場所に対する帰属意識と物語に対する帰属意識

Posted at 23/09/17

物語に対する帰属意識


人は、場所に対する帰属意識というものを持つことがある。たとえばある田舎の村で育ち、東京に出てきた時、自分の魂は故郷の村にある、と思うような感じのことである。逆に、東京で育った人たちは、よくいわれるような「東京砂漠」とか「東京には本当の空がない」みたいな話に反発する。東京はそんな悪いところじゃないと。

そういう怒りみたいなことに対しては、私もよくわかる。自分が住んでいた場所をバカにされると、「そんなことない」と言いたくなるし、「そこのよさは住んだ人にしかわからない」みたいなことを思ったりする。

しかし、ツイッターでやり取りしていて思ったのは、いつも愚痴っぽく田舎のことを言うアカウントの人がいて、この人は愚痴アカウントだなということをツイッターで書いたら「自分も田舎出身なので読んでいると落ち込んでくるからあまり読まない」と言われて、ちょっとハッとしたのだった。

自分は田舎のことに対して愚痴を言われても、そういうことはあるよね、とは思うけれどもそれで落ち込むことはあまりない。東京の人が批判されても、それはある程度仕方ないよな、と思ったりする。

それで気づいたのは、私は「場所に対する帰属意識」というものがほとんどないということだった。私は生まれたのは長野県、小さいときは23区内、幼稚園くらいで東京都下、小学生のうちに三重県の村に移り、高校生で長野県。そして大学は東京、という風に小さいころに点々としているからどこに行っても半ばよそ者、みたいな感じがあった。

転校を繰り返す人たちにはそういうことがあるのかもしれないし、よくわからないけれども自分は物心ついた時には東京都下だったからそこのスプロール的な開発風景が原風景みたいなところはあるけれども、年を取るにつれてそれも特権的なものではなくなり、三重県の山や川の風景もまた懐かしいものになって、今は長野県と東京を往復しているからその二つは原風景というより現在なのだけど、特権的にそこに所属しているという感じはない。先祖代々は長野県なのではあるが、子供のころにほとんどいないのでやはりそういう意識はあまり強くないなと思う。

場所に対する帰属意識がないなら、いったい何に帰属意識があるのだろう、と思って考えてみたとき、一番最初に出てきたのが「ナルニア国物語」だった。物語が原風景、というかそこに帰属しているという意識。日本のものですらない物語ではあるけれども、自分としては深く深く読み続けたものだった。

大人になっても登場人物たちの行動規範などが「こういうのいいよね」みたいなのはあるし、成長とか成熟とかその時を楽しむこととか、辛いときにはよい服を着て空腹でも笑っているとか、そうありたいと思うような話も含めて、その世界に住んでいる感じがあった。

それで考えてみたのだけど、つまりは宗教というのもそういうことじゃないか。キリスト教徒の中には聖書の物語に帰属意識を持っている人がいるんじゃないか、ということを思ったのだった。

国学者などは古事記や万葉集、源氏物語に帰属意識を持ち、またマルクス主義者には「能力に応じて働き、必要に応じて受け取る理想社会」への帰属意識を持つ人たちがいただろうと思う。中国の近代で科挙が廃止されたとき、悲しんだ人は日本にも多くいたというのは驚くが、儒教を学んでいた彼らの本当の夢は科挙に合格して中国の朝廷に仕えることだった、というような人も実際にいたと聞いている。

だから多分、物語に帰属意識を持つということは、そんなに奇妙なことでもないのかもしれないと思ったのだった。

地域には地域社会のルールがあるように、物語には物語世界のルールがある。もちろん、現実世界には現実世界のルールがあって、現実世界そのものをある種の物語として生きている人もいる、まあそういう表現はある意味倒錯しているのだが、現実社会というものもある意味での創造の共同体であるとするならば、そういう言い方も可能ではないかと思う。つまり、地域社会もまた地域社会という物語として読むこともできるように思う。

だからその人を知るには、その人がどういう物語の中で生きている人なのか、ということだろう。いわゆる体育会ルールで生きている人もいるし、おたくワールドルールで生きている人もいれば、リベラルやフェミニズムなどの運動家ルールで生きている人もいる。電話の声を聴いて「この人は生協運動とかやってる人なんじゃないか」と思ったら当たっていた、みたいなこともあるけど、極端に言えばその生きている世界にふさわしい発声法みたいなものもあるので、そういうことはあるんだろうと思う。

物語に対する帰属意識というのは、ある意味人間の本質なのかもしれないと思った。こういうことを言ってる人はすでにいるのかもしれないが、自分の思いついたこととして記してはおこうと思う。

自分自身が物語、ナルニア国に対する帰属意識を、今も持ってるかといえばそういう感じではないが、例えばナルニア物語を批判されたら、あまりいい気はしない。ただ、そういう多くの物語やストーリー、あるいは自分が学んできたものたちの集合体の中に自分の帰属すべきものを作り上げながら生きてきているのかなという感じはする。

特に書くということ、自分がやるべきことと感じることの中にもそれに似たものがあるように思うのは、ともに「いるべき」「やるべき」ものという、いわばアイデンティティとでもいうものに関わるものだということだからなのだろう。


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