「パーフェクトデイズ」/「2.5次元の誘惑」:モブ描写で表現されるコミケの熱/「セクシー田中さん」の問題は内容的には「自立の物語を書きたい原作者」と「解放の物語で売りたいプロデューサー」の根本的な対立だったのではないか

Posted at 24/02/03

2月3日(土)晴れ

昨日は帰宅が遅くなり、その分自動車のフロントガラスも凍結して駐車場から出るのにも時間がかかり、家に帰って夕食を取るのが11時前になってしまった。食後何となく横になったら気がついたら12時を回っていて、歯を磨いてすぐ寝たのだが夜中に一度トイレに立ったものの、気がつくと明るくなっていて下に降りて時計を見たらもう7時前だった。こんなに寝たのは久しぶりな気がする。

朝はブログも書かないで車で隣町まで走ったが、普段はまだ暗いうちに走っているので明るくてなんだか不思議な感じだった。ガソリンスタンドに向かう途中で日が上ってきて東向きのフロントガラスは眩しくて困ったが、とにかくガソリンを入れて山の上のデイリーまで走り、塩パンとアンドーナッツを買った。車の中では「ウィークエンドサンシャイン」を聞いていたが、映画「パーフェクトデイズ」で使われた音楽を取り上げていて、珍しく日本のミュージシャンの曲がかかったので家に帰ってからも少しラジオを続けてきいた

「パーフェクトデイズ」も機会があったら鑑賞したいと思う。

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流石にスケジュールが押していてすぐに朝食を食べ、ジャンププラスを見たら「対世界用魔法少女つばめ」は休載だったので「2.5次元の誘惑(リリサ)」第155回「復活の日」を読んだ。

https://shonenjumpplus.com/episode/8603475606557225776

これは昨夜寝る前に一応読んだのだが、頭に全然入ってきてなくてなんだかぼーっと読んでしまったのだが、今読み直してみるとめちゃくちゃいい。一つ一つが本当に丁寧に描かれていて、この登場人物が多い作品を一人で作画していることのメリットが、コミケのような群衆シーンの多い場面でとても生きてくる。だからこそコミケの熱が伝わってくる。もちろん作画はオーバーワークで死ぬと思うのだが、それだけの力が紙面に現れるやり方だなとは思う。

展開としてはネタバレになるが、と書きそうになったがこれは私の予想の完全に斜め上だったので、ちょっとまず先に読んでもらったほうがいいと思うから書かない。それにしても奥村の戦略眼の凄さとリリサの人望、それに753♡の愛が深すぎるツンデレ女王ぶりはめちゃくちゃいい。もっと書きたいがこれ以上書けないのでぜひ更新を読んでもらいたいと思います。

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「セクシー田中さん」の件は昨日も結局ずっと追いかけてしまったのだけど、特に印象に残った、というか考えるきっかけになった記事を二つご紹介いただいたので、そのことについて書きたいと思う。一つは小学館、つまり出版社側、もう一つは日本テレビ、つまりテレビ側のコメントで、それぞれ雑誌編集長とプロデューサー、つまりこの問題の双方の責任者のインタビューである。

https://web.archive.org/web/20240104105318/https://adpocket.shogakukan.co.jp/adnews/7059/

https://xtrend.nikkei.com/atcl/contents/18/00897/00012/

二つのインタビューを読んで思ったのは、雑誌側はメディアミックスの野心に燃えていて、ドラマ制作側は彼らなりの作品への入れ込みを持っていて、この事件は彼らが原作の繊細さよりも彼らなりの「面白さ」の追求に夢中に成ってしまったことで起こったのではないかと思ったのだった。

まあ資本主義社会だから当然と言えば当然だが、双方とも数字ばっかり、お金ばっかり追いかける人たちだなとは思った。それはまあ良い面もあり悪い面も当然あることである。

番組側のコメントや宣伝文句、あるいはそのほかの週刊誌の記事などを読んでも、この「セクシー田中さん」という作品は、「40代の女性の自己解放の物語」ととらえていると思うのだが、どうも読んでいてその辺がモヤモヤしていた。

モヤモヤしたまま入浴して考えていたのだけど、つまりはそこが原作者の芦原妃名子さんとの決定的な齟齬であったのではないか、ということに気がついた。

この物語、私は主人公の田中さんだけでなく、全ての登場人物にとっての「自立の物語」だと思うのである。そして田中さんや朱里にとっては、それが「ベリーダンス」というものに、「背筋を伸ばして立っていられる」という言葉に象徴されているのだと思う。

作中、初めての発表会で朱里は元カレの進吾がきていることに気づいて動揺し、めちゃくちゃに踊ってしまうのだが、進吾は逆にそういう朱里の踊りに爆笑し、自分の中の整理がついてブラック企業を退職する決意をすることができた。そして小西と飲んだ際に朱里のことをよろしくお願いします、というとともに、「朱里のダンスはへっぽこだけど人を変える力がある」と伝えてくれるように頼む。つまり進吾は朱里のベリーダンスを見て「自立の力」を得たわけである。

そして小西も、そんな進吾と話して、自分が今まで一度ダメになりかけた女性と付き合えなかった自分と向き合い、「ごめん」ということで朱里との関係を取り戻す。自分のプライドへのこだわりに寄りかかることなく立つことを掴んだわけである。

ドラマの方は見ていないので確信を持ったことは言えないが、恐らくはプロデューサーの言い方からして、「自分の心の中の決めつけや周りの視線に縛られていた自分を解放して自由に生きるようになれた」人たちの物語、つまり「解放の物語」としてこの作品に臨んだのだろうなということはまあ想像がつく。ここでの解放とは、つまり世間で言われている「女性解放」とか「男性からの抑圧からの解放」、「古い価値観からの解放」みたいなレベルのことである。

問題は、「解放」は必ずしも「自立」ではないことである。もちろん、「自立」するためにはさまざまな固定観念や、世間の目という恐怖からの「解放」があったほうがいい。しかしそれがなくても、田中さんはベリーダンスと出会うことによって「背筋を伸ばして生きる=自立する」ことが可能になり、そんな田中さんに朱里は憧れたわけで、ベリーダンスをしているときに「自立」することはできてもそれ以外の時には「背中が曲がっている」ことも多いわけで、「きっかけとしてのベリーダンス」が自立を促したことは確かだけれども、それだけではダメで、それが登場人物たちの関わりの中で真の自立を掴んでいく、というのがこの物語の言いたいことなのだと思う。

この物語が単なる「解放」の物語でないことは、三好という人物によって表現されている。このストーリーの中で最も「解放」された人物は三好だろう。そしてそこにおそらく田中さんは惹かれていて、芦原さんが生前に描いたストーリーのほぼラストで田中さんは三好と付き合うことになる。

この先は想像に過ぎないが、恐らくは田中さんと三好の付き合いはあまりうまくいかないだろう。三好は「あまりに解放され過ぎている」人間だからである。誰にでも優しく、誰にでも親切で、困った人には手を伸ばし、そのことで自分が不利益を受けてもその人のことを見捨てない。それはお坊さんとかなら良いけれども、そういう人と付き合っていると女性は不安になるのではないかという気がする。

彼はつまり、「解放」の悪いところをある意味体現する人物なのであって、少なくとも理想の人物としては描かれていない。今の田中さんには恐らくはそう見えるのだけど。そういう前提で考えれば、「この作品は解放の物語ではない」ということになるわけである。

それではなぜ、プロデューサーはこの物語を「自己解放の物語である」と規定したのだろうか。それはもちろん、そのほうが受けるからである。視聴者である女性の側も、自立なんていう面倒くさいことよりも、解放という楽なことの方を求めている人が多いだろうだから、解放のその先にある自立の物語などよりも、「自分が解放される」ことを疑似体験できることの方が関心事であり、そのニーズをプロデューサーは理解しているということになる。

自立の物語を描きたい原作者の芦原さんとの齟齬は、そこが最大の点ではないかと思う。芦原さんの消されたブログには、「進吾も小西も、あんなにバカではない」という言葉があったように記憶している。自分が踏み切れなかった自立を朱里のダンスや進吾の行動で掴み取るには、それなりの知性が必要だから、そこのところがうまく書かれていなかったのかなという気はする。見ていないからわからないのだけど。

この辺りの問題は、日本のフェミニズムとも通底するのではないかと思う。本来、フェミニズムというのは「女性の自立」を最大のテーマとしていたように思うが、日本ではなぜか「女性の保護」やその延長上での「女性の解放」、あるいは独善的な「女性の権利」などが追求されるようになっていて、「男性が支える社会の中で女性が解放されて自由に生きたい」というトンデモな願望がフェミニズムであると誤解されている感じが強い。それは、つまりはそういう女性のニーズに迎合したということなのだと思う。

「日本では女性の自立の物語はカネにならない。」つまり、小学館の編集長も、日本テレビのプロデューサーもそのように判断し、それを芦原さんに押し付けようとしたが芦原さんは最後まで抵抗したものの、自分の思うように事態を変えることができなかった、ということなのではないかと思う。

だからこの問題はつまり、日本社会の根底にある「甘えの構造」、「無責任の構造」を反映した事件だったのだろうと思う。米軍の軍事力に支えられて繁栄を謳歌する与党、与党の政策力を前提として与党の批判によって人気を得ようとする野党、自立よりも解放を求めるフェミニスト、コンテンツの力を原作者に丸投げし、それでいて十分に原作者に表現させずウケ狙いとカネ儲けに邁進するメディア企業、そういうものの積み重ねがこの事態の背後にはあるのではないか。

自立の物語を描きたかった原作者と、解放の物語で売りたかった製作者たちの対立。とりあえず私は今の所事態をそのように整理している。

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南箕輪村に行った話をして地方議員経験者から聞いた驚きの話なども書きたかったのだが、とりあえず日を改めて書こうと思う。

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