どんなnoteが読まれているか:何をどう認識しどう考えるかのヒント/日本人であることへの感謝/「まず疑え」という言葉をまず疑え

Posted at 24/05/18

5月18日(土)晴れ

また早く目が覚めてしまったのでやや寝不足感があるのだが、なんだかいろいろ考える。昔ならこれくらいのことは考えていてもそんなに頭が混乱することはなかったのだが、同時に二つ以上のことを考え出すとその時考えていないことは全て忘れてしまうので、とにかく何かメモしておかないとという感じなのだが、メモを探しているうちに忘れてしまうという感じになっていて、まあこういう面での頭の衰えというのはいろいろと困るなと思う。

自分のnoteのアクセス状況を見ていて、どういう文章が読まれているのだろうといろいろ考えていたのだが、マンガの感想みたいなものへのアクセスは多いのだけど、必ずしもそれだけではないし、マンガの感想ならアクセスが多いかというと必ずしもそういうわけでもない、ということもあって、いろいろ考えてみたらどうもある種の倫理、というと大袈裟だが、何をどう認識しどう考えてどう行動したらいいんだろう、みたいな話につながる、あるいはヒントになるような話が読まれているのかな、ということを思った。

https://note.com/kous37/n/nb4cc082a7b75

アクセスが一番多いのはふみふみこさんの「ぼくらのへんたい」について書いた文なのだが、これは8年前に書いた、今で言えばLGBTにはいるのだろう、女装する少年たちを描いた作品に関する感想である。これはアクセスは多いのだけどいいねはそんなに多くなくて、その辺のギャップもよくわからないところはあるのだが、やはり「性的少数者」について考えている人がアクセスしたのかなという気はする。もちろん倫理的な問題ではなく「男の娘」とか「女装少年(子)」に関する趣味的な関心からのアクセスも多いと思うから倫理と言われると引くとは思うのだが、そういう関心のある対象とどういう関わり方をするかというのも大きく言えば倫理の問題と言えなくはない(何が正しいとかいうのとは別に)のでそういうまとめ方もできるかとは思う。

私は今のLGBT運動には基本的に反対の立場で、特に「性的多様性」というものを社会制度の根本において制度を全て作り直そう、というような考え方には反対だ。しかし人間存在としての少数者に関してはやはり人間として関心はあるからこそこういう題材の作品を読もうとするということはあるので、そうした薄い関わりであっても何かヒントになることが書けていたらいいなとは思う。

https://note.com/kous37/n/n0f80b5f3fea6

3番目にアクセスが多くいいねもそれなりに多いのが「鬼滅の刃」において主人公の「炭治郎」は「成長」したのか、という文なのだが、やはり「成長」というのも人間がよく考えるテーマの一つだろう。

まあそういうふうに一つ一つこの文章の倫理的なテーマはなんだろう、というようなことを考えながら少しまとめてみると面白いかなと思ったのでちょっと心覚えにかいておきたい。

***

今朝読んでいて印象に残った連ツイがあるのでそれについて少し。

https://twitter.com/May_Roma/status/1791143004759007336

上のツイートから22ほど連続してツイートされていて、「日本人であるということはどういうことか」ということを「ヨーロッパで生まれた黒人であることとどう違うのか」ということを通して考えさせられた。

人間の移動というのはいろいろな理由があるけれども、「奴隷として自分の意思に反して連れてこられた」という場合は、自分がそれまで属していた文化と完全に関係を絶たれ、それゆえに自分のルーツは何かというアイデンティティの問題において、大きな困難や苦悩を抱えることがあり、そういうケースが一番多いのは黒人なので、全ての黒人が皆そうだというわけではないから一般化はできないが、黒人は欧米において自分に自信が持てずに成長せざるを得ない、という老人の切切たる話は胸を打つものがあった。

日本人はヨーロッパ人と違うからヨーロッパ人と上下はない、しかし自分たちはここで生まれ、いつも「下だ」と思わされて育ってきたから、自分が好きになれない。日本人は先祖代々の墓を持ち、寺などとのつながりを持ち、自分が何者であるかについて考える必要がない、まあもちろん皆そうだというわけではないが、一般的に「日本人は見ればわかる」とこの老人が言うのはそうなのかもなあ、とは思った。

帰りのタクシーの中でパキスタン系の運転手に「セガ最高」と言われている時の話とかを読んでいて、実際日本人に生まれて良かったと言う感謝の念が湧き起こって、ちょっと泣きそうになった。自分はゲームをやるわけではないけど、そんなふうに思ってもらえるものが日本で生み出されていると言うことで、自分たちは気後せずに彼らに接することができるんだ、と言うのは全く有難いことだ。我々が若い頃は戦争の記憶がまだ強いから日本人というと嫌がる人も少なくはなかったわけだが、それはそれとして生活文化の中で羨ましがられるものを自分たちはバックグラウンドに持っているんだ、と思えることは本当にありがたいことだと思う。

これは「日本すごい」とかとはまた少し違う話であって、劣等感に苛まれる中で何かに縋り付いているというわけではないから、普通にくすぐったいし、海外で心細さを感じているときなどには本当にありがたく感じることだと思う。

自分のアイデンティティに関し、ルーツの問題はいろいろと背景のある問題がたくさんあるので語りにくい部分ではあるのだけど、ただそこに自信を持てる要素があるというのは良いことだと思う。もちろんアイデンティティというのはルーツに関することだけではないから、違うところに持っていても構わないのだけど、いずれにしても自分に自信を持てるようなものを先人たちが用意してくれたというのは感謝すべきことだと思う。

***

倫理の問題とかについて考えていて、自分が重要だと思うのは例えば「常識」だと思うのだけど、進歩か保守かという問題で言えば「常識を疑う」のが進歩派、「常識を尊重する」のが保守派、という大きな括りはあるだろう。しかし、闇雲に疑うのでもなく、盲目的に信奉するのでもなく、それについて考える、ということがまず大事なわけで、倫理学とか哲学とか学と名のつくものについて考えるなら、まずはよく見聞きし、読み、そして「考えること」が大事だと思う。

常識にしても科学にしても近代という時代はそれを「疑う」ということを基本姿勢にする懐疑主義的進歩主義というか、そういうものが幅を利かせてきたわけだけど、彼らは常識を懐疑して否定し作り上げた自分たちの理論については疑うこと、あるいはそれ以前に考えることを許さない、という姿勢があることが多い。

伝統とか常識とかいうものは、盲目的に信仰しないといけないものではないけれども、とりあえずまずは疑わずに実行してみることでその常識や伝統の意味が理解できることも多いから、「まず疑う」という姿勢は大きな問題がある。

疑っても結局自分の力で考え続けることが難しくなって、「正しそうなことを言う人」や「なんとなくかっこいい人」「人気のある人」のいうことの方に流れてしまうことは珍しくない。我々の若い頃に比べれば随分常識というものも切り崩されてきたなという感じはするのだけど、その上に乗っかって考えた方が状況が良く理解できるというものはまだたくさんある。

「習うより慣れよ」でやらされることに反発を持つのはわからなくはないが、これもまずやってみた人でないとわからないことはかなり多い。自転車も乗れるまでは大変だが乗れるようになったらなぜ乗れなかったのかがわからなくなったりするわけで、まず身につけてその後で理解する、というものも世の中には結構多い。

疑え、という言葉の背後には、「疑ったけど疑いは晴れた」ということが目指されてるわけではないわけで、その先にそれを破壊しろ、という意味が言外にある。壊すべきではなかったものがどんどん壊されているというのも、そこから始まっているという部分が多くあるように感じる。

「まず疑え」という言葉こそをまず疑った方がいい、と思うのである。


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