デフレとインフレと中国/「生活」に目が開いたこと/「国家を超えた超権力」を求める日本人の幻想/イランとイスラエルと国際正義

Posted at 24/04/16

4月16日(火)曇り

昨日はいろいろやりながら、昼過ぎに松本に車で出かけた。基本的には気分転換なのでゆっくり高速を走っていたのだが、昨日はあまり渋滞にも巻き込まれずにまあ無欲の勝利という感じだった気がする。最初にいつもの駐車場に止めて丸善で本を見て、書いたい本が2点あったけど1点は見つからず、もう1点は考えて買うのをやめにして、結局エミン・ユルマズ「世界インフレ時代の経済指標」(かんき出版、2023)を買った。

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この本は今までのデフレ時代からコロナ禍をきっかけに世界はインフレ時代に突入した、という考え方なのだけど、読んでいて面白いと思ったのが「デフレの原因」は中国だった、という話である。中国が安価な製品を世界に大量に輸出したために世界でデフレ状態になったので、中国が国力を蓄え西側も中国に警戒するようになり、貿易が自粛・制限されてくると当然ものの値段は上がりインフレになる、という話である。確かに日本においてのデフレ時代というのは「中国製品に席巻された」時代であることは確かなので、これはそれなりに説得力はあるように思うが、その言説はあまりみたことがなかったのでちょっと目から鱗な感じがした。

そのあと少し市内を散歩して、パルコまで歩いた。松本パルコは閉店するという話だったがまだやっていたので良かったのだが、今調べてみたら閉店は来年2月末とのこと。今年いっぱいはやっているということだからまあ今年のうちは安心して買い物に行こうかと思う。5階に上がってアニメイトとヴィレッジ・ヴァンガードを見たあと4階でジャケットなどを見たがいいのがなく、1階まで降りてそういえば以前あった書店が閉まってから地下に降りたことがなかったなと思って降りてみたら、無印良品の店があり、残りはヴィレヴァンのセールコーナーになっていた。ヴィレヴァンの方には買うものはなかったが、無印でシャツやジャケットなどをみてシャツを一枚買った。袋も買ったのだが「無印良品」と大書してある紙袋だったのでまあなんというかと思いながら店を出る。

どこかで喫茶店に入りたいなと思って歩いていたら開運堂の本店に喫茶コーナーが出来ていたので入り、和菓子と煎茶のセットを注文。先ほど買った本を少し読んで、ちょっとスマホを見たりしながらまったりした。小さな店内だったが最初いた女性客が途中で帰った後は私一人になっていたのでまあこういうのもいいなと思ったり。

街歩きを満喫!みたいな気分になって駐車場の方に戻り、バスターミナルのデリシアに行って夕食の買い物など。千円買うと2時間分の駐車券がもらえるので助かる。いくつか買い物をし、駐車券をもらって車に戻る。ちょうど2時間弱で駐車場を出た。

帰りも道の選択がうまくいってあまり渋滞せず、すんなりと高速に乗れ、高速も混まずに降りてからも一般道も割と順調。普段通らない諏訪湖の南側の道を通って帰宅した。

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昨日から書いているが、「生活」の重要性みたいなものに今更ながら気づき、生活を楽しく充実させることが最も大事なことだななどと今更何を言ってるんだみたいなことを考えているのだけど、多分そんなことはわかってる人には自明のことなので、今更それに気づいたと言っても「そうですか」以上のものではないだろう。

仕事と生活とどちらが重要かといえば、まあ重要さの意味が違うとしか言いようがないが、仕事をしていなくても「悠々自適の生活」というものはあり得るわけで、「丁寧な暮らし」みたいに生活に全振りしている人も少なくない。「仕事に全力」という人ももちろんいるだろうけどそれは基本的にはパートナーがそれを支えていてくれるか、パートナーがいなければ仕事の割には貧相な生活をしていて家にいてもやることがないからと言って仕事をしに職場に出る、みたいなことになりそうだなと思う。「仕事ができるやつは趣味も充実している」みたいな言い方もあるが、趣味というのは生活そのものとは普通は違うわけで、普通は毎日スキューバダイビングをしているわけにもいかないし全ての部屋が美少女フィギュアに占領されてる、というわけにもいかないわけである。

まあそんなことで生活の重要性みたいなものを考えているといろいろ腑に落ちてくるというか、自分がなんとなく生きていても楽しくないなみたいに感じていたのはそういうところが不十分だったのだなというのが納得されてきていて、あれをこうしたらどうだろうか、これをそうしたら、みたいなことを次々と思いついてきて、それもまた余裕がなければやりきれない、というような感じになってしまうのだけど、ただ「生活」という概念を「自分」と「人生」の間にワンクッション置いてみると割と余裕が出てくるというか、見通しが良くなる感じがあるなあと思っている。

私はもともと「生活」というものがそんなに下手だったとは思わないのだが、なぜそんな生活概念が欠落した感じに今までなっていたんだろうと思っていろいろ考えてみると、やはり「余裕がなくなった」からなんだろうなと思う。父が亡くなり、仕事仲間が倒れ、母の介護などが入ってきて、その人たちがやっていた仕事を全部やらざるを得なくなって、結局削るものは「生活」しかない、みたいな感じになっていたということなのだろうと思う。

その後はとにかく頑張って、回らないところを回すための工夫もいろいろしながら、それでもコロナで打撃を受けてさまざまが回らなくなり、なんとかかんとか青息吐息という感じで回してきて、まあそんなことをやっていたら生きていても楽しくない感じが出てきても仕方ないなという気はするが、それでも昨年後半くらいからようやく局面によっては明るい要素も出てきた感じがし、今年になってその光が少しずつ大きくなってはきたかなという感じがする。2月は暖かく3月は寒い、という奇妙な季節感のずれもあり、年度末年度始めのさまざまな仕事もあってようやくそれが一段落したから、そういうことにも目が開かれてきたということなのかなと思う。

ということで、こちらにも生活関連でもう少し楽しい役に立つこともかけていけると良いなと思っている。

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「政治」とは何か、というようなことを考えていて、主要な要素は「政策」と「権力」ということになり、政治的な争いというのはつまりは「権力を争う」ということなわけだけど、国際社会のような最高権力がない状態とは違い、国内においては国家権力、つまりは「主権」をめぐる争い、各勢力による国家主権の取り合いというのが政治の歴史ということになるかと思う。国家権力を握った勢力が国家の財源を使って「政策」を実行していくわけで、その財源の配分権、つまり予算を立てる権能が最も重要ということになる。だから「権力主体としての財務省」というものが日本政治においては常にクローズアップされてくるわけなのだけど、本来の政争がそうしたポジション争い、役職なども結局財源の裏付けがなかったら張り子の虎に過ぎないから、予算を立てる権力をめぐって各政党が争うというのが選挙というものの意味だろう。

しかし中には国家権力そのものを弱めることで市民の権利を拡大させたいと考える勢力があり、それは無政府主義=アナキズムであったり完全自由主義=リバタリアニズムと呼ばれる勢力が主である。前者は警察的な意味での国家権力の弱体化を目指し、後者は租税を縮小することでできるだけ小さな政府を目指すという方向性を持っている。前者は日本の弱体化が都合の良い周辺諸国の介入を招く温床になりやすいという問題があり、後者はいわゆる新自由主義として国家の国民福祉への関わりをなるべく限定的なものにしようとする方向性を持つわけである。

後者の動きは日本においては比較的最近のもので、高度成長時代に実現しつつあった福祉国家・高負担社会に対するアンチテーゼ、特に社会的対立の中で既得権を獲得してきた勢力に対する反発ということがあるわけだけど、前者の動きは日本の敗戦後の歴史と関係あるように思う。

敗戦後の日本は、「敗戦」という事実と国土の荒廃によって国家の権威というものが極端に低下したわけだが、政府=国家というものが廃止されることはドイツなどと違って起こらなかった。ただ、国家権力の上に立って国家に指図するGHQという「国家を超えた超権力」が国家主権を相対化する存在として足掛け7年にわたって存在したわけである。この時期に、国家を侮り国家を憎悪するメンタリティの基礎が生まれたように思う。連合国軍総司令部がなくなった後も連合国が衣替えした国際連合を超国家権力のように見なしたり、「日本はアメリカの核戦力に従属していけばいい」みたいな発想が生まれたりするのは、そうした経緯からということがあるのだろう。

これは歴史的に見れば、「悪しき国家権力」の向こうに「幕府を超えた超権力」である「朝廷」が存在する、とか共産党の世界観においても各国家に対する上位存在としてのコミンテルン=ソ連が存在する、みたいな世界観だったりもするかと思う。そういう意味で、日本人の意識の中で必ずしも「至上の権力」は日本国家=日本政府ではなかったりするのが、ややこしい事態を生む一つの契機になってるのではないかという気がする。

ただ、現実にはそういうものは大体において妄想に近いもので、ほとんどの事態は日本の国家権力がどうにかできるものだから、その国家権力自体をどうやったら奪取できるかと考える方が建設的だと思うのだが、多くの野党はそれをせずに幻の超権力が日本政府に天誅を下してくれるのを待っているような感じがして、あまり議論が深まらないのではないかという気もしなくはないわけである。

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「世の不正を正すための弱者の反撃としてのテロリズム」みたいなものについて少し考えようと思ったのだがちょっと時間的余裕がないのでまたの機会にしたい。

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より差し迫った感じがするのがイランとイスラエルの報復合戦なのだが、周囲の国々は「戦いを抑止する」「被害を最小限にする」という方向に動いていて、イランもアメリカもこれ以上ことを荒立てたくない感じがするけれども、戦争を続けなければ自分の権力が維持できないネタニヤフはなるべくイランに打撃を加えたいという意思を持っているようで、その辺りのところをどう評価するかで政治関係も経済関係も(特に株式市場など)見方が分かれているのだと思うが、そんなに急激ではなくても値下がり傾向が強いのはやはり悲観論・慎重論が一定以上あるということだろうと思う。

そうした直接の戦争の危険だけでなく、イランに対してはソ連や中国が間接的な支持を表明し、イスラエルにはアメリカやイギリス、ドイツなどが支持をしているわけだが、西側の動きも「国際法にかなった反撃」に努めるウクライナはともかく、国際法を無視してガザでの虐殺を繰り広げるイスラエルに対してこれらの諸国が支持することは、白けた空気が広がっても仕方ない感じはする。

プーチンとネタニヤフが国際法を踏み躙って自国の主張を通そうとするのは戦後世界で曲がりなりにも運用されてきた国際法の権威の凋落を招いているわけで、これはおそらくはパンドラの箱であって中小諸国がよりそのハードルが超えやすくなって、国際法というものも「だいたい守っている国」だけに課せられたルールみたいになっていくことはあまり良いことではないだろうと思う。

イランとイスラエルの敵対関係の緊迫は国際平和への大きな脅威であることに違いはないのだが、どちらが勝っても良いことはない争いであるなとは思う。また、いわゆるグローバルサウスの国々がどのような支持を表明するかも気になるところだ。

現在でもイェメンのフーシ派が紅海の船舶を攻撃することで海上輸送が滞りがちになって世界経済に影響を与えているけれども、イランが戦争状態に入ればペルシャ湾岸をはじめとして原油の調達に著しい危機を招くことは明らかだから、ネタニヤフと戦争熱に浮かされたイランとイスラエルの一部の人々を除けばそんな事態は誰も望んでいないだろうと思う。

ウクライナで正義が蹂躙されていることはもちろん問題なのだが、パレスチナでもやはりそうであるわけで、今イスラエルに支持を表明している国々の中でアメリカは明確にオスロ合意に基づく解決を少なくとも表面上は求めているけれども、ドイツやイギリスがどこまでそれを考えているのかなど、「正義の実現」に誰がどれだけ熱心なのかという疑問もある。

岸田首相の米議会での演説はこういう世界情勢の変化にアメリカだけに任せるのではなく日本も役割を果たす、という意思の表明であったわけだが、一番日本にとっては手を出しにくい中東情勢が最初に悪化したのは皮肉なものだとは思う。

日本としては、できることは限られているにしろ、人道と平和の観点からできることをしていくしかないだろうと思う。経過を見守り、より良い解決がなされることを望みたい。

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