「最も成功した社会主義国・日本」の終焉に資本主義について考えてみる

Posted at 24/05/14

5月14日(火)晴れ

昨日は早く寝たので朝は3時過ぎに起きて、そのあといろいろやっていた。この習慣は元々は村上春樹さんが早朝に起きて執筆するということをインタビューで答えたので真似をするようになったのだが、朝のまだ人々が動き出していない時間にじっくりのびのび自分のことをやれるということがわかってもう習慣として定着している。今朝も少し早いがゴミをまとめて作業場まで行ってノートを探して作業場のゴミもまとめ、屋根付きの置き場にゴミを出しにいき、歩いて職場まで行って今日の仕事の気になっていたことを先に片付け、ノートを見つけてコンビニでコーヒーを買ったり。歩くと考えが進むということもあるから、と思って歩いていたのだけど少し寒くてそれほど湯水のように発想が出てきたわけではない。今朝の最低気温は7.1度、やはり室内でも暖房をつけないと少し寒い。

https://toyokeizai.net/articles/-/306023

いろいろ考えていたのだが、「資本主義とは何か」「資本家とは」みたいなことを考え始め、いろいろ調べていたのだけど、上のサイトを読んでいていろいろ考えた。

今更ながら資本主義について考えている理由の一つは、資本主義というものがある意味我々にとってわかりにくいものだなと思うからで、特に企業活動に従事していない人にとってはいまだにあまりピンとこない部分があるのではないかと思う。

というのは、数十年前までの日本は社会主義国が次々とその欠陥をあらわにしていく中で、欧米の資本主義社会とはまた違う独特の平等意識のもとに経済発展を続け、ついには「一億総中流」と言われる状態を成し遂げたわけで、その意味で「世界で最も成功した社会主義国」などと揶揄されたりしてもいたからである。

それが現在ではだいぶ変わってきたので、やはりもう一度そのことについて考えたほうがいいように思ったわけである。上記の記事を少し引用してみる。

「この資本が主軸となってお互いに自由に組み合わさり、さまざまな新しい(価値のある)商品が生み出され続けることに重きを置いた社会を、資本主義社会という。」

「この社会で最も自由に、生き生きとして生活できるのは「成長する人」である。というのも、それぞれの人に割り振られた「資本」という役割は、価値を生み続け、成長をし続けることを前提としているからだ。その役割を果たすほどに、社会の恩恵を受けることができる。わかりやすくいえば、お金と時間を手に入れ、人生における選択肢や行動範囲が格段に広がるということだ。」


この辺りのことは現代によく当てはまるので実感としてわかりやすいだろうなと思ったのだが、要はお金を元手に事業を起こしたり投資したり金を貸したり土地を買ってそれを貸して知代を取ったりすることで社会を回していく仕組みが資本主義ということだけど、それがうまくいけば儲かって再投資することもできる。うまくいくというのはつまり「効率的に投資が行える、投資の成果が効率よく返ってくる」ということだから、資本主義社会においては「効率」が重要になり、資本主義社会の副産物として効率主義が強調されるようになるわけだ。そして「成長」という言葉も、より効率的にお金を生み出していけるようになることを指すようになっていて、これはもちろん古典的な意味での「人間的成長」とは別のことである。


最近はいわゆる新自由主義が浸透してきて、福祉にかけるお金をいかに削るかという議論がなされたり、行列を作るのが当たり前だった遊園地でもお金を出せば順番をパスできるようにするなど、「行列を作らせることによる社会主義的平等(旧ソ連のように、(配給の)行列に並ぶことはいわば社会主義の象徴のようなもの)」みたいなものが削減されたりしてきている。あるいは普通車の車内販売は廃止されたがグリーン車にはサービスがあるなどもそうした考え方の一環だろう。

こうした傾向は、資本の回収効率という面ではもちろんプラスになるから企業側もやっているわけだが、日本のような先進資本主義国では企業だけでなく、国家もまた資本主義的なムーブを強制される傾向がある。

資本主義と国家というものは本来別次元の存在であり、資本主義が成立する以前から国家はあった。資本主義の発達により国家は多大な税収を得ることができたから国家は基本的にこのシステムを保護しようとしているが、国家的秩序というものはイギリスのような君主国や階級社会、またロシアのような権威主義国、中国のような「社会主義」国では資本主義が最も優先されるわけではない。

ただ冷戦構造解体後は「グローバル市場が成立したという幻想」のもと、自国にあった産業(工業・農業など)施設を他国に移転し、自国は金融利得を得ることに特化していこうという動きがかなり進んだ。そのためにコロナ禍においては日本はマスクの国内生産さえできず中国の粗悪品に頼らざるを得なくなったり、またウクライナ戦争では経済的に圧倒的に強者であったはずのアメリカや西欧諸国がウクライナへの砲弾の供給さえままならず、ロシアの古い施設をフル回転させた生産に遅れをとっているという笑えない現実があるわけである。

資本主義、ないし経済学は経済以外の要素を捨象して考えることになっているので、農業や医療や軍事などの国家にとっては戦略的に重要な物資や事業に対してさえ効率化を要求することになり、それがなされたが故に突発的に莫大な医療資源を必要とするパンデミックや起こらないと思われていた古典的な侵略戦争に対して対応できないという、「経済学を徹底して国家を危機に陥れる」事態を生んだわけである。

国家はだから資本主義を尊重し重視することは大事なのだがそれだけに寄りかかって立つことはできないわけで、そこをどれだけ自覚できるかが重要なのだと思うが、自由主義社会においては国民にとって主要な問題は経済であり、その発言権、国民的世論や資本家の主張がどうしても大きくなることはある意味仕方がないことなのだろうとは思う。

日本においては上に書いたようにだいぶ資本主義原理が世を動かすようになってきたけれども、もともと日本は戦前においてはかなりむき出しの資本主義社会だった。だからこそ資本家に対抗してマルクス主義や国家社会主義が力を得てきたわけで、昭和初期の資本家や政治家に対するテロの続発、労働争議や小作争議の続発などは当然ながらそういう背景があった。

戦後はアメリカなどの連合国の支配(占領)により戦後改革が遂行され、五大改革の一つの「経済の民主化」によって財閥解体(資本家の力を削減)・農地改革(地主の力を削減)が行われたこともあり、「教育の民主化」と相まってマ戦後民主主義が基本思潮になり、またマルクス主義が思想として強力な力を得たため、「資本家=悪」「資本主義=悪」という考え方が広まって、それが定着していたというのがついこの間までの日本の一つの国としての特徴だったのだと思う。つまり「経済の民主化」とは、「資本家や地主が桁違いの金持ちになることを許さない」という意味だと捉えられ、そういう国であるアメリカとは全く違う国を日本に形成させたわけだが、それだけ社会主義の力が日本国内でも世界的にも強かったということでもあるだろう。

それはうまく行っている間は良かったが、冷戦構造の中で自由主義社会の国々に利益の配分のようなことが行われていた間は良かったが、冷戦終結後には剥き出しの力関係が日米間にも働き、バブル崩壊も相まって日本は「経済敗戦」と言われる状況に陥ってしまった。資本主義国全体としても、特に社会主義国である中国やロシアに「経済発展したら民主化する」という幻想を持ってしまったことにより、多くの戦略物資や生産システムを彼らに獲得させ、また独占させるようになったという手痛い失敗を犯してしまったわけで、それが今日の危機を招いているわけでもある。

https://twitter.com/yurumazu/status/1789957859582591343

「資本家=悪」という観念は、会社組織も「民主化」されるべきだという方向へ行き、資本と経営の分離が進んで、戦前の財閥のような存在はほとんどなくなってきていた。近年はそれでもそれが復活する傾向はかなりあると思うし、「長者番付」のようなものが発表されなくなったからよりそこは不透明化してきているけれども、その動き自体もまた平等志向の強い日本において雑音を無くしたい資本家層の要求に応えたという部分もあるのだろうと思う。

一方で、オーナー企業とか同族経営というものが悪の象徴のように言われてきたのは資本家自体を悪と捉える傾向がずっと強かったからだろう。オーナー=所有者が強い企業はワンマンとか古い体質とか言われて働く人が力を振るえないと言われてきたし、確かにそういう側面がある場合もあっただろうと思う。しかしスズキやトヨタなどのようにオーナー経営者や創業家が力を持つことで繁栄している企業もあるわけで、その見方も一方的な面はあるだろう。

実質上オーナーがいない企業というのは上のツイートにあるように、官僚化しやすいということはあるのだろう。日本国家そのものが明確な主権の執行者がいないが故に極度に官僚化しているという面もあるように思う。こうした組織はリスクを取らなくなるので、日本の大企業も大きな失敗もしない代わりに発展も望めなくなる、という傾向になるというのはそれを考えるとなるほどと思う面はあった。企業のコルホーズ・ソフホーズ化といえばいいか。成功か失敗かはともかく、日本の社会主義化の一要素ではあるだろう。

それらの企業のあり方にもさまざまな批判が集まり、ジリ貧に陥った企業は外国企業や投資家に買収される、というようなことが繰り返し起こっているけれども、外国の資本的植民地になるよりは国内資本家がちゃんと復活してきたほうがマシだろうとは思う。

正直、国民の8割が自分を「中流」と意識していた時代が懐かしいと思うし、経済政策もまたその状態への復帰こそを目指すべきだと思うのだが、さまざまな条件や国民の意識もまた変わってきているので同じことをやっても同じようにはならないから、まずは資本主義というものを観察してその手綱を取っていくことが重要なんだろうと思った。

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