専門家と当事者と批判者の三すくみ:素人はどう考えて誰に乗るべきか

Posted at 24/03/11

3月11日(月)晴れ

昨日は祖母の法事を執り行い、まあいろいろハプニングはあったがとりあえず無事に終了。今朝は妹といろいろと話をしていたら11時を過ぎ、なんというかいろいろマンガを読んだりしてもう1時になってしまった。

昨日はブログの更新報告以外はほとんどネットを見ていなし、そういう意味では丸一日浦島太郎みたいなもので、世界で何が起こっているのかよく分からない。

今読んでみた論考について少し。

https://note.com/yonahajun/n/n0e8bcdc8f290

輿那覇潤さんの論、賛同できる部分もあるし、どうかなというところもあるのだけど、現代においては「専門家でも分からないこと」がとても多いのだなと改めて思う。

コロナワクチンもそうだし、ウクライナもそうだし、パレスチナもそうだが、専門家の発言は「不確定な未来」に対して結局一つのスタンスを提供する、という形で行われていたなと思う。そしてそれにある種の危急性があり、とりあえずはそれに従っておいた方が良い、というふうに私は判断したから、とりあえずそれに乗ったのだが、まあそのように判断しない人もいたのだなと思う。

逆にいえばその専門家のスタンスに乗るということ自体が一つの賭けだ、という面があると同時に、ある意味容易に逆張りを張れる、というある種の人々にとっての利点もまたあったなと思う。

いずれにしても、検証はこれからしていけばいいとは思うけれども、私はつまり専門家というものはそういうものだと思う、というか「ある種の方向性に賭けている人たち」だと思うので、まあ外れることだってあるのだろうと思う。

ただ、私は割とそういうふうに割り切ってはいるけれどもみんなそういうわけじゃ無いんだなと改めて思っていて、そういう「反論」というのはむしろそういう意味での専門家ではない「文系」の人たちから出てくることが多いわけだ。

というかまあ、文系というものの本来のスタンスが、ある方向に世の中が雪崩を打って変わろうとしているときに、それに疑問を呈するのが仕事みたいなところがあるからなわけだ。それが危急の場合には単なる障害となってしまうこともある。

専門家はあらゆる可能性の中でよりベターなものを追求した結果結論として示されたのが「ワクチン投与」であり「ウクライナ支援」であったわけだが、本来ワクチンのようなものは100%安全では無いことは確かだし、直接戦闘に参加しない覇権国が援助すると言っても国内的に疑問が呈されたら持たないということはある。ロシアはやってることはめちゃくちゃでも自分たちが当事国だからどんな手を使ってでも勝とうとするわけだが、ウクライナは「援助を受けてる身」だから旦那に言い訳の立たないことはできないわけで、それだけ手を縛られているわけだ。

イスラエルもまたどんなに国際社会が反対しようと、当事国として至上命題を達成するまではどんな非難を受けてもやるわけだし、それを止める力は他の国にはない。

専門家は専門家であるゆえに説得力を持った発信はできるけれども、ワクチンと死亡の因果関係はまだ分からないにしてもそれが疑われる当事者として発言しているわけでは無いから、その点における弱さはある。

まあ、戦前では陸軍や海軍が専門家でありまた当事者であって彼らが戦争を始めたから国民はついていくしか無いとなったわけだけど、専門家も当事者もまた誤っていた、みたいな部分はやはりあるわけで、まあ結局は誰が正しいなどとは言い切れないことが多い。

文系の批判者もまたもちろん真摯な批判者もいれば世論に迎合してポイントを稼ごうとするだけの批判者もいる。まあ三者三すくみで誰が正しいとは限らない。

結局、素人である我々としてはそれぞれの言い分を聞いてとりあえずどれに乗ってみるかは考えて決めるしか無いわけだけど、まあ判断の責任は自分で負っておいた方が後になって後悔したり人を責めたりしないで済む、ということはあるだろう。

まあ、パンデミックが起こったら一定の人は死ぬのは避けられない。ウクライナにしろパレスチナにしろ、テロや戦闘が起こったら誰かは死ぬ。フェミニズムやLGBTの例が挙げられていたが、ああいうのは馬鹿げたパフォーマンス的な争いに乗っかっても馬鹿を見るだけだ。結局その中で我々はより後悔の少ない選択をする以上のことはできないわけで、より後悔しそうな選択を社会や国家が取ろうとした場合は自分ができる範囲で反対意見を表明し賛同しない、抵抗する、などの意思を示すしかない。

まあマイナンバーにしろインボイスにしろ私は基本的に強く反対だが、本当に普及してしまったらすでにもうそれに乗らないのがベターな選択でも無くなるから渋々やらざるを得ないみたいにはなるだろうなとは思う。世の中は長い目で見て正しい選択をするとは限らない。ただそれが大勢になってしまったらそれに乗らざるを得ない状況というのが現れるというだけのことだ。

そうなってしまった後で弊害が起こってもその解決はすでに新しいステージの問題になっているわけで、「あの時反対したのに!」と言ってもその時負けてしまった、押し切られてしまったのだから「負けた」側もまた社会の主流と同じ罪は負わなければならなくなってしまう。

そういう意味で争いは「勝つべき」なのだが、まあいつもそうはいかないのは残念なことではある。

とりあえず我々が認識すべきことは、「専門家は全能ではない」こと、「当事者は100%正義ではない」こと、「批判は誰でもできる側面がある」こと、「素人は判断の幅は限られるがより少なく悪い方を選ぶしかない」ということ、みたいなことなんだろうなと思う。そして何にせよ、うまくいけばいいがうまくいくとは限らない、ということが世の中のほとんどのことなのだ、という認識なんだろうと思う。

付け足しになるが、「専門家はある方向に賭けている人たち」の最もわかりやすい例は経済の専門家だろう。彼らのいうことは当たることより外れることの方が多かったのは、この30年あまりみんなよくわかってることだと思う。それでも専門家は専門家なので、まあ彼らもタフでなければ務まらないが、我々もそれでもとりあえずは耳を傾けようという姿勢を持たざるを得ないので、まあ人間というものはなかなか賢くはならないものだなとは改めて思う。コロナ対策の責任を医学者に求める声は結構あるけど、責任を求めたら何十人もギロチン送りにされそうなここ30年の経済政策で死刑になった人どころか罰を受けた人は誰もいないのである。専門家の責任というのは逆にいえばその程度ではある。

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