のありえない日々」のオタク同人女としての紫式部の方がずっと面白いと思う。それがついこうした政治の中枢に知らずに踏み込んでしまう、という設定が割と最高だなと思った。

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余談だが、今amazonのリンクを貼っていて、コミックZERO-SUMがKindleだと509円、紙版だと820円であることを知った。私は必ず紙で買っていたのだけど、これだけ違うとKindleも考えたくはなるなと思った。紙だと付録が挟まれることは多いのだけど、それが欲しいかどうかはその時にならないとわからないから、今後は少し考えるようにした方がいいかと思った。

***

パリオリンピックが始まり、開会式でジジ・ジャンメールのオマージュをするレディー・ガガやら、刑死の直前まで収容されていたコンシェルジェリ(監獄、もとはフィリップ4世の王宮)の窓から自分の首を抱えて現れるマリ・アントワネット、開会を歓迎するかのようなTGVにかけられたテロなど、昨日までTwitterを賑わせていたアサシンクリードの弥助の話題はだいぶ下火になったようだ。

私はこの話題をキャンセルカルチャーなどアイデンティティ・ポリティクス(政治)(ないし党派性)の問題と捉えて色々と書いてきたのだけど、アイデンティティ・ポリティクスないしはアイデンティティ戦争を客観的に捉える視点が一つ必要であるとともに、日本の、ないしは日本人のナショナルアイデンティティをさらに高め、ないしはより語られやすく整えて強くしていくことをもう一つの柱として考えていたのだが、その辺のことを考えながら論者の発言を色々調べてみたら、アイデンティティ政治に対抗する考え方として「公共性」の概念をあげている人がいて、ちょっと虚をつかれて考え始めてしまったのだった。

確かに、アイデンティティ政治を当派生と考えると、それに対置されるものは「公共性」ということになる。しかし、公共性とはなんだろうか、と考えてしまったわけだ。

そう思ったのは、「公共性」という言葉が自分の中で割と嘘くさい概念だったからというのがある。そういうこともあって今まであまりきちんと考えてこなかったのだが、少し考えているうちに、自分なりに納得のいく言葉や概念として育てておいた方がいいんじゃないかという気がしてきたわけである。アイデンティティ政治の党派性を超えうる概念ではあるよなあと。ただハーバーマス的な胡散臭さというか、左派的な議論に回収されてしまうのではないかなどと色々考えたりしてしまったわけだ。

とりあえず概念として考えてみると、「広く受け入れられ、かつ広く受け入れること」が公共性かなとか思う。そして、この公共性というのはおそらくは「市民的(左派的)正義でもありかつ国民的(右派的)正義でもあるもの」でなければならないだろうと思った。

公共性という言葉が胡散臭いのは、「理想としてはわかる」感があるということ、そして左派の理想というのは概ね言いたいことはわかるけどそれはどうなんだと思うようなアイデンティティポリティクス的なものが強くあるから、公共といってもそちらの方を強化するような使われ方をしてるだけなんじゃないかとか、色々考えたわけである。

「理想」に対置されるのは「現実的に役に立つ」ことであるとすると、「公共」とは「役に立つ」ことだろうか。「公共性のある学問」というのはおそらく求めるべきものだが、「役に立つ学問」とどう違うのか。おそらくは同じではない。

資本主義に公共性はあるのか。私的な利益を追求することが全体利益につながる、という考え方は公共的であると言えるのか。などなど色々考えたわけである。

https://webgenron.com/articles/article20210917_01

宇野重規氏によれば、「仲間との関係を優先する[……]立場が保守と、普遍的な連帯を主張する[……]立場がリベラルと親和性をもつといえる」と言っているようだが、そうなると私が考えた「広く受け入れられ、かつ広く受け入れる」という公共概念は、リベラルないし進歩派のものだということになる。

しかし、「公共事業」とか「公共施設」などという言葉を考えればわかるように、そういうものを建設し実行してきたのは、日本の場合は明らかに「保守」政権である。つまり、現実には「日本において公共性の担い手は保守政治」なのであり、その公共建築や公共事業を削減しなくそうとしていく方向性が民主党というリベラル政党の政策だったわけである。

しかし民主党政権は「コンクリートから人へ」を唱え、公共施設や公共事業を削るとともに、NPOなどに福祉政策などを肩代わりさせる方向を始めさせ、その結果は現在「公金チューチュー」と呼ばれるような福祉利権に成長して、公共空間を広げるどころか閉鎖された彼らの仲間を増やすことに税金が投入されている現状になっているわけである。つまり、リベラルこそがある意味反公共的な方向性を持っているということになる。公共事業が不当に抑制されたことが、現在の災害の多発と関係ないわけではないだろう。

また一方で維新の会などは「文化」という意味での「国民的な公共性」を削減することに力を入れている。今「国民的」という言葉を使ったが、「公共性はどの範囲で共有されるべきものか」という問題はある。

日本は基本的に外に開かれた国ではない。それは韓国や北朝鮮、あるいは中国もそうだが、東アジア文化圏の一つの特徴かもしれない。移民としては外国に出かけていく人たちはそれなりに多いが、移民として多くの外国人を受け入れる体制にはなっていない。それでも日本にはかなりの外国人が多くはなってきたが、少なくとも国民的コンセンサスとして「国を開いていくべきだ」とは考えられていない。

その背景にはヨーロッパやアメリカなどの先進西側諸国で行われてきた大々的な移民政策の現在があるわけで、どの国も移民の圧力に苦しみ、ポピュリズム的な排外主義が高まっているのが現状だと言える。そうした中で積極的に国を開いていくことにメリットを感じていない人は多いだろう。

実際のところ、昨日まで色々書いていたアサシンクリードの弥助問題についても、多くの人はドメスティックな議論に囚われていて、そのさきのDEIポリコレの世界的な問題などについてはあまりピンときていない人が多い。この問題は日本国内で収まる問題ではないのだが、ロックリー氏の解職要求など従来のキャンセルカルチャーや史料読解問題などドメスティックな次元の部分が盛り上がってしまっている感じはする。世界的な意味でのこの問題のアイデンティティ政治、つまり党派性の問題と、世界的レベルでの公共性の折り合い、日本が主張すべきナショナルインタレスト(国益)やナショナルアイデンティティの問題にまでなかなか全体像が描けないのが実際だなと思った。

それでも多くの人は「自分は公共的な議論に参加している」と思っているわけで、やはり現状日本人にとっての公共の範囲というのは基本的には日本国内であり、外部から持ち込まれたフェミニズムやトランスジェンダー運動、BLM運動や「黒人に力を!」運動などにはやはり警戒心が強いのが現状だろう。

そういう次元で言うと、日本の文化というのは日本国民の共有財産であると言う意味での高い公共性を持っているわけであり、これが今回「日本の歴史を守れ」という荒唐無稽な弥助言説への反発となって現れたのだと思う。日本人のナショナリティを守ることこそが、日本国民レベルでの絶対的な公共性であるわけである。

ただ、「文化という公共性」の概念において、実際には現状の日本では、政治や経済の部分でのインフラストラクチャー、つまり公共性は保守=自民党が担っていて、文化や組織労働などのより枝葉の部分では左翼リベラルの影響力が強いという問題があるわけである。「文化」「学問」「大学」などが攻撃されるのは、それが不要だからと本気で思っている人はそう多くはなく、そこが日本のナショナリティを危うくするリベラル人士の寄生場所だからであり、今回の弥助問題などでも筋の通った反論ができる日本史学者がもしいたら、そうした学問についてもっと見直されただろうにと思うと大変残念ではある。

そのほか、そうした保守政権による公共性=インフラ構築はどこから始まったのかとか、(私は原敬が全国の中学校の数を倍増させた重要だと思うが、もっと遡れば松方財政による国家財政基盤の確立によるその後の鉄道の国有化、これは中央集権が意識されたものだと思うが結果的には国が公共を担う体制を作ったと思う)など色々論じたいことはある。

「公共」を担うのは最上位の権力によるというテーゼを考えたが、そうなるとアメリカにおいては最上位の権力はインフラ資本家(鉄道、通信網その他)だなとか国連機関が援助でインフラを構築するような地域においては国家権力が確立できないなとか、アフリカや南アジアなどで中国のインフラ構築やロシアの軍事的インフラ進出などもその意味があるなとか、日本の援助が野心がないことが逆に問題なのではとか、考えることは多い。このレベルでは新しい公共という言葉について考えたことなどもある。また日本人が世界レベルの「公共性の主張」にどう対していけばいいかなどの問題もある。(基本的に世界政府はないのだから世界的な公共性というものは未だ確立しておらず、雰囲気的なものしかないので、風向きをどう利用しどう対抗するかという問題になると思う)

また、日本における情報、特に書籍レベルの蓄積された情報ないしコンテンツにおいて一番普及度の高いのはマンガであり、そういう意味で漫画文化こそが公共インフラになっているのではとかでもそれに乗っかろうとしても「マンガで読む日本経済」とかは売れないなとかも考えたりした。

この辺りはまた先に書くテーマとして考えておきたいが、今朝考えたことを簡単に書いてみたわけである。

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