オタク対サブカル:「ふつうの軽音部」のキャラの造形/好きなことで生きていく/「思想強め系」の人たち/普遍性と男性性/状況に対応する

Posted at 24/06/19

6月19日(水)曇り

昨日は体調を戻しながらいろいろやっていたが、大雨。用事がいくつもあって午前中にまず近所の人の弔問に葬祭場に出かけ、ご挨拶。大雨の日に黒い服で出かけたからちゃんと乾かさないといけない。それからスーパーで少し買い物をし、ツタヤに行って「龍と苺」の16巻を買った。帰りにクリーニングに寄って預けていたものを受け取ったのだが、直しを依頼していたのでその代金も払う。

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クリーニング代や繕い代などを含めると新しいものを買った方が安くなる感じはあるのだが、中途半端に汚れたほころびのあるものばかり増えても仕方がないので、なるべく安い服でもそうやって長く着ようと思っている。昔はどちらかというとダメになったら新しいのを買う方だったからそういうものが多く残っているということもあり。

仕事はなんというかペースが変わった部分があり、新しい状況にどう適応して仕事をするのかを模索していた感じがあった。まあずっと状況が同じということはあり得ないのだけど、その時の状況でフルにベストのレベルに持っていくにはいろいろと立ち位置そのものをいじる必要がある時があるので、まあプラン・ドゥー・シーという感じではある。

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「ふつうの軽音部」のハトノの新しいバンド、「はーとぶれいく」のメンバーについてああでも内向でもないとよく考えるのだが、一つの対立(?)軸として「オタク対サブカル」というのはあるなと思った。ロックオタクのハトノとこじらせサブカルの彩目である。これはバンド名を決めるときに如実に現れ、彩目の出した「11月とサビ猫」という案にハトノが「なかなかやってる」と揶揄的に評し、「オノマトマニア」というハトノの案に「知的ぶったオタクが好きそう。センスいいでしょみたいな雰囲気が鼻につく」と彩目が酷評するという展開は可笑しかった。

まあオタクは知識や知性を誇り(鼻にかけ)、サブカルは雰囲気を重んじて「〜ぶる」のを「独りよがり」と断ずる傾向がある、みたいなのは多分あるあるだと思うのだが、それを二人の個性の一部として昇華しているのは上手いなと思った。

26話はそれぞれのタイプをわかりやすく提示していて、ハトノはオタクで対人的には弱気で肝心なことを言葉でちゃんといえないところがあるが内面的には一本気で真面目で熱い。彩目はサブカル気質で毒舌の批判家だが余計なところをぶった切って話を進める能力がある。ただ肝心のところで勉強嫌いor頭が悪いので「ハートブレイク」が失恋とか傷心という意味なのに気づかない(振られたばかりなのに)、という抜けたところがある。

また桃は元気でミーハーなところがあるが、良くないところはズバッと注意するし、リーダーとしての資質を持っている。消去法で、と言いながら、彩目は桃のそういうところを高く買っているということなのだと思う。一方、厘はこの作品で最も特徴的なキャラの一人だが、おっとり長身美人ベーシストというハネマンはありそうなビジュアルキャラなのに策謀家でありかつハトノに信仰に近い気持ちを持っていて神と崇めている(が話は聞かない)。基本的にこのメンバーを集めたのは全員厘からのアプローチであって、そういう意味ではプロデューサー気質と言える。「いや(文化祭に)出る。どんな手を使っても」と厘がいうと「どんな手なんだ・・・」とみんなビビるが、まあ結果オーライで何とかなるんだろうとキャラたちも読者も思わせてしまうところがある。やはり影の主人公というかフィクサーがいるマンガである。(女子高生フィクサーとか今まで読んだ作品にはなかった気がする。)

「ふつうの軽音部」はサブカルやオタクやミーハーや彼氏彼女目当てのメンバーやガチのプロ志向や純粋な音楽好きなどいろいろなメンバーがごった煮になっている全く未成熟な闇鍋みたいな状態で、美術部や漫研などとは違いさまざまなキャラが集まりがち(ロックやポップス好きが多いのは間違いないだろうけど)だから、こういう人間関係の妙のようなものも描きやすいんだなと読むにつれてどんどんわかってくるところが凄いなと思う。この作品は思った以上に「企み」がある作品であって、それが順調に表現されてきているのは「やってる(いい意味で)」なあと思うのだが、まだまだいろいろなことを読んでいけそうで楽しみである。

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「日本では好きなことで生きるのは難しいが、アメリカでは多くの人が好きなことで生きている」みたいな話を聞くことがあるが、それはどういうことかというのを考えてみた。

「好きなことで生きる」というのは例えばマイナーな分野の研究だとか、趣味をこじらせてそれに本格的に取り組んでしまったケースなどを指すのだと思うけれども、そういう分野は逆にいえば新たなブルーオーシャンである可能性もあるし、人を惹きつける可能性がある分野でもある。

それに国家や資本が食指を動かす状況が、例えばアメリカにはあるということなのだろうと思う。

やりたいこと(金にならないこと)で食っていける国というのは、そもそもそういうことをやる人が国家ないし企業が必要とするから金を出すわけで、国家や資本主義を抜きにして「やりたいことで食っていく」ことなど考えられない。まさに近代以後の、広範な世界や領域が国家や資本家による関心対象になっていればこその状態だと言えるだろう。

だからこれはフランス革命・産業革命以後の現象だ。それ以前の学問はや「やりたいこと」の実践は基本金持ちか夢想家の道楽だった。

前近代では国家はそんなことには基本的に無頓着なので、教会やお寺、つまり宗教がバックにいた。初期のカルト的な状態を脱した洗練された宗教団体であるお寺や教会は文化力が勝負だから、そういう「文化人」を積極的に取り込んでいく。ギリシャ哲学がイスラム経由で西欧にもたらされ、カトリックの精緻なスコラ学理論に結実していくのもそういうことだろう。

だから「やりたいこと」のパトロンは中世以前は宗教、近世近代以降は国家や資本、ということになる。伊能忠敬なんかは幕府がパトロンだったわけだし。

現代世界においても、日本は世界の諸地域研究の広範さにおいてアメリカ・イギリスに次いで3番目だという話があり、noteやTwitterなどをみていても「アフリカ情報」なども割合日本語で手に入る。「何やって食ってるのかわからない人」も実は日本には結構いて、最近は社会運動系の団体の補助金使用のルーズさなどが指摘されているが、ああいう放漫さによって好きなことやって暮らしている人というのは割といるのではないかと思う。

まあ、「好きなことで食っていく」ことを第一義にするなら結局は日本でうまくシステム化されたものに乗るか、でなければ外国でそれにトライしてみるということもあり得るということで、その際に国がどうとかということはあまり関係ないだろう。どの国や大小の資本、あるいは団体が何を、どういう分野のどういう能力を必要としていてどういう人材を求めているかをうまく掴めれば、「自分の好きなこと」で生きる可能性は広がるだろうと思う。

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「おたくvsサブカル」という構図でいえば、フェミニズムなど思想強め系の話でも似た構図があるなと思った。アカデミア系の私はフェミニズムに詳しいですよ系のフェミニストはフェミ知識で殴ってきて最終的な武器は「勉強が足りない」「〜を読め」というオタクが入った西欧啓蒙的植民地主義知識人ムーブになるわけだが、エピゴーネンはサブカル的に「ジャップオスは悪」的な雰囲気ムーブで暴れるわけである。

対するネトウヨの側も理屈でガンガン殴るタイプが多いが論理矛盾や間違っても謝らないフェミムーブを「頭の足りない連中」とオタク的上から目線で殴るかいわゆる冷笑的な揶揄をぶつけたりするわけである。なぜフェミの側が「毒舌」と言われネトウヨの側が「冷笑」と言われるのかは分析課題ではある気がするが、「毒舌サバサバ」が「解放された女性」のある種の理想(低いが)だからだろうという気はする。それを受け入れずに懲りずに上から目線でマンスプを続ける男は現実を見ないシニシストだ、という意味なのかなと思う。まあこれは呼ぶ側の文脈なのでそれに乗っからないとわからないわけだけど。

まあつまりはフェミもネトウヨも同じようなものであり同じような傾向で分析可能だと思われるのは、まあ同じ時代を生きている人たちなのでそんなには違わないということなんだろうと思う。

コロンブスのMVに批判が起こった時、多くのオタクが批判側に乗ってしまったのは、「コロンブスは悪だ」という最新の「知識」をオタクが中途半端に飲み込んでしまっていたからであって、知識で殴られたら仕方ない、みたいなところもあったのだろうなと思う。その知識そのものの信憑性を吟味していくところまでいかないのがオタクの限界みたいなところはあるから、より「本当はどうか」を掘り下げていく思考は常に必要なのだと思う。

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フェミニズムっぽい思想の人たちのいう「女性のための哲学」みたいなものがなぜ胡散臭いのか、ということを思っていたのだが、雁琳さんの以下のツイートを読んでなるほどと思うところがあった。

https://x.com/ganrim_/status/1803043148446437694

つまり、昔から哲学とかをやっていた男性たちは普遍性を追求してきたわけで、その普遍性というのはフェミニズムのいうところの男性性の中に内面化されていった面がある、ということなのだと思う。

もちろん普遍性というものは男女に関わりのないものだから女性が参入することも当然可能なのだが、男性の立場から考えられた部分がふつうに混じっているので、そこに拒否感を感じてしまう場合もあるかもしれないとは思った。ただそれは哲学者の個々の言説には当然ながらその哲学者の個性が反映されるわけで、男性性のように見えるものはその一部に過ぎないのだと思う。だから女性哲学者が自分の哲学を構築する上でそういうものは批判的に扱っていけば済むだけのことなので、大した問題ではないと思う。

逆に、普遍性そのものが男性性である、という形の排除が現代では始まっていることの方が問題であって、アメリカンデモクラシーは植民地主義の刻印が押されている(から無価値である)とか歴史学の史料主義は文書を書いた人が男性に偏っているから無価値である(だから現代の女性の立場から状況の再現を図るのは正当である)のような取り違えた議論が起こってしまっているのは学問や民主主義にとってよくない話だと思う。

「学問の普遍性」そのものを批判するというのがつまりは「言語論的転回」以降の諸学問の傾向だと思うのだが、やはり普遍性そのものはあると思うので、その辺りの理論構築が今は進んでいるのではないかという気がするし、フェミニズムによる批判というのは例えばプルードンの「財産とは窃盗である」という資本主義批判と同じくらいには意味のないことではないと思うけれども、本来限定的なものだろうと思う。

世界はより危機の状況に向かっているという雰囲気もある一方で、本道に回帰するベクトルもそれなりに働いている気はするし、まあ長くもない人生のうちにどれだけのことを経験できるかは、楽しみにしていきたいと思ったりはする。

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