noteの媒体・企業としての成長と自分の表現/「ふつうの軽音部」の「言葉に説得力を持たせうための物語の積み重ね」と21世紀の日本ロックの相乗効果/学校検診脱衣「強制」問題と現代日本における医学・科学の権威低下

Posted at 24/05/26

5月26日(日)曇り

なんだか溜まった疲れが出てきているのと、朝読んだ「ふつうの軽音部」第23話「口喧嘩をする」の内容を何度も反芻していたこともあって、いつもは早朝から書き始めるのがずいぶん遅くなった。だいたい毎日その時に考えたことと、前の日に書いたツイートのうちまとめておきたいなと思うことを中心に書く題材を決めるのに1時間半、実際に書くのに1時間半かかるという感じで書いているのだが、自分ながら自己プロデュースが下手というか、読んでもらえる工夫が足りないんだろうなと思う。

noteという媒体も始めた頃に比べれば随分大きなものになってきて、私はcakesの頃から少しずつ読んではいたのだけど、noteはほぼ最初から使っている。それがついには東証に上場までしているのはある意味感慨深い。私はお世話になっているから株式も買ったのだが、これだけ大きなプラットフォームになると万一潰れたら影響が大きすぎるので、早く経営が安定するといいなと思う。

まあ人のことはともかく、自分もせっかくかなり使いやすいはずのnoteという媒体を使っているのだからなんとかもっと読んでもらえるようにしないといけないなあと思っている。村上春樹さんなども海外に売り込むときは自分でかなり工夫していることをエッセイに書いていたし、作家だけでなくものを作る人にとって自己プロデュースというのは本当に重要になってきているなと思う。

それはつまりどういうことかというと、マンガで言えば編集者の役割が重要になってきているということなのだけど、創作者=クリエイターの数に比べて編集者=プロデューサーの人数が絶対的に足りない、ということなのではないかという気がする。もちろん、「これは当たる」とか「これは面白い」と製作側が思わなければプロデュースはしないわけだから、まずはそういう人に面白いと思ってもらわないといけないわけだけど、出版の世界を見ていても「あの子もトランスジェンダーになった」など、問題含みの本をあえて出版しないとか販売しないとかの偏りがこの業界に起こってきていることを考えれば、かなり同志的な人でなければ出せない性格の本というのもあるよなあと思う。

自分も世の中で多数派、ないしメジャーな、あるいはメジャーに取り上げられやすい意見を書いているわけではないし、それを取り上げようという人はなかなか出てこないだろうなあとも思うから、自分も書くだけではなく自分で売りやすく、売れやすくしていく工夫は必要なのだと思うのだけど、まだそのやり方がよくわかってないので困っているという感じなんだなと思う。

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https://shonenjumpplus.com/episode/17106371859967564400

それはともかく、今回の「ふつうの軽音部」も面白かった。いろいろ因縁のある相手・ギターの藤井彩目をバンドに入れようと画策する幸山厘(ベース)内田桃(ドラム)鳩野ちひろ(ギターボーカル・主人公)だが、ストレートに誘いに行こうとする二人と違い、ちひろはなんとなく恥ずかしい思いもあって先にトイレに行くのだが、その帰りに藤井を振った鷹見が藤井のことをバンド仲間に「あのメンヘラ」と陰口を叩くのを聞いて思わず肩を掴み、「話いい?」となるところで前回は終わった。

今回は、桃に呼び出されて学校に「課題提出」という名目で出てきた藤井を、二人が説得しようとするが、厘は思わず鳩野をあまりに崇拝するあまり宗教勧誘みたいな言い方になってしまい、二人に呆れられる。一方鳩野は鷹見に意見しようとするがのらりくらりとかわされ、頭にきて「自分が好きな子を傷つけたということくらい自覚したら!」と叫んでしまい、あまりに恥ずかしいことを言った!と赤くなってその場を去り、3人のところに来て「私わかったんだよ」という。

ここまではファンの間で「旧約」と呼ばれる連載の雛形、「ジャンプルーキー版」に掲載されている部分なのだが、ここからは全く新しい「新約」と呼ばれる部分が始まることになる。

何がわかったのか。ファンにとっては長い人では10ヶ月くらい待たされたわけだが、ちひろは「私は口下手だから上手くは言えない」ということがわかった、ということだったわけだ。そして「でも、私の歌なら伝えられるかもしれない。だから、私の歌を聴いて!」と永井公園の路上弾き語りを聞きにきてくれと誘う。

これは言葉にしたら簡単なことだけど、この言葉に説得力を持たせるために今までの数十話があったと言ってもいいくらいのことだったんだなと思う。

この言葉が唐突でもなければ軽い気持ちで上っ面の言葉として言ったのでもないことは、ここまで読んできた読者には確実にわかる。それだけのものを今までこのストーリーが積み重ねてきたのだ、ということがよくわかって、本当に感動した。

考えてみると、厘がちひろ(厘は鳩ちゃんと呼ぶ)をボーカルにしたバンドを作ろうと思ったのも、桃がバンドに入ろうと思ったのも、ちひろの歌を聞いたからだった。厘が聴いたのは誰もいない視聴覚室で次の日の軽音部のライブの準備ができていたのに盛り上がってちひろが勝手に一人で歌っていたandymoriの「everything is my guitar」で、桃が聴いたのはいきなり厘に連れて行かれたカラオケでちひろが歌ったHump Backの「拝啓、少年よ」だった。

この作品はその辺りの選曲もすごくいい。私は取り上げられている曲はほとんど知らない、2000年台から2010年台の今日が多いのだけど、この時期の日本のロックというものはほとんど聞いてないので、何を聞いても新鮮な感じがする。

https://www.youtube.com/watch?v=skTm1_kwR8w

最初のライブに失敗し、弾き語り修行を思い立って公園で歌っていたら「憧れの先輩」がやってきて、その前でスピッツの「スピカ」を歌うのだが、私もそうなのだけど新しい曲が出てくるたびにYouTubeを探して観にいくのだけど、「スピカ」のコメント欄に「「ふつうの軽音部」からきました」という人が50人以上いて笑った。逆に、「スピカ」のコメント欄を読んで「ふつうの軽音部」を読みにきた人が今日の回のコメント欄に書き込んでいて、相乗効果でこのマンガも21世紀の日本語ロックも両方盛り上がっていくと良いなと思った。

ジャンププラスのコメント欄というのは本当に良い企画で、いろいろな人がいろいろな読み方をしてコメントを残していくから、そのコメントを読むことで作品理解が深まる、という相乗効果がある。変な荒らしが巣食ってしまう場合もあり、最近はその辺はすぐに削除されているようだけど、コメントを書き込むときも「死」とか「殺」とかいう文字はNGワードになっていて書き込みが許可されない。今日はちひろが自分で言っていた「口下手」という言葉を書き込もうとしたらNGになったのは、おそらく「下手」という作品非難になりそうな言葉がNGに指定されているからなんだろうなと思った。「口べた」と書いたら通ったので、そういうことだと思う。編集部側の作者作品を守ろうとする姿勢が垣間見えたのも良かったなと思った。

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Twitterで今話題になっていることの一つは、学校検診において上半身裸で医師の診察を受けることに対する反発が6年生女子児童から上がった、ということをもとに、ロック評論家を自称する人がTwitterで取り上げて、例によってフェミニストやその見方を自称する人たちが学校や医師を攻撃し、医師側がそれに科学的な立場から反論する、というような騒動である。

このような騒動がなぜ起こったのかを考えてみた。

そもそも現代日本において、医師は長らく特権階級の地位を謳歌し続けてきたが、どうも最近その地位が揺らいでいるということがあるように思われる。医師の権威というものを支える最大の基盤は、「医学=科学」というものに対する信頼というかはっきり言えば「信仰」に基づいていたわけで、最も明瞭な例としては、昭和天皇危篤の際に毎日下血量が報道されるなど、天皇権威よりも医学の権威が勝る形でその絶対性を誇示していたことを思い出す。「科学=近代」でもあるから、その近代の最たる担い手として、医師は特権的に偉かったわけである。

しかしスピリチュアルや東洋医学への選好が徐々に高まり、それ自体西洋近代医学あってのオルタナティブではあったと思うが、それらを相対化して見る人たちも増えてきてきた。それは医学の示す現実が現代人の好み、「束縛のない生活」とはずれてきたからだろうと思う。

それが表面化したのはコロナ禍だったのではないか。「医学=科学」の要請する行動規制に対し、一部の人たちが激しく反発した。それは「経済優先」の考え方もあるが、何より「行動を制限される」こと自体が気に入らなかったのだと思う。

今まで「医学が偉かった」のは、科学者・医師たちにとっては「科学的であるから」だったのだけど、多くの人々にとっては本当は科学などどうでも良く、医学が「より人を自由に行動できるようにしてきたから」だったのではないかと思う。

だから、その医学が「人々の行動を制限しなければ人々を守れない」ような「頼りない」「力のない」ものだったということが明らかにされて、医学はその意味で信頼を失ったのだと思う。もちろん医学にとってはとばっちりで、当然のことをやっているだけなのだが、多くの人にとって諸体験の極端な行動制限は、「医学の見解の妥当性」を疑わせるに十分な束縛だったのだろうと思う。

そういう下地があった上で、医師が「権威」であり、多くの医師が「男性」であったことが、フェミニストや文系リベラルの邪推を呼び、「女児の裸を見たいから脱衣を強制するのだ」というなんとも言えない「幼稚な」言説がまことしやかに語られ、思春期女児の反発や運動家勢力の批判に屈する形で学校が屈服し、科学よりも政治をとることになったわけである。

これはいわば現代日本が中世的魔女狩りの状態になった、科学的根拠よりも「人々の感情」を重視せざるをえなくなったことを示しているわけで、長らく医師の一人勝ち状態を苦々しく思っていた文系リベラルたちの多くもそれに乗っかってきたのだろう。ある意味こちらも近代の象徴である教育機関、「学校」は「科学の光(啓蒙)」よりも「お気持ちの闇(集団ヒステリー状態の反発)」を選んだわけである。

これはつまり、長期的に見れば「科学の権威低下」と「民衆・大衆の感情優先の復活」のような前近代現象が起こっているわけで、これは福島の汚染水問題などに見られる科学への反発も同じ根っこなのではないかという気がする。ファシズムは近代の現象であるけれども、科学は信奉していたからファシズムよりもより古い古層の現れではないかという気がする。

日本はアメリカによく観られる「地球平面説」のような極端な反科学・反知性主義に直ぐに動くことはないだろうけど、科学コミュニケーションのような分野では十分に科学を理解していない人がその担い手になっているケースが多いように思われるし、かなり危険な部分がある感じはする。

私自身は科学を信奉する立場ではないのだけど、そのような方向での反科学には賛同できないなあと思う。私が私自身が科学を「信奉」するわけではないのに科学の権威低下を危惧するのは、現在の日本の国家体制が科学も一つの大きな柱として成り立っているから、という面が大きい。つまり国家社会を成り立たせるために、科学の権威は必要だと思うからそれを重視しているので、自分自身がそんなに科学に全幅の信頼を置いているわけではない。

逆に言えば、国家を転覆させたい人たちはそれを支える柱である科学を批判攻撃することでその足場を弱らせることができるという側面があり、昨今の医学や科学に対する攻撃はそうした部分も大きいのではないかという気もしている。

日本が戦争に負けた時、その反省には「我々は科学的でなかった」ということがあった。「精神主義に走り科学的でなかったから負けた」のだし、「そもそも科学的思考が足りなかったから勝ち目のない戦争をしてしまったのだ」、という反省があり、これからは科学を発展させなければならないというコンセンサスが、戦後の日本の再出発にはあったと思う。特に、アメリカの物量作戦と、何よりも「原子爆弾」という「科学の粋」が使用されたことで日本が負けたということは、象徴的に国民的に大きかっただろう。もちろんレーダーその他戦略思想や技術においてアメリカがこの戦争中に成し遂げた進歩に日本は全くついていけてなかったということも、戦後明らかになったわけだけれども。

日本は軍備は廃止させられたが、科学は禁止されたわけではなかったから、科学こそが今の日本が最も必要とするものだという理解は、多くの人にあっただろうと思う。

そしてそれは日本だけでなく、アメリカもソ連もそうだった。だから国力とは科学力であり、科学の発展は国力の増強だと考えられてきたわけである。少なくとも冷戦が終わるまではそうだった。

冷戦が終わって「平和」が訪れてみると科学はパソコンやスマホなどパーソナルな部分を除いて後景に退いた。もう大きな戦争の脅威は無くなった、という思いが大きかったのだろう。スーパーコンピュータなども「2番じゃダメなんですか」と言われるような重要度しか無くなった。科学はより政治や経済に従属されるようになった。軍事が軽視される日本では特にそれは著しかった。

就職面において、企業における仕事のOA化が進むことで文系の職がなくなり、理系でエンジニアという職人は大量に必要とされるようにはなっているが、理系は優遇されても科学が以前のように純粋な夢として憧れられるものではなくなっているわけである。

しかし周辺諸国はそうではないわけで、むしろ台湾企業が日本に進出するなど、科学・技術面で後塵を拝するようになってしまっている。その危機感が薄いことを含めて、拉致被害者の存在が明らかになって以来いわゆるネトウヨ層が増えてはいるのだけど、それ以前よりも今の方が、より一層「平和ボケ」は進んでいて、今回のような馬鹿げた騒動もその辺が一番大きいのもしれない。「立国の原点」に「科学」を失った日本は、割とヤバいと思う。

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今まで自分の考えるべきテーマとして政治における「保守主義」とか、自分の好みとしての「表現」について書いてきたのだけれども、最近は一般に語られているものとは違う意味での「多様性」についても考えて行かなければならないと思うようになっていたのだけど、「科学」の問題についても考えていくべきだと今回の顛末について考えているうちに思うようになってきた。

保守主義・表現・多様性・科学。それぞれの面から自分の立場をさらに明確に述べられるようにしていきたいと思っている。


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