「人が好きなもの」を相互監視している現代という時代に/「人類に貢献する学問」にお金を出すのは国家の役割か/五月晴れの日にサッシと襖と障子を開け放つ
Posted at 24/06/12 PermaLink» Tweet
6月12日(水)曇り
昨日は天気が良く、近くで工事は行われていたもののあまり大きな音はしなかったので、サッシを開け放して(網戸はしていたが)襖も障子も開け、裏から表まで風を通していた。ずっと閉めていると家の中が湿気てくる感じがするので時々やりたいのだが、網戸はしていてもどうしても室内に虫が入ってくるので、気をつけていないといけない。築五十年以上経った在来工法の家だし、裏山の麓にあたる場所で地下水の流れもあるところなので、地下水量により地盤の高さも変わったりもするのでどうしても家全体に歪みがあり、隙間が多い。今と違ってベタ基礎ではないからそういうこともあるのだろうと思う。
私の子供の頃は私は住んではいなかったが祖父母が住んでいて、小学生の頃までは明治に建てた伝統建築だったのだけど、それを建て直して新しくなって、それからもう50年以上経っている。お金があればいろいろやりたいこともあるが、この家を建て直すというのもその一つではあるのだけど、今では新しい家はどこも新建材のパパッとした家ばかりで、それなら今の方がマシかなと思ったりする部分もあっていろいろ複雑だ。
子供の頃の祖父母のことを少し考えていて、私がいとこの女の子と遊んでいて腕を引っ張って脱臼させてしまったことがあり、その時祖父にゲンコツを食らったことは今でも覚えている。なので私にとって祖父は怖い存在なのだが、話を聞くと婿養子に来た人で主張の強い祖母になかなか苦労したような話を聞いて意外に思った。ただまあ、今でも祖父が怖い人だと感じているというのは悪いことではないなという気もしている。祖母は直系の孫である私には優しくて、大学の入学祝いに百科事典を買ってもらったり、農協で保険をかけてくれてあったりして、大事にされたという印象が強いのだが、他の人には主張の強い人であったらしいことはそれも亡くなった後に聞いたことである。今日は旧暦五月七日。雨が降れば五月雨、晴れたら五月晴れである。
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https://x.com/tezukakaz/status/1800141560425906405
学者と役人の「社会の/人類の役に立つ学問」に対する考え方の違い、というのを読んでいて思ったのは、国家が国家国民の役に立つ学問にお金を出すのは当然として(それすら不十分だと思うが)、「(国家を超えた)人類に貢献する学問」に誰がお金を出すべきか、という話なのだと思った。日本の学者は当然それは国家が出すべきだと思っているのだけど、それは必ずしも世界的な共通認識ではないのではないかと思う。
まあユネスコなどの国際機関が主導するような意味での人類への貢献に関しては基本的に国家が資金を拠出し篤志家の寄付はその次、という感じだと思うけれども、例えばアメリカなどはユネスコの方針に反対であればお金は出さないので、必ずしも国家がやるべきことだと彼らは認識していないということになる。
「人類への貢献は国家が担うべき」というのは国家が社会を統御する形で形成されてきたヨーロッパ諸国においてはそうしたことも国家主導で行われるべきという感覚であり、日本もまたその形で大学や学問も形成されてきたわけだけど、最近「反東大の思想史」を読んでいて国家が有為な青年を育てるのは必ずしも当然なことではない、という福沢諭吉の主張を読んで学問に関してもそうなんだろうなあという気はしてきていた。
実際のところ、社会が国家を「作ってやった」感じのアメリカなどでは(大阪商人とかもそうだが)野口英世を採用したロックフェラー研究所のように、成功した資本家が主導して文化を担い、人類に貢献するというのは当然だという感じがある。冷戦時代に宇宙開発を米ソの両政府が主導したような特殊な状況が我々の中で一般化されてしまっているから国家は人類に貢献するのは当然という感覚があるんだなと思うのだけど、国家はまず第一に国家自身と国民のために動くものだから、国家間に「人類への貢献競争」みたいなものが起こらない限りなかなかそうはならないのがデフォルトなんだという考え方も必要だと思う。
逆に冷戦時代みたいに直接手は出せないが相手への優位は示さないといけない、みたいな状況が再現されたら国家間で「人類への貢献競争」が再現される可能性はあるのだけど、学者としては平時においても「人類に貢献することが長い目で見れば日本国家にもプラスになる」ということを社会にも役人にも啓蒙していく必要はあるのだろうと思う。決して無条件で誰もが賛成する話ではないという認識が必要なんだと思う。
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若い人が自分の趣味や「好きなもの」を語りたがらない、というのは二つのことを考えた。
一つは、「好きなものを語る」ことによって「格付けされる」ということを避ける、ということがあるらしいということなのだが、これはつまり「オタク」とかに位置づけられるとスクールカーストの下位に置かれてしまう、みたいな話なのかなという気はした。「イケてる趣味」じゃないと馬鹿にされるから、それを開示しないみたいな話なんだろう。
ネットを見ていても、「お嬢様ずんだもん」とかがめちゃくちゃ叩かれたりするのと根は同じなんだろうと思った。誰が何を好きでも構わないと思うし勝手だろうと思うが、その領域がめちゃくちゃセンシティブだと。それで自分が「イケてない」ないしは「意識が低い」と判定したものは「攻撃しても良い」むしろ「攻撃することが正義だ」みたいになる。だから年の離れた結婚とかめちゃくちゃプライベートな、人に何か言われる筋合いのないようなことを嬉々として叩いてくる人を生み出しているのだろうと思う。
つまりは人の「好き」を相互監視しているような状態。意味がわからないけど。
そういう意味では、つまりは監視可能なという意味で、そういう人たちはものすごく狭い世界に生きてると言うことなんだろうなと思う。資本主義の浸透というか、都市型生活の精神面までの肉体化というか。
こういうものは政治の面でも現れていて、明治神宮外苑の問題とかほとんど正当性のない、「お気持ち問題の争点化」みたいなものもまた現代都市型消費生活社会の成れの果て現象の一つなんだろうという気がする。
一方では、彼らの感覚もまたわかる部分があるなという話。我々や我々に続く世代のサブカルやハイカルチャーの人たちが若者にマウントとって文化をリードしてきた時代が長く続いて、若者の気質が反抗から内向へ変化してきたのに気づかないうちに、文化的好みはその人にとってのトップシークレット、みたいな感じになりつつあるというのは起こり得ることだなと思うということだ。
近代資本主義社会では腕力競争とか学歴競争とか年収競争とかさまざまな競争が行われてきたけど、趣味嗜好もまた競争の対象になっているという、ちょっと嫌な感じの競争社会。でも本当は意外でもないのかもしれない。趣味嗜好は隠すことができるので、相手に勝てるものでなければ黙っている、ということはその局面において戦術的には正しい。好きなものを自由に開示できない人間関係って、割と苦しいよなあと思うが。
しかし、若者が大学教員に対して好きなものを隠すということに関して言えば、教員と学生、大人と子供の関係って昔からそんなものでは思う。
自分が好きなものを話している相手に言うというのは、基本的に相手がそれを理解してくれそうだから、ということはあるだろう。特にただ単に話のネタにされるために言うのは嫌だ、と言うのはまあ、普通に理解できる。実際自分に関して考えてみても、本当に好きなものについては言わないでこのくらいなら理解されるかな、と言うのを言っていた傾向がある時期はあったかもしれないと思う。
私は大学時代に演劇とか創作的なものに関わるようになってそんなこと言ってられなったから何でも出していくしなんでも吸収していくようになったのだけど、それ以前はやはりセンシティブな部分はあったなと思う。だから、現代でも特に制作に関わるわけでもなく、趣味にガンガン課金するわけでもない普通の人たちの感覚というのは、「好きなものはみだりに人にいうものではない」と言うところはあるのだろうなという想像はできる。
私は毎日文章を書いてるし、まあ書かないと体調が悪くなるくらいなので比較的なんでも書くのだけど、自分の中のそうでない面を覗いてみれば、理解できないことでもないよなあとは思うのだった。
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もう少しいうと、我々の世代は「人と理解し合うこと」で世界は平和になる、人が争うのはお互いに理解しあってないからだ、という感覚がどうしても抜けないのだけど、今の世代は必ずしもそうは思っていなくて、「理解してしまったからこそ対立しなければならない」みたいな感じがあるのではないかと思う。これは正直言ってプーチンの言うこと、考えていることを理解したらウクライナで戦争は起こらなかったか、中国共産党の主張を理解したら国内諸民族や周辺諸国を圧迫しなかったか、イスラエルやネタニヤフを理解したらガザで戦争は起こらなかったか、と考えれば「否」と言う答えしか返ってこないだろうということと同根だという感じはする。
冷戦が終わって世界が一つになった、という多幸感を知っている世代はおそらくはまだ夢に酔っている部分がある気はするが、その後の現実はそう単純ではなかったわけで、それはやはり相互の人間理解にも影を落としているのだろうと思う。
つまり、人と理解し合うことに希望を感じていない若者が多いということで、必要以上に内向的になっていることによって問題が起こっている場合もかなりある感じはする。ただそれを開いていくきっかけとして、昔は「趣味の話」が有効だったかもしれないけど、今は必ずしもそうではないということは認識しておいても良い気はする。
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