「学びから仕事へ」/おたくとは「誰もが知っていることをとんでもなく良く知っている人」/「ONE PIECE」の出会いと別れ、それに「いたいけな少女」

Posted at 24/01/07

1月7日(日)晴れ

年末からの疲れが溜まり、正月は大勢来て、また自身や航空機事故について考えたりしていたために3日頃から調子がイマイチだったが、昨日は土曜日で上がりが早かったのでセブンのパスタを夕食にして済ませてから早めに寝て、今朝起きたら3時過ぎだったのだが、寝床の中で「国宝・松本城の作り方」とかの企画を考えていたら割合元気になったようで起きてきた。これは「松本城」というものを「作る」ためにどのような「仕事」がなされているのか、つまり今まで考えていた「学び」論から「仕事」論への道筋をつける、「学びから仕事へ」みたいなことで、「仕事」の本質みたいなものを調べて考えられるといいかなと思ったのだと思う。

昨日一昨日も起きたときには割合調子が悪くはなかったのにだんだんキツくなってきたから、今日もそうならないようにゆっくりやりたいと思う。正月も周りのペースにあまり合わせずに自分の体力的なペースを守ろうと思い、二年参りや初詣などには行かなかったのだけど、それでも母が帰宅するなど気を使うことは多く、どこかでペースを崩したなと思う。正月というのは「出かける側」より「受け入れる側」が何倍も大変、というのは出かける方は自分のペースで行き来できるが受け入れる方はみんなのことを考えなければならない、ということがあるわけで、まあこれはそういう立場にならないと理解しにくいことなんだろうなとも思う。

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おたくという言葉についてちょっと考えてみた。

おたくという言葉も重さとか指すものが時代によって、あるいは状況によってかなり変わってきているよな、ということを入浴しながら考えていて、まだ髪を乾かす前から書き始めているのだが、何を言いたいかというと昔はおたくといえば誰も知らないマイナーなジャンルや雑誌のマンガを見つけてきてそれを嬉々として語る人、という印象があり、私もそういう人に高野文子や山田章博などを教えてもらって楽しんでいたのだが、いつの間にか「HUNTERxHUNTER」の細かいエピソードを全部覚えてる人、みたいなのがおたくだ、という感じになってきたなということである。

しかし書いているうちに、正確にいえば前者は実はサブカルであって後者が真のおたくなのかもしれないという気がしてきた。つまりは私は前者のようなものがおたくだと思っていたのだがどうもちょっと違っていたのかもしれないと。

少なくとも今おたくとして語られているのは庵野監督のようなアニソンを全部歌えたり自分でウルトラマンを演じたり、あるいは宮崎勉元死刑囚のようなウルトラセブンの幻の回を手に入れるのに異様な能力を発揮する人、つまり「みんな子どもの頃に一度はまるコンテンツに対し、成長期が過ぎてもずっとそれを愛で続ける人」みたいな感じで解釈されているのだなと思う。

「2.5次元の誘惑(リリサ)」でもののあが小学生の頃はリリエルの絵がうまくて人気者だったのに中学生になったら相手にされなくなったとか、(現実で言えばプリキュアで考えればわかりやすい)「誰も知らないコンテンツ」を見つけてくることよりも「誰もが知っているコンテンツを異様によく知っている」みたいなものがおたくということになるのかなと思った。鉄道もアイドルもマンガアニメも基本誰でも知っているがそこに普通はそれほど深くは思い入れない、というものに凝るということなのだろう。

ただどちらにしてもディープな方向に行くとエロ的な深まりを見せるのが男だとエロアニメ、女だとBLということになるだろうか。まあこれはどちらも余人の追随を許さない領域というものが存在するのであまり近づきたくない感じもするが、おたくの一つの極北ではあるのだろうと思う。

私はどちらかといえば人は知らないがこの作品が面白いことは私は知ってる、みたいな後方腕組み的な感覚の方が強いのでおたくではないなあと思うのだけど、おたくの皆さんのいうことは色々勉強になる。

友人に鉄オタバスオタ系気質の人がいるのだが、FBで長距離区間路線バスを乗り継いだ報告を書いていたので大変だねバスオタすごいねと言ったら本物のバスオタはこんなものじゃないと説教されてうへえと思ったことがある。

その情熱が社会を良くする方向に発揮されることを祈ります。

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「ワンピース」、アニメではワノクニ編が終わったところ、ジャンプの連載では未来島編が佳境に入ったところなのだが、ワノクニ編が終わったときに何かなくなったな、と思ったのはパンクハザード編以来ずっと麦わらの一味と行動を共にしてきたきんえもんとモモの助がワノクニにとどまってもう出なくなってしまったことなんだな、ということに気がついた。私は読み始めたのはドレスローザ編の途中あたりなので、その前のパンクハザード編からレギュラーになっていた二人がいないのはなんだか変な感じがしたということなのだなと思う。

同じような現象で言えば、グランドライン編に入ってすぐレギュラーになったビビがアラバスタ編のラストで一味と分かれた展開と同じわけで、あの頃はまだ連載期間も短かったからビビがいなくなった喪失感は大きかった(23巻中12巻以降だから半分以上出ていたことになる)だろうなと思う。今回は67巻から登場して105巻までだから、38巻分と相当長いが物語全体での占める割合は4割弱になる。連載年数にしたら相当な年数であるわけだけど。

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ただ、ビビとの別れがワンピースの一つのクライマックスであったように、「出会いと別れ」というのもこの長期作品の一つのテーマになっていて、ビビとの別れが彼女を信頼して分かれた感じであったのに対し、モモとの別れはモモの成長のために後見としてきんえもんやヤマト、それにイヌアラシと猫マムシなどがついているという別れになっているから、別れも違う演出になっていた。

あとは、ワンピースには「頑張るいたいけな少女」がよく出てくるが、その少女が実は強かった、あるいは特殊能力を持っていた、あるいはそれらを駆使してよく頑張った、みたいな展開になる。典型的なのはワノ国の「お玉」である。

今の未来島編の主人公的な存在なのは「バーソロミューくま」とその娘の「ボニー」なわけだけど、ボニーはもともとルフィ達と同じ「最悪の世代」として出てきた海賊だったわけだけど、年齢を操れる特殊能力を持っていて、ここのところの話の展開の中で実はまだ10歳の少女だったことが明らかになっていて、「いたいけな少女が実はすごかった」という話はよくあったけれども「なんだかとんでも(特に大食らい的な意味で)ない女が実はいたいけな少女だった」という展開は初めて読んだのでこれは面白かった。昔のドラマには「とんでもない悪女が実は純情な女だった」みたいな歌舞伎の「モドリ」みたいな展開はあったけれども、まあ年齢を変えられるという設定自体が非現実だから当然なのだが、ボニーみたいなパターンはよく考え付いたなとは思ったのだった。

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今日は日曜日で久しぶりのお休み。大晦日と正月三ヶ日はずっと人がいたので片付けもできず、4日からは仕事で体調も良くなかったのであまり手をつけられていない。今日はまだ疲れは残っているけどなんとか動けそうなのでやれることをやっていきたいと思う。

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