川勝知事の「差別発言」と、日本が「雑兵が主人」であり「信仰されないと朽ちていく弱いエリート」の国であること
Posted at 24/04/03 PermaLink» Tweet
4月3日(水)曇り
今日の予報はこれから雨ということで、1日大体降りそうな感じなのだが、今日は近くの高校が新学期の始まり、つまり始業式ということで家の前の道をぞろぞろと高校生が上がっていっている。この道は通学路というわけではないのだが、いわば裏道として使っている生徒が多く、通学時間は車を動かすのが多少面倒なのだが、休み中は静かだったので、またそういう意味での日常が返ってきたという感じはなくはない。
昨日はいろいろ仕事があったのだが、午前中に事務の人と協力してなんとか道筋をつけたので、ちょっと気が軽くはなっている。まあ一つ一つ片付けていこうということだなと。
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「野望」についていろいろ考えたのだが、これはまた改めて書きたいと思う。
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川勝知事の「差別発言」がいろいろ取り沙汰されているので、それについて考えたことについて少し書こうと思う。
川勝知事の発言をいろいろ考えると、つまりは「君たち(県庁の役人)は「雑兵」ではなく「軍師」なのだからそこ考えて奮励してくれたまえ」ということだと思うのだけど、あいにくと日本は「雑兵の国」なので、皆さんを怒らせた、ということなのだと思う。
まあ「俺は軍師タイプなんでー、まあ雑兵のやるようなことはやるべきじゃないかなと」とかいう「俺はまだ本気出してないだけ」みたいな人がよくネットで嘲笑の対象になっているが、まあそういう「お気持ち軍師」とは違って知事が直接訓示をするような県庁の役人の人たちはまあ県内では少なくともエリートだろうから、ついまあ口が滑った、みたいなことなんだろうとは思う。
ただ日本という国は、エリートが完全に庶民労働者を押さえつけその上に立っているヨーロッパのような階級社会ではなく、エリートなんか根本的には便所の紙くらいにしか思ってない(いないと困ることは困る)庶民とか雑兵とか「百姓」とかいってもいい感じの人たちの国だということはエリートの人たちもちゃんと自覚しておかないと余計なところで叩かれるわけである。渡部昇一さんはこういう人たちのことを「ドン百姓」と呼んだが、それはどん百姓であり、ドン・ジョヴァンニのドン、すなわち「貴族」でもある、という意味合いで読んでいる。そのほかの言い方としては善男善女とか草木国土悉皆成仏みたいな言い方もあるだろう。
最近の言葉で言えば「納税者」だろうか。自分たちの血税を既成エリートどもがじゃぶじゃぶ無駄遣いして美味しいものを食っている、みたいな意識が既成エリート攻撃に向かい、維新の会などを躍進させたわけで、この辺りは流石のポピュリスト政党だということだと改めてよくわかる。
「庶民」はともかく自分たちを足蹴にして自分たちだけでいい思いをしている(ように見える)エリートという存在が嫌いなわけである。
エリートの世界にはエリートの世界で血による、つまり家系図的な差別意識もあるだろうし、富の力による差別意識もあり、また一番大きく普遍的なのは能力による差別意識、つまりメリトクラシーであるだろう。これらの意識はそれぞれ庶民にもそれなりに浸透しているので、そうした差別感をうまく利用して特別感を出すことによってエリートがその地位を築いている、ということはある。2世議員というものも結局はそういうことだろう。
まあそれはともかく、庶民は「実力で金持ちになった人たち」はともかく、「システムを利用してうまい汁を吸っている人たち」が一番嫌いなわけで、政治資金問題なども結局はそうだろうと思う。またコラボ問題など弱者支援の左翼が公金をチューチューしているというのが憎まれるのも同じ問題だろうと思う。
逆に言えば、庶民は血統なり能力なり財産なり様々な理由や力によって「貴いもの」「偉大なもの」になっている人たちの「自己犠牲の物語」にとても弱い。自分たちが払っている犠牲を、この「貴いお方」も払っている、と考えると、涙せずにはいられないわけである。
そういう話の典型は古代の天皇に関する説話だが、民が寒さに苦しんでいるのを知った村上天皇が宮中できているものを一枚脱いで民と同じ寒さを感じようとして重臣たちを感涙させたという話や、仁徳天皇が民の竈から煙が上らないのを見て税を取ることを数年やめて宮中は荒れ果ててしまったものの民の竈からは煙が勢いよく上るようになった、というような話である。
高き屋にのぼりて見れば煙立つ民のかまどは賑わいにけり
もっと近い例で言えば、戦前の日本で「軍神」といえば海軍で東郷平八郎であるのは日露戦争の日本海海戦の実績を踏まえれば当然のことだけれども、陸軍で言えば乃木希典であり、二〇三高地で無謀な突撃を繰り返し多くの将兵を失い、最終的には参謀の児玉源太郎に指揮を委ねてようやく勝利した彼が軍神であるのはちょっと首を捻る感じがある。
しかし、彼はそういう愚直すぎる性格と、何よりも彼自身の息子を二人とも戦死させているという犠牲を払っていることで、庶民から無限の尊敬を得ていたわけである。また、「主君」である明治天皇の崩御に際し、夫婦で殉死したというその真面目さも大きいだろう。
ただそういう態度は後の時代に必ずしもいい影響を及ぼしたとは思えな感じはあり、太平洋戦争の終戦の際に陸軍大臣阿南惟幾が腹を切ったのも乃木の影響は大きかっただろうと思う。
乃木の影響は軍人だけでなくある種の時代精神にも影響を及ぼし、例えば夏目漱石の「こころ」では自分の心の始末の付け方に困っていた「先生」が明治の精神に殉ずるという形でみずからの過去の行状に決着をつける、みたいな話を書いているわけである。
まあこの話の「先生」は大家の老婦人の娘をめぐって緊張関係にあったKを「精神的向上心のない者はばかだ」というK自身の言葉を彼にぶつけることで牽制してその隙に娘との結婚を申し出るという姑息な手段を使い、結局Kが自殺してしまったことでどうしようもない罪の意識に囚われているというとんでもない話なのだけど、それが何十年にもわたって高校の現代文の教科書に掲載され続けているというのは、一つには日本人の精神性に非常に馴染むところがある話だからなのだろうと思う。
乃木大将の殉死というエリートの自己犠牲的な出処進退のあり方と、みずからの心の落ち着く先を求めての「先生」の自殺を延々と日本の中等教育は題材に取り上げ続けたわけである。それは「先生」が属する「エリート」の階層に対する無言の批判にもなっているわけである。
他の例を挙げれば「山月記」もずっと取り上げられている作品だが、これも「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」で我が身を虎にしてしまい、破滅したエリートの話で、「エリートといってもこんなもの」という批判でもあり、「こうなったらだめだ」というエリートへの教訓でもあって、その辺からも無意識の無言の支持が続いたのだろうと思う。
共通テスト導入の際に「山月記を教科書から外せ」とベネッセと協力関係にあった学者が言っていたことが思い出されるが、要は日本人の心にあるエリート批判的な心性が再生産されることを嫌ったんじゃないかな、という気もしなくはない。
一方で「難しいことがわからない」庶民の代表が信義を守った、という話が「走れメロス」である。これも中学の教科書に数十年間掲載され続けている。メロスも途中あまりの苦難に諦めようとしてしまうが、最後まで頑張って自分が犠牲になるために帰ってきて、悪虐非道な王の心を動かす、ということになる。ただこれもまた、ドン百姓こそが日本の主人、ということから考えればヘロヘロなエリート(太宰もそれに属する)が悪虐非道な「ドン百姓」に認めてもらえる話と読めないこともないわけである。まあ、太宰はそれくらいは屈折している気もしなくはない。
そういうわけで、日本におけるエリートというのは、主人である民の空気をきちんと読んで、その半歩先の進むべき道をきちんと示し、彼らを引っ張っていくような存在が理想なのであって、君らエリートは百姓や労働者とは違うんだぜへヘーンみたいな感じの言い方をしてしまうのはやはり空気がちゃんと読めてないということで罪を負わされるのは仕方ない、みたいなところはあるのかなとは思ったのだった。
そういう「エリートのわきまえ」「エリートの身の程」というものはイギリス流のNoblesse Obligeとはまた少しニュアンスが違うし、儒教的な「徳治」の概念ともまた違う感じがある。イギリスでも中国でも偉いのはエリート、というのがはっきりしているが、日本ではエリートは庶民が「偉くさせてやっている」みたいな感じのところが強いわけである。「先生と言われるほどの馬鹿じゃなし」とかにその感じが現れているが、「敢えて先生と呼ばせてお神輿に乗ってみせる」のが日本のエリートの「あるべき姿」みたいな感じなわけである。
この辺のところは、白洲正子の古い仏を巡礼するエッセイの中で、「日本の仏というのは信仰してあげないと、大事にしてあげないと朽ちていってしまうような弱さがあり、その弱さこそが愛おしい」みたいなことを書いていたけれども、愛されるエリートというのはまあ、そういう弱いエリートなのだよなと改めて思ったのだった。
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