「研究」と「支配的な言説に介入する」こと:研究が否応なく「政治性」を持つこと/「ジャーナリズム」の問題点:「夜郎自大」性

Posted at 23/10/17

10月17日(火)晴れ

忙しいのと体調があまり良くないのとさまざまな理由はあるのだけどなかなか思うようにいろいろな物事が進んでいかないのだけれども、一つ一つのことを大事にしてしっかりやっていくということが大事かなと改めて思っていて、まあしっかりやっていこうと思う。

「準備・実行・後始末」という言葉があるが、要は一つのことをどれだけ大事にしてやれるか、みたいな話なんだなと思う。「まごころをこめてやる」とかいうと気持ち悪い感じになるが、こころを込めるというよりはこころを入れる、心ここに在らずではやらない、ということなんだろうと思う。私は効率厨なところがあるので手順とかいかにさっさっさっさーとことが運ぶかというところを重視しがちなのだけど、そればかりやっていると手順の中身が錆び付いてくるというか、そういうところをメンテナンスしていかないといけないなとよく思う。なかなかやれていないのが現状なんだが。

私は紅茶が特に好き、というほどでもないけれども時々飲みたくなるので缶入りの茶葉を買っているのだけど、最近スーパーなどでモッティーバッグしか扱わないことが多くなっていて、困ったなと思っている。専門店に行けばあることはあるが、やはり高い。デパートの食料品売り場に行けばあるけれども、諏訪の近辺では扱わなくなっていて、松本や東京に行くときに買ってくる感じになっている。これは田舎だからと思うところもあるのだけど、ギフトのサイトなどをみていてもあまり缶入りの紅茶は扱ってなくて、総体的に日本での紅茶需要が落ちているのかなと思う。こういうのも人々の思考の変化なのだろうか。

「研究」というものについて書いたツイートを読んでいて、「ドミナントなナラティブに介入するものでなければ研究というよりは調べ物」というのがあったのだが、つまり支配的な言説に否定するまではいかなくてもそれを相対化したり新たな可能性を見出したりすることは確かに必要なことだなと思った。ただこのツイートに最初は割と否定的な感情を持ったのだが、それはどちらかというと今オーソライズされている言説を否定することを目的とした、喧嘩上等だけでやってるような研究が実際には多いなということで、その辺りはよくないなと思っている。「聖徳太子はいなかった」のような耳目を集めることを目的にしたような表現は政治的意図も背景にあるわけだし、古代史と現代史は政治的論争に巻き込まれやすいというのと同じ理由で、割とデリケートなものを扱っているという自覚を持ってもらいたい感じがする。

いきなり「聖徳太子はいなかった!」とかいうのは思春期の性の揺らぎで「自分はLGBTかも」と思った子供に「そうだそれならすぐ性適合手術をしよう!」みたいに自分の政治的主張込みで揺らいでいる子供に自分の都合を押し付け、後になって取り返しがつかないことになった、みたいな話に似ている。「今こうである」ことの理由がわからないうちはそのことを取り除くな、みたいな言説があるけれども、文化的蓄積を請求に否定していこうとする動きには賛成できない。

「ドミナントなナラティブに介入する」という意味では、研究というものはある意味常に政治的な意味合いを持たざるを得ないという面があるということだとも言える。ガリレオが地動説を支持して教皇庁と対立したように、科学的真理の発見と主張そのものが、教皇庁の権威への挑戦であり、政治的な言説である場合もある。現代で言えば原子力発電所の事故やそれへの対処をめぐる騒動や、新型コロナの防疫策やワクチンをめぐる騒動も、こうした本来は純粋に科学的な事象が大きな政治問題になる場合もあることを示していて、「政治的な関わりが嫌だから研究職へ」みたいなことはそうした逃げの姿勢を持って後で政治的な闘争に巻き込まれる覚悟を持たずにその方向へ進むことは危ういと思う。

「木簡系研究者」みたいな言われ方があって、つまり古代の木簡の解読等に関わる研究は現代に生きる我々に資するところが少なく「もっと重要な」ところに研究資金を振り向けるべきだ、みたいな主張に対してしっかりした反論ができないのは、「木簡系の研究」というものも「研究費の配分という政治」からは逃れられないという事実を忘れては行けないということだと思う。

研究者の多くは「リベラルポリコレフェミLGBTBLM」的な方向性をなんとなく支持していれば政治に巻き込まれないで済む、みたいなお守りとしてそういう姿勢を持ってることが多いように思うが、そういうものに批判的で公的資金の配分に目を光らせる勢力が政治的に台頭してきている今、そういう姿勢だけで耐えられるのはそう長くはないような気がする。自分の研究がなぜ公的資金を受けて進めることに値するのか、という議論をもっと精緻に組み立てておく必要があるのだろうと思う。それに、最終的には手弁当でもこの研究を続けるのが、という問いにイエスと言えなければ難しい面はあるだろうと思う。

実際のところ、どんな研究がいつ必要になるかは誰にもわからないわけで、mRNA研究でノーベル賞を取った人も大学を追い出されたりしているのだから、「それでも研究を続けた」ということがノーベル賞やワクチン開発に繋がったわけで、研究者たるものそのくらいの気概は必要だろうと思う。

あと最近考えているのは「ジャーナリズムとは何か、どういうものであるべきか」ということなのだが、最終的には「事実を取材して伝えること」と「自分の主張を伝えること」と「売れる記事を書くこと」のどれを重視していくか、ということにあるのだろうと思う。この辺りはまた考えて書きたい。

ジャーナリズムをめぐるナラティブを少し読むと、それこそ「真実」をいかに見つけいかに報道していくか、みたいなことが書かれているのだが、そこら辺はどうにも夜郎自大な感じがあって、その辺は改めたほうがいいなと思うことが多い。人に取材してわかることなどたかが知れている、と私などは思ってしまう。少なくともそれは「真実」ではなく「その時点において真実らしく見えること」に過ぎない。ジャーナリズムの問題点はその辺にあるのだろうと思う。


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