アニメ「忘却バッテリー」に期待/「スナックバス江」とアニメの現状/ネット文化への判決/嫌われることと正しさを貫くことと個人の幸福など

Posted at 24/04/11

4月11日(木)薄曇り

昨日は午前中いろいろやりながら、少しずつ考えを前に進めようと思っていたのだけど、直近のタスクみたいなことをやってとりあえず中長期的なことを考え始めたら疲れが出てしまって、直近でやらなければならないこともいくつかあったのにやりきれない感じだった。今日は大きなタスクが三つあるので結構忙しい。なんか目の調子があまり良くないから無理をしないで淡々と早め早めに準備したいと思う。というかこのブログ(note)を書くのが一番時間が読めなくていつもネックになっているのだけど。(笑)

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「忘却バッテリー」のアニメ録画で見たけど、かなり良くできていたなという感想。不安要素もないわけではないのだけど、ギャグパートやストーリーの普通の展開の部分ではすごくテンポが良くて良かった。真剣勝負の場面の迫力というのがもう一つな感じはしたのだけど、これは「巨人の星」や「侍ジャイアンツ」などを見て育った世代の欲目なのか。ただそういう昔の野球アニメみたいな雰囲気を感じさせる部分があったなと思う。楽しみにしたい。

https://youtu.be/Gb4xzSX71Lo?si=Zivjf0lc10L2s-ui

「スナックバス江」のアニメ、いろいろと話題になっていたが、作者さん本人と思われる人が専門アニメーターでなくても使えるいろいろな技術を使ってショートアニメを制作し、YouTubeにあげているのが話題になっているのだが、実力とセンスで専門でなくてもここまでの作品を作れる時代になったのだなという感慨が強い。これはAI的なもの全体についてそうなのだけど、専門家はこのレベルを超えていかなければいけないのだからなかなかハードルは高いと思うのだけど、待遇問題や制作本数などいろいろとハードルはあるのだろうなと思う。またテレビ局との関係など制作体制そのものについてもいろいろ問題はあるのかなという気はする。あれだけ話題になった「葬送のフリーレン」がなかなか2期制作発表のアナウンスがないのは日本テレビと小学館の関係からだろうかとかいろいろなことを考えてしまう。フリーレン自体は間違いなく漫画もアニメも傑作なので、しっかり世に送り出されることを待ちたいと思う。

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青識さんと石川さんの裁判で青識さんが負けた件、これは何か重大な話があったのかと思ったら青識さんが「決めセリフ」的な石川さんのツイートを切り取ってきて違う文脈で決めセリフ的な反応のアクションとして使っていたことが本人がその案件にそういう反応をしたと誤解させることになるから名誉毀損である、という判決だったようで、これはツイートはともかくマンガなどを切り取ってきて反応に使うというのは割と多くの人がやっているから、要は「使われた人がそれに同意できなければ名誉毀損になる可能性がある」という一定のラインが引かれたということになるのかなと思う。これ自体はインターネットの文化に一石を投じることになると思うが、なかなかネットの世界も難しい部分が増えてきたということではあるのだろうと思う。

ただこれは青識さんの不品行というよりはネットの文化自体に司法の判定が下されたということのように思うし、司法による表現の自由への介入という古くて新しい問題の一環でもあると思うが、それがスラップ訴訟的な裁判で通ってしまったというのもどうなんだろうという気はする。暇空さんもそうだが、左派的なコンセンサスに物申そうとする人たちが不当に扱われ、強い言葉で言えば弾圧される傾向があるのは日本の言論の中心がどういうところに移りつつあるのかということを示しているのだろうなと思う。

これは昨日書いたボランティアの問題にも関係するのだが、こうした新しい左派的コンセンサスの形成とそれが現在もたらしている弊害のようなものについてはもっと研究されていくと良いなと思う。

奈良教育大附属小学校の配置転換問題と実はその裏にあったいじめによる転校問題など、左派自由主義的教育思想など、いろいろなものとも関連しそうではある。

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「嫌われること」と「嫌われても自分の正しいと思うことを貫くこと」、という古典的な問題について、嫌われたくないなら言動を改めよ、自分たちの言いたいことを言うけど嫌うなと言うのはおかしい」と言うのを読んで、その通りだと思いながらいろいろ考えたりはした。

https://twitter.com/reichsneet/status/1778009060526453089

これは「萌え絵問題の最前線」みたいなところにも当てはまるのだけど、フェミニスト方面からの批判・球団は最初は露出が多いのは問題だと言うことだったのだが次には描かれているのが巨乳であることが問題だ、となり、現在では「女性らしい体の線を描いていることが問題だ」みたいなところまで批判の矛先が向いているわけだけど、つまりこれは「萌え絵がフェミニストに嫌われる」問題であって、嫌われ批判されても使っていくと言う姿勢を堅持してもらうしかないと言うことなんだよなと思った。

表現を規制される側の対応としては「断固として戦う」と言うのと「妥協できる点までラインを引き下げる」と言うことがあり、表現というのはもともと「誰も全く傷つけない表現というのはあり得ない」というものである以上、「そうであってもその自由は守られなければならない」というラディカルな部分を常に含んでいるわけである。

萌え絵という表現形式がフェミニストの求める男女観と根本的に相容れないものである以上(これは「平凡で穏やかな女性との幸せ」=「たのしいピクニック」というイラストに噛み付く人がたくさんいるのと同じ)嫌われるのは仕方がない、という面がある。嫌う方はなんだかんだと理屈をつけて規制しようとするし、守る方は「表現の自由だ」という以外に守りようがないのでそこを守ろうとすれば本当は批判はの根拠になっているフェミニスト理論そのものを批判し、それが妥当なものではないということを言っていくしかないということになるが、そこまでラディカルに踏み込んでいく人がそう多くないのは、やはりそうした左派コンセンサス=空気が現代の世界で厳然と強い圧力を持っているということの証明でもあるのだろうと思う。

ただ本質的に、人間の幸福というものはどういうものなのかという方向で考えていく時に、そうしたwoke的な方向で本当に人間が幸せになれるのかということもまた考えていくべきことだろうとは思う。あまり論争に絡め取られずに、本質について考えて行った方が個人としての幸せには到達しやすいのではないかと思った。

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