「ブルーピリオド」:「他人の人生を搾取する作品」と「良い絵を描くこと」/生活の緩急/ハマスとイスラエルの「停戦」と「一時的な日常」

Posted at 23/11/26

11月26日(日)晴れ

昨日は疲れていたので夜8時半には寝てしまったのだが、起きたら2時半。これはまあ、最近早く寝てしまうとこういう時間に起きてしまうのだが、手洗いに行ってベッドに戻って布団の中で取り止めのないことを考えていたら時間が過ぎた。まあいろいろ考えているうちに「疲れているんだからぼちぼちやろう」と思いついて今日はぼちぼちやることにし、起きてみたらもう朝刊が来ていて、あれもう5時かなと思って時計を見たら4時半で、今日は少し早めに配達されたらしい。

iPhoneで気温を見たらマイナス1.3度。予報はマイナス2度だったからまあこんなものかと。廊下は寒いし今のソファに腰掛けても最初は寒い。ストーブを二つつけて今は大丈夫なのだが、まあ冬というのはこんな感じだ。少なくとも朝は燃料代がかかる。ぼちぼちやると考えると気持ちが楽になっていろいろ思いついたり普段あまりやってない日常的なことをやったりするところがあるのだけど、まあ日常というものを続けるにはそうやって「ぼちぼちやる」というところが必要だなと思ったり。何もやってないように自分自身には感じられてしまうが、そうやって頑張り過ぎてしまうから疲れてしまうのだよなとは思う。ぼちぼちやるという考え方、違う言葉で言えば「抜くところもないと」ということになるかなとは思うが、緩急が大事だということだし、まあ頑張るときもまた頑張りかたもあるよなとか、いろいろ思ったりする。そしておそらく抜くときも抜きかたが大事なんだよなとは思う。

緩急といえば、ようやくハマスとイスラエルの戦争にも停戦が行われている。イスラエル側の人質が解放されて国際機関に引き渡されたり、刑務所に入れられていたパレスチナ人の子供たちが解放された母親の胸に飛び込んだりしている映像を見ると、よかったなと思う。また北部から南部へ避難していたガザの人々が自分の家に戻るために行列をなして検問所に並んでいるのを見ると、民族浄化などというものがそう簡単にできるものではないということも思う。イスラエルの継戦能力も3ヶ月くらいだという話で、もう50日経っているわけだから話し合いのフェーズに入ってもおかしくはない時期だよなとは思う。

近年の経緯から見てイスラエルは必ず停戦交渉にいつかは応じると思っていたが、思っていたよりは遅くなった。シファ病院から確たるハマス軍事拠点の証拠が出なかったことと地下壕もイスラエル自身が作った部分もあるという話などが出てきて、彼らの病院攻撃の主張の根拠が揺らぎ、停戦期間に攻撃の正当性を立て直そうという思惑もあるのかもしれない。

ヨーロッパではドイツやフランスは強硬にイスラエルを支持しているらしく、イスラム系の留学生がパレスチナ人支持のデモをしたりすると「国へ帰れ」と大学教授から言われたりしているらしいが、ベルギーとスペインの首相はラファの検問所でイスラエルを批判する演説をしたりしたようで、ネタニヤフが怒っていた。イスラエルはアメリカの支持さえあれば攻撃を続けるだろうけど、攻撃後のガザの有り様についてはハマスの政治部門の指導者がアラブ諸国軍の一時的統治を含め外部勢力の介入を一切拒否していたり、イスラエルはしばらくガザを統治するようなことを言っていて、まあ要は「戦争後」のことについても駆け引きが始まっているわけだが、このあたりの落とし所はまだ見えない。

今あげた二つの主張が両極端ということになるだろうけど、国際機関、特に国連以外の国際勢力が預かる形にしないとこの状況の先は見えないのではないかという気がする。私はアメリカが責任を取るべきという気はするが、まあそれはベトナムやアフガン化する可能性もあるから絶対引き受けないだろうなあとも思う。

いずれにしてもイスラエルもハマスもガザの住民も「ぼちぼちやる」というような状況ではないよなあとは思うのだが、それらの人々がぼちぼちやれる状況が作れると良いなあとは思う。

***

「ブルーピリオド」、15巻が出るとともに1月号に66話が掲載され、しばらく前に作者の山口つばささんがTwitterで出産報告をしていたことの続きでしばらく休載することが書かれていて、今回の扉絵は見開きで藝大同級生総出演のバッカスの宴みたいな(なぜか予備校同級生の橋田もいるのだが・バッカスはもちろん八雲)まるで最終回のような様相を呈しているのだけど、内容もかなり濃くて一時停戦前の最後の激闘という感じではあり、感銘を受けている。

15巻は真田まち子が表紙で、私はこのキャラクターがとても好きなので嬉しいのだが、この才能の塊の彼女があっけなく散って、生前からその友人であった八虎の藝大における同級生たち、八雲・はっちゃん・桃ちゃんの三人に誘われ、同じく同級生の世田介も含めて桃ちゃんの実家の広島のお寺で制作合宿をしたことから、八虎が真田の存在を知り、彼らの関係性に強くインスパイアされて彼ら三人の後ろ姿と、真田がいるべき空白を作品化した作品を作って、村井と共にコンクールに応募し、村井は大賞を取り、八虎は入選を果たす。

この作品は制作の時点から村井に「八虎はこのプランの危うさがわかってるのかな」と思われていたのだが、入選して美術館に展示され、表彰を受けたりしてる中で初めて八虎は自分の作品が「八雲さんたちの人生を搾取して入選した」と思い当たり、それを村井(八雲)にいうと、「まあそーね」と言われてぐさっとくるのだが、「評価あってこその反省は普通に成長だろ。「作品を発表することの責任」なんか一人で描いてて気づけなくね?この絵が最適解かはわからねーけどそん時持てた全部で向き合った結果なんだろ?それは見てりゃわかるよ」と言われ、「なんか優しくてきもいっすね」「おーい」というやりとりになる。

「ブルーピリオド」の作者の山口つばささんは藝大現役合格の経歴を持ったマンガ家なのだけど、ということはそういう観念的な議論や検討は在学当時やその前後に山ほどしたと思うのだけど、そういうことは作品には少なくとも言葉としてはほとんど出して来ず、その辺りでとてもこの作品が読みやすくなっていたところはあったと思う。だから「他人の人生を搾取した作品」というパワーワードが出てきたこと自体に結構へえっと思ったのだけど、そこから先の展開もパティシエを目指して修行している恋ヶ窪(恋ちゃん)との会話の中で「作家の道=表現することを選び続ける選択をしようとしてるんだな」と言われたりして、作家という仕事=表現の道の「業」のようなものを選び取ることの意味について描いていて、ある意味での生硬さというものも感じられなくはないがインターミッション前の総決算としてはとても重い締めになっていて、その辺りの「人生の本気」のようなものを強く感じた。

「他人の人生を搾取する作品」といえば、いわゆる「モデル小説」が思い浮かぶわけだが、最近では柳美里さんの「石に泳ぐ魚」の裁判の例が思い浮かぶ。八虎の作品は八雲にも好意的に受け止められ、争いにはならなかったものの八虎自身は「もっと真摯に描けたんじゃないか」と思い悩み、受賞自体を辞退することも考えたりするのだが、美術館で作品を見た女性に激賞された手紙、「あの作品に救われた」という手紙をもらって「自分の作品がこんな歩に誰かに届くとは全く想像してなくて、ピンと来ないくらい嬉しいけど、間に受けちゃダメな気がする、もっと自分の描きたいものに真摯でいられるように、もっと表現の幅を増やして今よりずっと良い絵が描きたい」と言う。

それが「作家になると言うこと」だというメッセージがそこにあるわけなのだけど、単行本のアオリコピーになっている「この筆はいつか誰かを傷つける。それでも描いて描いて前へ進む」という言葉に繋がるのだけど、これはつまり「空気が読める男」である八虎にとっては結構正面から来る重いことであって、それがあって初めて生きるコピーではあるなと思った。

実際のところ、正直言って、「人の人生を搾取してそれっきり」という作品は、決して少なくはないと思う。それは作品だけではなくて、「困ってる人を救う」系の運動とかにもそれは当てはまる。「行き場のない少女たちを支援する」運動が少女たち自身から支持されなくなったり彼女ら支援対象のことよりも自分たちの運動の維持の方が大事になったりするような話も聞くし、特にひどいのは福島の被災者たちが生活再建に頑張っているのにそんなのはおかしい、放射能の被害をもっと訴えるべきだ、というような方向に持っていって彼らの生活再建の努力を妨害したり、日本で普通に暮らしていた性的少数者の人たちに対してLGBT運動の人たちが自分たちの主張を強硬に推し進めて帰って性的少数者の人たちが暮らしにくくなったりしているのも、「当事者の人生を運動が搾取している」という面があるのではないかと思う。

全ての運動がそうだというわけではないけれども、少なくとも運動している人たちには自分たちのやっていることが本当に当事者の人生のプラスになっているのか、自分たちの運動が自己満足や自己欺瞞に陥っていないかなどは常に自問自答してもらいたいと思うし、それが「自分のやりたいことに対して真摯であること」ではないかとは思う。

こうした運動はフランス革命やナロードニキの時代からずっとそうなわけで、当事者を忘れた運動はかえって害悪をもたらすことは少なくない。そして運動というものは始まってしまうと運動の論理で進んでしまうので、当事者は置き去りにされがちになってしまうこともまた心に留めておいた方が良いことだろうと思う。

「ブルーピリオド」は本当に書くことをインスパイアされる作品なのだけど、しらばく読めなくなるというのは残念。ただこれだけの熱量を注ぎ込んで中断前のラストを描いてもらえたことは、本当にありがたいと思う。広島編=真田まち子編というのの位置付けが最初はよくわからなかったのだけど、ここにきて本当にその意味の深さがわかった気がする。再開を楽しみにして待つと共に、また何度か振り返ってここまでの部分を読み返したいと思う。

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by Luke Peterson

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