読みかけの6冊の本/「セクシー田中さん」を読み始めた:天使系AIアラフォー女子とダーク系まっすぐゆるふわ女子/日本のコンテンツの持つ最大の力はマンガの原作力

Posted at 24/01/31

1月31日(水)晴れ

このところ雨も雪も降らず、昨日は乾燥注意報が出ていたが、今朝はまだ出ていないようだ。今までの気温はマイナス4.3度。このくらいなら慣れてしまうとそんなにすごく寒いという感じでもないが、まあこの時期としては暖かめなことは確かだろう。数年前ならマイナス10度以下になって水道が凍結してしまう日が何日もあったが、今年はそうなりそうな感じがない。冬の心配事が減るのはいいのだが、いろいろと変化しつつあるものもあるのだろうなと思う。良い方に変わってくれたらいいのだけど。

昨日はいろいろやるつもりだったのだが、数日前から原作クラッシャーに関して話題になっていた芦原妃名子さんが身を投げたというニュースを読んだ衝撃でずっとこの問題について考えてしまった。昼前に銀行に書類を出しに行ったり金融機関をいくつか回って用事を済ませ(まあ月末だよね)駐車場代を払ってから蔦屋に行って「昭和天皇物語」の14巻を買うついでに「セクシー田中さん」を供養を兼ねて買おうと思ったのだが、すでに1・2巻は売り切れていた。

いろいろ暖房をマニュアルを調べて直したり、「セクシー田中さん」をダウンロードして読み始めたり、Amazonから届いていた中田考「イスラームから見た西洋哲学」(河出新書)を読み始めたりしていたのだが、どちらも読みがいがあることはすぐにわかった。

今日現在、読みかけの本は6冊。先日書いて今日書かないものは優先度を下げることにした本ということになる。

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金谷治「易の話」(講談社学術文庫、2003)。私はよく易を立てて考えをまとめたりとりあえずやるかやらないかを決めたりするのだけど、易自体についてもう少し知りたいと思って買った本なのだが、奥付を見ると2003年の本なので、かなり長い間放置していた感じである。100/293まで読んだが、まずはどこから再読を始めるかから決める必要があるなと思ったり。

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榎村寛之「謎の平安前期」(中公新書、2023)。考えてみたらこれも今年の大河ドラマの影響で発行された本なのだろう。平安前期への関心は少し前になるが岩波新書の保立道久「平安王朝」(1996)を読んだ時から持っているのだが、その間に長い間をかけて少しずつ自分の探書網に引っかかってきた本や漫画を読んでいるという感じである。「応天の門」などはそのうちの一つでとても面白い。最近では貞観の大津波であるとかそういう気候・自然災害的なものの影響、権力闘争の影響の他に、古代集落が9世紀ごろに消滅してしまうことなど、多くの変動が起こった時期だということも注目すべきだと思っていて、さまざまな面からこの時代について知りたいと思っている。この本は伊勢斎院の研究者の方が書かれているので王家の内部と加茂や伊勢の信仰の関わり、宮廷上層社会に関わる様々なことを知ることができそうで、楽しみにしている。10/273。

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中田考「イスラームから見た西洋哲学」(河出新書、2024)。これもTwitterで見て知った本で、西洋哲学自身がギリシャからイスラム世界を経由してヨーロッパ世界に入ってきたものだから、そのイスラム世界で哲学はどのように考えられてきたのか、またヨーロッパに根付いてヨーロッパで発展した哲学を、イスラム世界ではどのように捉えてきたのかなどの視点は、専門論文を漁らなければ読めない種類のものだと思うので、こうして新書にしてもらえるのは本当にありがたいと思う。楽しみにしています。18/229。

あとの3冊は山口亮子「日本一の農業県はどこか」、廣瀬匠「天文の世界史」、池上俊一「歴史学の作法」の3冊だが、あまり進展していないので読んだ時にまた。

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「セクシー田中さん」Kindleで読み始めたのだけど、めちゃくちゃ面白い。芦原妃名子さんの件で心が塞いでいる人には、ぜひ読んでもらいたい。もちろん多くの方がもう読んでると思うのだけど、また改めて読まれると良いと思う。私は供養のつもりでKindleで買って読み始めたのだけど、ゲラゲラ笑ってしまってまるで通夜の席であの人ああだったよねーと「明るい通夜」をやった時のことを思い出した。なかなかそういうのは特に大きな葬式では難しいけれども、漫画家さんは作品を読んで笑って送り出してあげたい感じがした。

田中さんの顔が自己主張が強いのがいいし、サブ主人公の朱里がゆるふわ男ウケ女子(女ウケもする)であるのと対照的で、逆にそこがすごくかっこよく見えるという構造がよくできている。踊る時の厚化粧によって作り出される妖しい美も。ただその仕掛けを実写の「もともと綺麗な女優」を使ってやるのは構造的に難しい。どうしても「綺麗じゃない人を演じている綺麗な人なんですね、ハイハイ」という感じにはなってしまうだろうなあとは思う。

特に朱里が独白的にフェミニズムっぽいセリフを言うのは気になることはなるのだけど、それが物語の中に織り込まれているので「こう言う人もいるよな」と言う感じで読めるし、典型的な昭和の価値観の持ち主の男に戯画化されている笙野も、天然の田中さんにほだされていく過程でそうじゃない価値観もあるんだ、と目覚めていく感じもまあ「ステロタイプな演出」といえば言えるがこの種の作品での「ポンコツ王子様を理想の王子様に育てる」系の「王道展開」といえなくもなく、まあ今読んでる範囲では面白いと感じる方向に転がっているので作品としては成功していると思う。

笙野の価値観はちょっと戯画化されすぎでその辺はちょっと引っかかる部分もなくはないのだけど、そう言う形にしろそれぞれのキャラクターが田中さんが「事務AIのような能力と無骨な外貌を持った天然系アラフォー(天使みたいなものですね)」、朱里が虫も殺さないような顔をしたダーク系ゆるふわ女子(田中さんに「倉橋さん、すぐ犯罪方向に走ろうとするクセやめたほうがいいですよ」と言われていて爆笑した)、小西が女子を巧みに引っ掛けようとする下心満載のチャラ男、とかキャラクターがそれぞれうまく立っていて、最初はそれぞれ鎧を着ていたのがだんだん脱いでくるとそれぞれの地が暴走し始めてかなり面白い。

何が面白いのか考えてみると、それぞれのキャラの「下心」の書き方が上手いのだなと思った。下心もあり、本音もあり、そして表出されるのは外型的な価値観でそれによって相手に届くものも届かなかったり、考えてみるとすごく古典的な「本音で生きているように見えながら実はそれぞれの固定観念に縛られた言動をしていて本当に求めているものに届かなくなっている人間たちの人間ドラマ」が描かれているわけで、その普遍性が面白いのだよなと思った。

これだけのものを書くのはかなり深い人間観察が必要だし、豪放に見えながら繊細な描出がされているわけで、その辺りのデリケートな部分が大事にされなければ作者さんとしては認めるに認められないだろうなと思う。そして、その部分を実際に脚本化し演出する上で、「これが大衆にウケるのか?」と言う問いに立った時に、能力と誠意、それにキャスティングなどの付随状況の如何ではステロタイプ的な脚本と演出に走る可能性はなくはないだろうと言う気はした。

今は3巻の途中を読んでいるが、まあ今日の感想はこのくらいにしておこうと思う。

***

とにかく昨日は芦原さんの死にショックを受けたのでそれ関係のツイートやネットの情報をかなり掘り起こしていたのだが、それを諌める発言もTwitterにはあったけれども、結局はみんな心の置きどころ、落としどころを探してるんじゃないかと思った。どう考えれば納得できるのか、わからないんだろうと思う。私がそうだからそうしていたわけだけど。

結局、この件で何か変わらなければいけないものがあるとしたら、原作者とドラマ制作現場との関係性であるわけだけど、これに関して映画会社の社長たちが揃って「原作を大事にしていく」と言う発言をしていて、これは救われる思いがした。

https://www.chunichi.co.jp/article/845885

だから個々の脚本家やプロデューサーの問題も確かにあるのだけれども、全体として変わっていかなければいけないところがあり、その決意を示せるのは社長なり、制作部の責任者なり、そう言う人たちだろうと思う。しかしそれが今のところは「いかに責任を逃れるか」になってしまっていたことは文春が記事にしていてこれではダメだなあと思ったのだった。

https://bunshun.jp/articles/-/68683

ただずっとネットを見て回って、これだ、と思ったツイートがあった。

https://twitter.com/ichiyanakamura/status/1751970296717041757

「日本のコンテンツが持つ最大の力は「マンガの原作力」。それを大切に維持し育てる必要がある。」

全くその通りだと思う。ドラマもアニメも映画も今はマンガ原作のものがいかに多いか。特にテレビはネトフリックスなどが入ってきたことにより、巨大なコンテンツ不足を起こしていて、それがマンガ原作の実写化の粗製濫造につながっている。そしてそのことによって大切なマンガ家さんたちがダメージを受けるようなことが頻発しているわけで、それは日本の文化一般における大問題だと考えないといけないと思う。

テレビの特権意識がこういう事態をもたらした、という指摘もよくみるし全くその通りだと思うけれども、自力でドラマを制作できず、原作もの、特にマンガ原作に頼りながら原作を尊重せずに使い捨てているドラマ制作の方法は害悪でしかないわけで、その辺りを自覚できなければマンガ原作を使う資格はないし、日本文化を危機に陥れる亡国的な行為だとすら思う。

当然ながら個人事業主であるマンガ家は、著作権や著作人格権などで法的には守られていても、「基本的には団体戦」である日本の仕事の世界において、1対多の孤独な戦いを強いられるようでは彼らの立場は弱すぎる。よく知られているように現在では出版社の編集者がエージェント的な役割を果たしているわけだが、彼らも組織人だからテレビの側の無理押しに必ずしも抵抗できるとは限らず、マンガ家の権利が十分に守られない現状があるわけで、それが今回のような事態につながったのだろうと思う。

だから同じように弱い立場の個人事業主である野球選手が代理人を使って球団側と交渉にあたるように、マンガ家の権利を守ることに特化したエージェントが交渉の間に立つような制度が必要だと思う。実際にはもうそういう人もいるようだが数は少ないだろうし、マンガ家自体の中からマンガ家の権利を守る運動が起こり、それが赤松議員のような政治家を出すところまでは行っているのだけど、マンガ家協会も個別に交渉の代理人になるようなエージェントを十分に育てている感じはまだしないし、そこはこれからなんとかしていかなければいけないところだろうと思う。

もう一つは現場の制作体制や慣習に関することで、現在では基本的に原作者と脚本家は顔を合わせないようになっているようだけど、テレビ側の説明によればそれは「マンガ家や編集者にはエキセントリックな人が多いから」ということのようだが、そういう人もいるだろうけれども一方的にそう決めつけられるのもマンガ家にしては失礼な話で、要はテレビ側がやりやすいように作られた慣習に過ぎないのだと思う。実際、脚本家の側も原作者の側も一対一で話し合って疑問点が解決したというツイートも多くあるし、今年公開されるアニメ「推しの子」の第二部でも原作のマンガ家と舞台の脚本家のトラブルが描かれていて、その解決は結局は話し合うこととして描かれているので、それが最善策だとは思う。テレビの側は「原作者のわがままを聞かなければいけないからしたくない」と主張するだろうけれども、著作人格権で作品の一貫性の担保は原作者の強い権利として認められている以上、その程度のことは受け入れなければマンガ原作を使うべきではないように思う。

いずれにしてもこうした悲劇が2度と繰り返されないように、そして日本のコンテンツ産業がさらに素晴らしい成果をあげていくように、そしてその最大の熱量を持った創作世界であるマンガが十分な敬意と待遇をもって維持されていくように、一読者としては関係者の皆様にお願いしたいと思う。


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