「才能とは一時的なギフトに過ぎない」/「才能」を扱った作品たち/新たな「怪物の時代」:ヒトラー・スターリンからプーチン・ネタニヤフ・モディへ

Posted at 24/05/25

5月25日(土)晴れ

母の友人が宮崎県から訪ねてくれるという話が入ってきたので、その時に何かお土産になるものと、ということで昨日は買い物に行ったりしていた。また6月に姪が結婚の報告に来るということもあり、その時の外出についての打ち合わせなども母の入っている施設にしに行った。

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昨日はマンガがいくつも出ていて、朝出かけて買ったのがまずファミマで月刊アフタヌーンとスペリオール。セブンに行って週刊漫画Timesを買った。お土産を買いに行くついでに足を伸ばしてインターの方の書店に行き、ビッグガンガンを買う。単行本も買おうとしたが置いてなかったのでTSUTAYAに行って「SHIORI EXPERIENCE」22巻を買った。

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時間のある時にいろいろ読んでいたのだが、一番印象に残ったのがスペリオールの「らーめん再遊記」。元天才・原田に対する評論家・有栖の評なのだが、「才能とは生モノであり、アイドルの可愛らしさやイケメン俳優のかっこよさと同じく、賞味期限付きで天から授けられた幸運に過ぎない。努力して身につけた技術はそうそう腐らないけど、才能は思慮深く扱ってやらないと歳月とともに腐り朽ち果ててしまう。おそらく原田さんはこういう元天才たちの典型的な落とし穴にはまっているように思えたんだ。」というものである。

「努力か才能か」とは古来延々と語られてきたテーマだけど、「才能を思慮深く扱う」というのは本当によくわかる。最近は「龍と苺」「バンオウ」「目の前の神様」「永世乙女の戦い方」など将棋を扱ったマンガがいくつも出てきていていろいろと興味深いのだが、要は異常な才能を持った集団が集まり、その中で生き残っていくことの過酷さとか、あるいは「才能もあって血の滲むような努力もしてきた集団をあっさり超えていく超天才の残酷さ」とか、吸血鬼として300年将棋をさしてきて本当に才能に溢れるプロに挑んでいくという「凡才は数百年の時間が与えられたら天才に勝てるのか」など、才能について考えさせられることが多かった。

自らの才能を過信してその過信に溺れて転落していく、という話も昔からよくあるし、そういうものの一つとしてラーメン作りの元天才・原田を評価するわけである。

「才能は一時的なギフトに過ぎないのでそれを朽ち果てさせないように思慮深く扱う」というのは才能というものを考える上でとても重要だし、逆に努力しているうちに「才能という幸運」が降ってくる場合もなくはないから、それをどう活かしていくかというのがラーメンだけでなく音楽にしろ将棋にしろスポーツにしろ大事だということになり、つまりは大きな意味でのマネジメントの問題、ということになるのだと思う。

ただしかしこの作品では原田がお遊びで作ったラーメンを原田や芹澤に内緒で和文たちが作ってそこそこ客も入っているという展開になっていて、それはなぜなんだ、みたいなところで今回は終わっているので、才能の話もまた新たな展開があるのかも知れず、それはちょっと楽しみだなと思った。スペリオール2024年12号掲載の95話。

あとスペリオールでは「夏目アラタの結婚」が終わってちょっとロスだったのだが、「フットボールネーション」が連載再開して行ってこいという感じだろうか。「トリリオンゲーム」もまた新たな展開に入りそうで楽しみである。

「アフタヌーン」は「宝石の国」が前回最終回を迎え、「スキップとローファー」が休載なのは残念だったが、「ブルーピリオド」が再開して楽しみだ。しかし「おおきく振りかぶって」は次号からしばらく休載ということで、堀井と阿部がどんな会話をするのか楽しみ、というところで中断となった。「ピアノの森」を読んでいた頃は長期休載だと連載再開が待ち遠しいなあという感じだったが、最近では「おおきく振りかぶって」と月刊マガジン連載の「ボールルームへようこそ」については「掲載されていたらラッキー、休載でもともと」みたいな感じになっている。そういう作品が講談社に多いのは何故かなとは思うが、まあ「HUNTERxHUNTER」や「ルリドラゴン」のようにジャンプにもそういう作品はあるので、そういうものがかなり大幅に許容される時代になっているのだなと思う。

こういうのは昔なら連載が中断して終わり、になっていたか「サイボーグ009」とか「西遊妖猿伝」など、掲載誌を変えて連載、みたいな形になることが多かった気がするが、最近は同じ掲載誌で復活を待つ、という形になっている。そこで編集部と作者の人間関係が破綻したりしないようになって、漫画家というものは、つまりは「才能」というものは、そういうもの、つまり「朽ち果てさせないように思慮深く扱うことが重要」という認識が編集部にも読者の方にも理解されてきた、ということなのだろうと思う。

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「ブルーピリオド」再開67話では「誰かとペアになったつもりで展示する「2人展」」というテーマが与えられる。その蝶矢教授のテーマを学科長の犬飼教授が「良い課題だ」と評価し、「組む相手を制限しないことで本来到達できない化学反応が期待できる」と評価して今話の副題も「Chemical Reaction」になっているのだが、蝶矢は以前担当した学生が「プロになるってことはピカソと同じ壁に並ぶことだ」と言っていたから思い付いた、みたいなことを言うのだけど、そのセリフは作中の主要なキャラの一人、村井八雲が「友達が言っていた言葉」として言っていて、これはどうも真田まち子のことではなさそうなので、また新しいキャラが見え隠れしていてそれも楽しみだなと思っている。

主人公の八虎はこの課題を考えながら「自分の作品には軸がない」ということに気がつく。これはまあなんというか私も常に感じていることで、大学生が悩んでいるテーマを今なお悩んでいるんだなあとは思うのだけど、八虎は「組む相手」をフランシス・ベーコンに設定し、ベーコンを「理解」するために夜の歌舞伎町を歩いていて危うく買春されそうになり、たまたま居合わせた鮎川龍二(ユカ)に助けられるのだが、そういう姿勢を「人のテリトリーに土足で踏み込んで知った気になろうというわけか」と辛辣に批評されるけれども、龍二の作った衣装を素直に褒めたことで龍二もまあいいかと思ったのか、知り合いのホストクラブを紹介され、そこで働くことになるがいきなりすごい客に出会う、という展開になっていて、いやまあなんというか、というふうには思った。

「人のテリトリーに土足で踏み込んで知った気になる」というのは「若くて野心に燃えた青年」にはありがちなことで、ホームレスに近づいたり西成に近づいてそれをTwitterに書いて炎上している若者とかを思い出すけれども、まあアートコレクティブの時も居心地の良さを感じながらもそこに居続けるのは自分にとてっては違う、と数ヶ月かかって気づいたり、お絵かき教室でも特撮ヒーローの魅力に気付いたりなど、実際には体当たりでいろいろ体験して身につけていくタイプなので、こういう水商売の世界もどう表現されていくのか、その辺は楽しみではある。

また龍二というキャラも「他人を辛辣に評価する言葉で自分自身も返り血を浴びる」という世田介に似た部分があるキャラなのだけど、八虎を認めているからこそ自分の衣装を評価してくれる言葉に絆された部分もあるのが読んでいて面白い。また八虎のキャラとして「溺れている人がいてもその人と溺れることはない」と龍二は評価していて、良くも悪くもそれが八虎のキャラなのだけどそこをちょっと憎らしいと思っているところもあるのが「ちゃんと溺れてこいよ」というライン?メッセージにつながっていてその辺も波乱含みで面白いなと思った。

週刊漫画Timesでは「解体屋ゲン」で谷の発想の天才ぶりが語られていて、これもなんだか共通するテーマになってるなと思った。まあこの程度の発想ならゲンも度々している気はしなくはないけど、やはりある意味「好きを仕事にする」ことに成功した例として上がっているのだろうなと思う。

「ビッグガンガン」では「スーパーの裏でヤニ吸うふたり」がヒューヒューという感じなのだが、まあそれはいい。「薬屋のひとりごと」「ユーベルブラットII」「SHIORI EXPERIENCE」「ハイスコアガールDASH」と単行本を買っている作品が全て掲載されていたのはすごく当たりという感じだった。

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「SHIORI EXPERIENCE」も27歳で死んだ若きロックスターたちが現代の若者に取り憑いてものすごいパフォーマンスを見せる、というまさに「才能とは何か」を扱った作品の一つなのだけど、単行本22巻はヴォーカルの目黒が作詞にとことん悩んで行き詰まって初範に助けられ、他のグループの「詞を書くボーカル」たちに話を聞くことできっかけを掴む、まさに「努力によって才能に目覚める」話であって、そこにブルースがある、みたいなことになるのだけど、それがファンタジーなのかリアルなのかは定かではなくて、まあそういう夢のようなものだからこそ「作品」というものは魅力的なんだよな、と思ったりした。

***

昨日は「モディ化するインド」はあまり読み進められなかったのだが、それはどうもグジャラート暴動の時のモディの振る舞いにちょっと当てられたというか、まあいろいろ考えていてこの人はまさに「怪物」というか、プーチンやネタニヤフに並ぶような人物だということを感じていたからだなと考えていて思った。

政治的な怪物というのはヒトラーにしろスターリンにしろムソリーににしろ合法非合法あるいは革命などの手段によって国家を乗っ取るというか独裁体制を築いた20世紀の前半たちに言われることが多かったが、彼らに対抗する「民主主義」陣営もチャーチルやルーズベルトのような強烈な個性がいて、チャーチルの葉巻を加えたイメージがタフな感じはするが実際にはルーズベルトもアメリカ史上唯一の4選された大統領という結構な怪物でもあるわけである。

20世紀後半の怪物というと毛沢東とか金日成とか、あまりもうそういう時代ではないのかなという感じになってきていたが、冷戦が終わった21世紀になって帰って権威主義という名で括ることができそうなプーチンやネタニヤフ、あるいはエルドアンやモディのような新しい傾向を持つ怪物たちが生まれてきたという感じで、良くも悪くも20世紀後半は「冷戦」というイデオロギー対立に集約される単純さがあったが、現代はより複雑な民族主義的ポピュリズムが強い時代になっていて、一方では西欧もリベラル寡頭制とエマニュエル・トッドがいうような本来の民主主義とは違う傾向が生まれてきているから、その辺の視点で一度世界全体を総括して見る必要があるのだろうなと思う。

自分のそういう意味での「軸」は「保守主義」なのだけど、一方では「多様性への希求」みたいなものもあって、「「保守主義」とは似ているようで全く違う右翼ポピュリズム」とか、「多様性への希求とは全然違う形での「いわゆる多様性」絶対主義的ファシズム」みたいなものはどちらも自分にとっては否定し乗り越えるべき対象だなと思う。

まあいろいろ考えることはあるけど、自分の書きたいことや言いたいことが人に届くための能力としての「才能」みたいなものはやはり必要だなとは思うので、まあその辺もちゃんと養っていきたいなという感じである。

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