「反東大の思想史」:貧乏人の高等教育に否定的な福澤諭吉/ジェリー・リー・ルイスとビートルズへの影響/バルト三国・エストニアの「北欧アイデンティティ」の起源

Posted at 24/06/08

6月8日(土)曇り

昨日は午前中に「Beat and Motion」4巻を探しに岡谷まで出かけ、書店を二つ探したが結局なかった。書店の中で久々に中古CDのフェアをやっていたので、なんとなくジェリー・リー・ルイスのCDを買った。名前は知っていたがロックンロールの歴史の中では重要な人だというのはそんなに知らなかったのだが、車の中でどの曲を聴いても初期のビートルズのロックンロールナンバーを思い出し、こういう歴史があってのビートルズなんだなあと思ったり。本当にこの歳になっても知らないことって山のようにあるなと当たり前のことながら思ったりした。

お金を振り込まないといけない銀行をiPhoneで探していたら帰り道にあることがわかったので行ってみたが、ATMで振り込もうとしたら通帳の磁気が弱っていると言われて窓口へ。ついでにお金も入れてもらったら入金表を書かなければいけなくて、そうかこれが面倒だからみんなATMを使うんだなと改めて思い出したり。結局「Beat and Motion」4巻はAmazonで注文した。

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昨日はガス管の工事をやっていたので車の出入りに苦労したが、まあ工事はだいぶ進んだようで早く終わって欲しいなと思う。昼食を食べてからちょっと手続きすることがあったので母の施設に行ったのだが話をしたい人がいなかったので、時間が余っていたので市立図書館へ行った。昨日はなんでも成り行きでやるとうまくいくみたいな卦が出ていたこともあり、なんとなく本を見ていたら明石書店の「〜を知るための〜章」シリーズがあり、なんとなく「エストニアを知るための59章」を読んでみたら結構面白かったので借りてみた。

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エストニア・ラトビア・リトアニアは「バルト三国」とまとめられがちだがそれぞれ国の成り立ちも歴史も違うわけで、中世に大国だったリトアニアに対しエストニア・ラトビアは第一次世界大戦後のロシアからの独立が初めて国家を持ったわけであり、エストニアは言語的にもハンガリーやフィンランドと同じフィン・ウゴル語族であってバルト語族の二国とは違う。近年エストニアはフィンランドに近いことからも北欧アイデンティティを主張するようになっているというのも言いたいことはわかるという感じではあるが、近年は北欧諸国からもその主張は受け入れられつつあるということだった。

面積は九州より少し大きい程度、人口は130万人弱、ヨーロッパでは面積でデンマーク本国(グリーンランドを除く)と同じくらいだから決して小さすぎる国ではないけれどもやはり小国ではあるだろう。首都タリンの人口は60万人くらい、第二の都市タルトが10万くらいでそれでも「二大都市」という扱いになっているらしい。タルトは第二次大戦中の独立戦争などで破壊されてタリンのような中世以来の街並みは残っていないようだが、文教都市として教育面ではタリンをリードしているということのようだ。国の最高峰スールムナマキ山が318メートルというのは760メートルを超える標高の場所でこの文章を書いている身からするとややびっくりだが、世界には平坦な国もあるということなんだなと思う。

歴史的には13世紀のドイツ騎士団の植民の頃からようやく文書が残っているということのようで、当時はリヴォニアと呼ばれたが、17世紀にバルト海帝国の時代のスウェーデンに征服され、現在のエストニア北半分のエストランドと南半分とラトビア北中部にまたがるリーフラントに分割されたのだという。このスウェーデン時代がエストニアでは「古き良きスウェーデン時代」と考えられているようで、その辺りからも「北欧アイデンティティ」というものにつながるのかもしれない。

大北方戦争の結果現在のエストニアはロシア領になり、農奴制が強化されるなど苦難の時代であったという意識になり、ロシア帝国の時代もエストニア人の住む領域を一つにまとめたいという意識はあって、それが第一次世界大戦中のロシア革命後の1918年の独立宣言につながるがドイツ軍の攻勢にあう。ドイツが負けた後はソビエトロシアとの独立戦争になるが連合国側からは独立が承認されなかったので1920年にソビエトと単独講和してようやく独立を実現することになったのだという。

今ヨーロッパ東部でロシアと敵対している国の多くはブレスト・リトフスク条約でロシアが失った地域に戦後できた国が多いわけだが、その中でもベラルーシだけはロシアについているのがいろいろ不思議だなと思う部分もある。これは国の体制的にルカシェンコの権威主義体制を守るためにはEU側よりプーチン・ロシアが望ましいと考えていることもあるだろうけど、ルカシェンコ独特のバランス感覚みたいなものもあるのだろうなと思う。

エストニアについてだいぶ書いてしまったが、知らない国について知っていくのは心躍るものがあるなと思う。

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「反東大の思想史」少し読んだが、政府による露骨な官立学校優先政策に対し1887年(明治20年)ごろから福澤諭吉は官学を否定する論説を張るようになっていて、私立学校の経営が苦しいのは官学が最低限の学費で高度の教育を行っているからだ、と現在の私立大学の経営者と同じことを言っているのはちょっと意外だった。

学問を望むものは多いので関学を廃止し私立学校が高い学費を取っても問題ないし、また貧しいものが高い教育を受けられなくなるという批判には、教育は個人の身を立てるものであるから金持ちが良い服を着て良いものを食べるのと同じように良い教育を受けるのは当然だとか、篤志家の寄付ではなく貧しい人から徴収した税金で一部の貧乏人だけ教育を受けられるのはおかしいとか、貧乏人に高い教育を与えたら世の中の矛盾に気がついて社会の安寧を乱すようになるとか、すでに共産主義に対する警戒も持ち始めていたなど、かなり自分の中の福澤諭吉像が変わったというか、近代国家設立の啓蒙主義者のイメージから現代の新自由主義者的な要素が実は強かった人物だったのだということを知り、結構うーんと思った。イギリス型の階級社会の肯定とでも言えばいいのだろうか。

正直、明治初期の啓蒙強調の時代が終わり自由民権運動から憲法制定、帝国議会の成立などの流れの中で、福澤自身はその時々の政治情勢に合わせて様々な発言や行動を行なっているから、一言では捉えきれない部分があって福澤像がうまく構築できないところがあったのだが、こういうラディカルな「新」自由主義的側面はある意味福澤の本質みたいなところはあるのだろうし、その教え子の系譜に連なる慶應出身の人々の発言というのもあながち「福沢諭吉が見たら泣く」というようなものでもないのかもしれないと思うようにはなってきた感じはある。

明治精神の系譜というものに福澤諭吉が大きな影響を与えていることは間違いないが、やはり尊王攘夷から国権主義に繋がる流れみたいなものとは一線を画しているとは思うし、まだ読んでいる途中ではあるが、自分の中の福澤諭吉像を大きく変えるものではあるなあと思った。

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