演劇はどうしたら復活するか/「ブッダという男」:男女平等の否定の先にあるものをより掘り下げられないかと思ったり

Posted at 23/12/14

12月14日(木)晴れ

今朝の最低気温はマイナス1.9度。天気がいいので放射冷却が進んでいるのだろう。今のところ寝具は掛け布団の上下に毛布を掛けて三層構造。とりあえずこれで暖房なしでいられる感じ。もっと寒さが厳しくなってきたらどうなるかわからないが、とりあえずなんとかなっている。

昨日は朝ブログを書いて食事をした後、まず事務的なことをしようと銀行と郵便局を回って税金を払ったり年賀状を買ったり。職場に出て印刷を頼んだ後一度家に戻ったが、それだけのことをやるのに結構時間がかかってしまったのは、工事が多かったのと車が多かったのがあって、まあ要するに師走なんだなあと思う。今年はいろいろ早めに動いているつもりはあるのだが、そういう意味で余裕があるといろいろなことを考えたりもするなあとも思う。ネットを見たりマンガを読んだりしてだいぶ時間がなくなったのだがまだ昼食の買い物をしていなかったのでホムセンとスーパーの合体店舗に行ってクリアファイルとお昼ご飯を買った。甘いものが欲しいなと思い、外の店舗でたい焼きを一つ買って帰った。

普段お昼に買い物に行く店ではないので変わったものを売っていて、台湾風小籠包というものを買ってみたのだが、思ったより美味しかった。最近仕事場でブログを書かずに自宅の居間で書いているので仕事場にいる時間が短くなってしまっていて、本やマンガは全部仕事場に置いてあるからその整理をしたり読みたいマンガを取りに行ったりするために、つまり半ば書庫的に使っている感じになってきている。そういう居場所マネジメントみたいなものも考えていく必要があるなと思ったり。「ダンスダンスダンスール」の27巻を読んで、掲載誌のスピリッツをある程度処分できるなと思ってそれは少しまとめた。

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演劇をやっている人のツイートを読んでいたら、客が入らない、演じる人・演じたい人は結構多いのにみにくる人が少なくて、見にくる人と演じる人が同じになっている、というようなことを書いていた。

私は80−90年代に演劇をやっていたので客入り問題というのは大変だろうなと思いながら読んでいたのだけど、自分がやっている頃には結構お客さんは入っていて、自分が始めた頃はむしろ「演劇を観にくる人ってこんなにいるんだ」と驚いた覚えがあった。つまり、「小説を読む人」「映画を見る人」と同じように「バンドを聴きにいく人」がいるというのは想像はできても、同列で「演劇を見にいく人」がこんなにたくさんいるとは、という感じがしていたということだ。

見にいく人たちは当然ながら「面白いから」「楽しいから」「見ると得られるものがあるから」見にくるわけで、客が入らないということは内容的なもので言えばそういうものを観客に与えられていないということになるだろう。私も田舎の高校生だった頃は、「東京にいれば美術館やバンドのコンサートにもっと行けるのになあ」と思っていたけれども、「演劇を見に行けるといいなあ」とは正直思っていなかった。

ただ、教育テレビで舞台中継とかを結構やっていて、それで野田秀樹さんの「夢の遊眠社」の「二万七千光年の旅」を見て、こんな表現があるんだと驚いたことはあったから、演劇に対する期待というものはなくはなかった。

自分も舞台を離れてだいぶ長いし、実際自分もほとんど舞台を見にいかなくなっているのでいろいろ言えないのだが、80年代には私自身が舞台に興味を持ち、舞台で行われることの新鮮さ、そこに身体があるということの具体的な喜びとか切なさとかそういうものを感じながら演者をやったり観客をやっていたりしたのだけど、全体的に言えば演劇を見る人たちはある種のスノッブというか、そういう雰囲気を楽しむ人たちが多かったようには思う。

だから演劇の観客が減ってるのは文化や教養、つまりは「人文系」の衰退現象の一環だと思うのだけど、歌舞伎や古典芸能は成り立っている。これは歴史オタクが多いように歌舞伎などはよりオタク度が高いからで、スカしたサブカル系の演劇はオタク度は高くないからマニアが減少し続けてるということはあると思う。人間的な、あるいは知的な共感を好む人よりは、それに没入するオタク的な愛好を望む人の方が多いし、また金銭も時間も費やすということはあるので、オタク的な分野は生き残り、それだけの偏愛を生まない分野は衰退していく、という感じになっているのだろう。

あとは演劇の分野にスーパースターがいないということも大きいかなと思う。70年代には唐十郎や寺山修司が、80年代には野田秀樹がいた。それ以降、やはり「小劇場からのし上がったスター」が出ていない感じがする。平田オリザさんなど知られている人はいなくはないが、スターというオーラがあってこれを「楽しみに行く」んだ!という華やいだ雰囲気がある人がいないということが大きいのだろうと思う。

だからスターが生まれることが演劇人気の回復には必須だと思うけれども、傾向として文化度が高い方がモテるという現象が復活することも大事だろう。今は全般的な文化叩きがあるのが厳しいが、まずはポリコレフェミニズムLGBT的な意識高さが強いと今の演劇には感じられるところもあって、その辺も変わっていくとよいなとは思う。そのような意識高さとは縁を切っても追求すべきテーマなんかいくらでもあるのだから、そういう方向に行ってもらいたいのだがなあと思う。

もう一つの現象として、これは「時間を費やす」分野のアートにはどれも言えることだけれど、YouTubeなどの動画系、それもTiktokのような特に短時間で楽しめるものが身近にあるようになったということはあるだろう。映画も倍速で見る人がいるという現在において、タイパ(タイムパフォーマンス)が高いと感じられるものが好まれるということはあるだろう。

ただ、オタクが好きなアニメを倍速で見るかと言えば多分そんなことはないわけで、もともと演劇の観客などというものはめちゃくちゃ人数が多かったわけではないのだから、演劇は楽しめるんだということを知らせていくのが大事なんだろうと思う。逆にTiktokやyoutube発で舞台を見にいく人もいるだろうと思うので、そういう発信をしていくことも大事なのではないかなと思う。ダンスなどでは新しい学校のリーダーズとかアヴァンギャルディとかが出てきて観客を集めていくことは期待されるし、演劇でも考え方の方向性を少し変えたら人を集める舞台はできるのではないかという気はする。

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「ブッダという男」第6章「ブッダは男女平等を主張したのか」まで読んだ。階級差別においては、彼は「俗なる世界」での差別については前世の因果応報として問題視していないが、「聖なる世界」においてはシュードラであっても出家して修行すれば悟りを得て解脱が可能であり、それは身分に関係ないと考えた板というのが結論だった。

しかし男女においてはそうではなく、女性も出家して修行することはできるのだが、僧伽においては男性の下に立ち、男性の指導を受けなければならないと考えていた、というのが結論だということになる。これは男性から見れば女性は修行の妨げになる存在であるとみなされていたということで、また女性の問題点として多くが挙げられている。

ただ、女性が悟りを得られる可能性については全く否定はしていなくて、これはジャイナ教にも認められているし、ヴェーダ経典にも「妻との哲学議論を通じて思索が究極点に達した」という記述も出てくるのだという。

特にフェミニズムがうるさい現代においてこの辺りのことをどう書くのかは難しい点が多いのだと思うが、それゆえに清水さんは「ブッダは女性差別をしていた」という言い方にとどめているけれども、実際のところはもっとこの辺りのところは深められる部分ではないかと思う。これは差別と言えば差別だけれども、男と女は違うものだということを言いたいわけで、まあそれ自体がフェミニズムには受け入れられないところなのだが、男女論が闘わされているTwitterにおいても「男はなんとか」「女はなんとか」のようにフェミニズムを擁護する側も反対側も言っているのだから現実には論者たちも男と女は違うという認識を持っているのだろう。

そのジェンダー意識が社会的に作られたものであるという主張に基づいて、その男女の性の壁を崩す可能性のあるトランスジェンダーの人の存在が持ち上げられているわけだが、性同一障害に苦しむ人たちや同性愛者の中にはそうした動きに反発したり沈黙したりしている人も多く、まだこの辺りは生産的な議論に至っていない部分が多いように思う。

ブッダが性的少数者をどう考えていたか、に関しては記述がないのでよくわからないが、実際にはインドにはそういう人はたくさんいるという話は聞いたことがあって、ある種聖化された存在になっている場合もあるらしいという話も聞いたことがある。ブッダと「ジェンダー」というテーマについては、フェミニズムの立場のものはあるかもしれないがより客観的な立場からの論考があればもっと面白いのではないかと思ったのだった。

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これは全体的に言えることなのだけど、宗教の価値観が現代的な価値観に合致することを腰が引いたまま主張するのはなんだか意味があることには私は思えない。ただまあ、現代の価値観とあまりにかけ離れていると狂信的カルトと主張され、弾圧の対象になる可能性はあるから、そういうことを恐れているのかもしれないとは思う。ただ宗教というのは近代的・現代的価値観を相対化するところに一つの意味があるのだと思うし、その意味で毅然とした姿勢を持っているのは今ではイスラム教くらいになってしまったのかもしれないとも思う。それだけイスラム教に対する風当たりは強いわけだけど。

だから仏教にしてもキリスト教にしても現代的価値観から見れば女性差別があったと言われてもそれはそうじゃないかとしか思えない。ブッダもイエスも現代人でないのだから現代的価値観を持ってないのは当然である。宗教弾圧というのはそういう意味で近代というか国家や社会の側からの宗教に対して「価値観の変更」を求めることの具体的な動きであるから、本質的に暴力的なわけで、だからこそ日本国憲法は思想信条の自由、信仰の自由を認めて国家による弾圧をしないようにしているわけである。ただもちろんあまりに反社会的なカルト、特に終末思想に憑かれて世界を滅ぼそうとするオウム真理教のようなカルトに対しては国家も弾圧せざるを得ないというのが実情というか、近代憲法的国家秩序の限界ということにはなるだろうと思う。

有力な宗教は前近代に作られたものだし、現代的価値観に全て合っているはずはなく、というか現代的価値観そのものが宗教による束縛からの脱出を求めて作られていったものであるから当然なのだが、そこをどう折り合いをつけていくかは大事ではあるのだろう。ただそれは「折り合い」であるべきで、宗教の側が近代的価値観に全面的に降伏してしまうのであれば宗教の価値というものそのものが減退してしまうことになる。近代的価値観が全て正しいわけではない以上、それを相対化する存在は常に重要である。

特にそうした思想的な運動が強まっている時代には、宗教にとっては逆風な訳で、現代では特にそれがフェミニズムやLGBT運動、ポリティカルコレクトネスの運動だということではあると思う。この点において、ブッダは女性差別を肯定した、で思考と評価が止まるのであればその辺りは全くもったいないわけで、本当はこのあたりこそをもっと展開して欲しかったなという思いはあるが、また状況も変化するとは思うので、戦前にはできなかった天皇研究が現代では盛んに行われるようになっているように、未来に期待したいとは思っている。

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このブログ(note)は日記という形式なので、その日に思ったことや考えたことがたくさんあるといろいろなものについて書くので、そうなると表題が長くなり、読者の方が読みたい話題を見つけにくくなって不親切かなと思ったりはしている。ただ考えたその日でないと考えたことをよりヴィヴィッドに表現できないなという思いもあり、こういう形式にしているわけだけど、昨日のようにいろいろ書いてみてもいいねがつかなかったりするとやはり出し方の問題なんだろうなとは思う。自分の中に一貫性が感じられ、読む側にも読みやすい形式というのはどういうものかというのは模索しているのだがなかなか難しいなと思う。

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