年の瀬の混雑/イランはどのようにして国外に手足を持つ国防体制を築いたのか/私自身の性自認について考えてみる

Posted at 23/12/28

12月28日(木)晴れ

最近は晴れといっても朝は霧が出ていることが多く、日の出からしばらくは薄暗いことが多い。ということはそれなりに空気中には水分があるようだ。湿度を見ても日中も70%くらいあり、そんなに乾燥もしていないのかなと思いたいところだが、0度の飽和水蒸気量は4.8g/m3なのでそのまま気温20度に上がれば湿度30%未満になるわけで、空気中の水分量は少ないけど気温が低いから霧が出ているということなのだなと思う。まあつまりは寒さと乾燥に注意ということだろう。まあ中学2年でやる内容ではあるが。今朝の7時までの最低気温はマイナス2.9度。

昨日は午前中に母を病院に連れていき、なんだかんだで施設に連れ戻ったのがお昼を過ぎていて、なんだかそこでかなり疲れてしまった。お歳暮配りの最後の人の分を買ってお昼を買って家に帰り、昼食を食べようとしたらご飯を炊き忘れていた。どこに行っても車は混んでいるし店も混んでいる。年末だから仕方がないとはいえ、自分のペースで物事を運べないのはいらいらする。まあ東京では普段からこれ以上混んではいるのだが。

午後はお歳暮を渡しにいき、そのまま書店に車を走らせてコミックゼロサムと「らーめん再遊記」の9巻を買った。月刊スピリッツがなかったのでもう一つの書店まで行って中身を見たのだが、とりあえず今回は買わなかった。少し早めに職場に出ると、ポストに施光恒さんの解説がついたハゾニー「ナショナリズムの美徳」(東洋経済、2021)が届いていた。今すぐ取り掛かるかどうかはともかく、お正月休みの間の読書・執筆計画みたいなものもある程度は立てておいた方が良いかなという気はしている。

https://amzn.to/3RYxqzh

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今朝Twitterを読んでいて問題意識を持ったことがいくつかあったのだが、そのうちの一つがイランの国家防衛体制について。

ガザ戦争において、イランが影のキープレイヤーという指摘を読んだのだが、イラン本体は静かなので全体像がよく見えてこないところがある。しかしハマスもフーシ派もヒズボラもアサド政権もロシアにまで手を広げているのをやめさせることは、アメリカとsex知恵は核合意とかを使えばできなくない気はするが正の方向にも負の方向にもアメリカ・バイデン政権は動かないなあと思う。

書いてみて思うのは、イランの活動範囲の広さだ。こうしたネットワークはどういう時期にどのようにして構築されていったのか、そういう研究を一度読んでみたいなと思う。

このようなイランの諜報工作体制はどこの国に学んだのか。革命以前のイスラエルやアメリカとの関係からか。ソ連からか。なんとなく諜報はイスラエルから、テロ組織を育てて操るのはアメリカからかな、という気はするのだが、まあこれはこういうことに関心を持った、ということに今朝の時点では留めたい。

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もう一つは、谷口一平さんの論文リジェクト問題に関連して、自分自身の「性自認」の問題とかを考えてみたのでちょっとまとめておこうと思う。

Twitterを読んでいて面白いと思ったのは、谷口さんの論文がジェンダー論に拠らないで性自認の問題を説明できる、というところなのだが、私は哲学的な専門用語はよくわからないが性自認がどうやって生まれるかという話は興味はあるので、より一般的な用語で解説してもらえるとありがたいなとは思った。

また、雁琳さんのツイートを読んで、ジェンダー論が魔女狩り的な展開を示しているのは、人文学の過去の歴史からも説明できるということがわかって興味深かった。

https://twitter.com/ganrim_/status/1739959073381167476

また、「人文学とは、テクスト解釈というものが古代からかなり長い間その形を取ってきたように、神学と法学(みたいなものであり、そこから漏れるその残余)だ」という指摘は、自分自身としてはもっとほんわかした感じで人文学を捉えてきたところがあったので以前読んだ時は違和感があったが、今頓死状態に陥りつつある人文学の現状を見ると、そういうところから考えていかないといけないのかもしれないな、と思い直している感じはある。

人文学は西洋起源といえばそうなわけで、そのような人文学(的なものも含め)が日本の人文学は神学ではあったかもしれないが法学ではなかったような気もしたりしたのだが、江戸時代に遡ってみると儒学は法学であっても神学ではないと考えたり。国学も神学から法学を目指したという見立てもできるかなと思ったり。まあ私は人文学は法学でも神学でもない解釈を待っているテキストの沃野、みたいに思っていたということなのだけど、歴史学は政治や法に直結するし文学もある種の神学や政治を呼び起こさずにはいられないという観点から再認識してみてもいいかなとは思ったりした。

性自認の問題に入る。私自身の性自認がどうやって生まれたかと考えてみると、周りから男の子だと言われたことと母や妹と一緒に風呂に入った時に身体が違うという認識をしたこと、男の子のグループに入れられて乱暴な子がいて嫌だなと思ったこと、私はよく泣く子どもだったが「男の子は泣かない」と言われて理不尽だとは思ったが我慢したこと、などかなあと思う。そういう意味では男の子に生まれるのではない、男の子になるのだ、という部分はまああるよなとは思う。ただ自然性別が大前提だとは思うけど。

女の子が羨ましいと子供の頃に思ったことは多分ないけど、ファッションとかに興味を持って男が着られるものの幅と女が着られるものの幅が全然違うことを知った時はなんだか理不尽なものを感じたしそういう意味では羨ましいとは思った。

芝居をやってたから舞台上では女装したこともあるが、普段できないことをやれてのびのびやれる、ということはあったと思う。まあイロモノ的な役がほとんどだからということはあったが。

色々考えると自分の性自認も多様化の方向に転がる契機はあったがある程度以上は転がらなかった、というかおそらくは意識的に止めたので、まあその辺は大局的に「分を守った」、という感じではある。

だからジェンダー論の展開を見ていて、分を守らない人たちに対するイライラ感みたいなものは多分あるんだろうなとは思う。今のジェンダー論はフェミニストもLGBTもその「分」を破壊しようというものなのだとは思うが、私は保守主義者だからというか、あるものはなるべく守ったほうがいいということもあるし変えることによって社会が壊れることは避けたほうがいいと思うので「分」はあったほうがいいと思う。

壊したほうが良くなるものもあるかもしれないが壊したら混乱の極みに陥り人間社会が破壊されるものもあると思うのだよね。GID(性同一性障害)の人たちのアイデンティティは尊重されるべきだと思う、というかもともとそういう問題に関心はあったから女装する中学生男子たちを描いた作品、「ぼくらのへんたい」などをよく読んでいたのだが、どの性別を選ぼうと自由だ、という思想には私は与せないなと思う。

https://note.com/kous37/n/nb4cc082a7b75

全体に少し展開不足ではあるのだが、とりあえず今朝思ったこととしてまとめておきたい。


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