日本の「見立ての文化」の積極性

Posted at 23/09/17

9月17日(日)晴れ

昨日は仕事を終えて帰ってきてからご飯を食べながらブラタモリの稚内の回など見ていたのだが、色々と面白かった。ああいう「国境の街」「最北の街」みたいなやや政治性を帯びた空間を、何を取り上げ何を取り上げないのか、みたいなことはかなり忖度があるわけだから、その辺を考えながらつい見てしまったが、サハリン=樺太への連絡港だった、という過去についてはやはり取り上げていてその辺は面白かったが、地形的なもの、地質的なものももう少し取り上げてくれても面白かったような気はする。アイヌとの交易とか蝦夷錦の話などはそれなりに勉強したこともあったのでまあこんなものかと。

これもTwitterを読んでいて、自分は日本の「見立ての文化」のようなものが好きではない、今の時代に合わないものなのではないか、というツイートがあったのでそれを少し考えてみることにした。

しばらくベンヤミンを読んでいたから文化というもの、芸術というものについてヨーロッパ的な見方で迫っていたということもあるから、日本的な方面からも考えてみた方がいいかなと思ったこともある。

「見立ての文化」について自分が考えつくことはそんなに多くなかったので、まずググってみると和歌の例や庭の例が出てくるからなるほどこういうものを見立てというのだなと思うのだが、自分がググる前に意識される見立てというのは、枯山水の庭園のような、石を島や滝に見立てたり砂を水に見立てたりする技法がまずは思いついたわけである。

ちょっと人型に見える石を置いて、それを仏に見立てる、というようなこともよく行われる。落語などでもただ一つ小道具として使われる扇子を箸に見立てたりキセルに見立てたりというようなことも多い。

見立て、というのはそのものがないからその代替品として使われる、というような場合もなくはないとは思うが、実際には実際にその物を使うよりも見立てたものの方が本物以上に「いい」から使われる、という場合もある。つまり、見る側の心を呼び込む働きというか、ああ、これはキセルなんだなあと思うことによってみている人を演じている世界に呼び込む、という働きがあるということなのだろうと思う。

禅宗の寺院の庭でよく作られる枯山水も、白砂で海を表現し石で島を表現することでそれを読み込む見る者をその宇宙に呼び込むことにより、三昧の境地の中で瞑想を深める、という技術なのだろう。

だから、見立てというものは「それがないからその代用に」という消極的な技術なのではなくて、たとえもしそれが使えても見る側の想像力を働かせることでその世界に呼び込む、という積極的な技術なのだと思う。

雪を花に見立てたり(その逆も)、紅葉を錦に見立てたりするのは、今ここにない物を見立てによって想像する、花が咲いている今の鮮やかな風景と、雪が積もった想像の冬の風景を重ねることでより豊かな広がりを歌に持たせる。

豊かさの欠乏を想像力で補う、というよりは、今の風景でも十分豊かだけれども、想像を加えればより豊かさを繰り広げられる、というような感じだろう。逆に言えば余白を残すことでより豊かな想像力を呼び込むこともまた、見立ての発展形と言えるのかもしれない。

もちろん、そこで何も想像しないのも見る側の自由でありまたよし、であり、想像力を広げて楽しむのもよし、な訳で、解釈に幅を持たせるというのも日本的な技術だろう。それは厳密さを要求する状況とはまた違う物であり、その「日本的な曖昧さ」みたいなものを現代的でない、と考えることもあるかなとは思うが、実際には例えば茶湯の席であれば、出されたわずかな手掛かりから席主の意図を読み解く、みたいなパズルのようなことも行われていたりはするわけで、そこでしくじったら「話の通じない野暮な人間」であると思われたりする。そこは逆に言えば相手の主体性の幅を許さない、厳しいというよりはむしろ押し付けに近いような激しさみたいなものもある。相手の教養の深さ、知識や経験だけでなく人間性までもがそこではかられる、みたいなこともあるわけである。

こういうものの背景にあるのは交渉、というよりは腹の探り合い、みたいな世界だが、そういうものもある種の同一性が共有されている人間の間だからこそできる、というようなこともある。

これは欧米の社交で服装で相手の人柄を判断される、というようなことともある意味共通していて、どこに出しても恥ずかしくない服装、振る舞い、見識のようなものが問われるという点では同じであって、問われる内容が違うというだけのことだろう。「どこに出しても恥ずかしくない」ということ自体が当然ながらある種の秩序ー身分制や階級制の社会ーみたいなものを体現しているということもある。

落語は庶民の芸術ではあるが、庶民には庶民の要求される振る舞いや教養や見識などがあるわけで、庶民芸術はそうした庶民の世界の規範の再生産という役割もある。

現代化というものはそういう物を一度フラットにしようという方向性でもあるから、見立てのような日本で特に発達した文化の深さのようなものをあまり考えないようにしたいという志向はあり得るのだが、そういう文化の深さが失われることが日本文化の安定性を損なう、というようなこともあるとは思うので、そういう物を理解できる人がある程度以上はいるということは日本のためには必要なのではないかと思う。

こちらのエントリも同日更新しています。
http://www.honsagashi.net/bones/2023/09/post_4189.html

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