中国は一帯一路で何をやろうとしたのか/思い出す力と思いつく力/ベンヤミンを読む:「良いものであるという偏見」から出発する批評
Posted at 23/09/11 PermaLink» Tweet
9月11日(月)晴れ
9月11日、とタイプしてそうか9月11日か、と思った。あれから22年。ずいぶん年月が経ち、ずいぶん世界も変わった。良い方に変わった面も、よくない方に変わった面もあるのだろう。まだあれからを総括するような時期ではない気もするが、「テロとの戦争」という問題に関してはずいぶん静かになったような気がする。ロシアは古い戦争を起こし、中国は失速しているが、アフリカは自律的な行動をとりつつあり、インドも台頭している。無理をしている国々には無理が出て、力を蓄えている国は力を伸ばしている、ということか。日本はどちらだろう。後者であると良いのだが。
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昨日はいろいろ考えていて書くのが遅くなったが、その分だけいろいろ書けて、いくつか反応もいただいてありがたかった。地味な表題にしたのでどうかなとは思ったのだが、見つけていただけると反響もいただけるのでTwitterの力は強い。
昨日は午前中いっぱいかかってブログ(note)を書いて、お昼は久しぶりにスパゲティを茹でて、出来合いのボンゴレソースでお昼ご飯にした。この程度でも「ご飯を作る」と気合が入る部分があり、時間があって気持ち的にも余裕がある時にはご飯を作るのもいいなと思った。
一休みしてから出かけて、書店に行って本を見て、信州楓樹文庫まで行って「市民結社の民主主義」を返却。まだ全部読んでないし面白くはあるのだが、アートと人間、というかアートという人間の作り出したものと人間の関係、みたいなものについて書こうかなという方向性が出てきたので階級制という点において市民結社の話は面白くはあるのだけどとりあえず期限が迫っていることとそちらの方についてベンヤミンを少し読んだ方がいいと思ったので新たに柿木伸之「ヴァルター・ベンヤミン 闇を歩く批評」(岩波新書、2019)と多木浩二「ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」精読」(岩波現代文庫、2000)を借りてきた。そのあと職場に出てネットを見たり。
一つ面白いと思ったのはTwitterの指摘で中国が一帯一路で各国に港湾設備とかを作って資金を焦げつかせて問題化している話、あれは中国が通貨インフレを招かないために通貨発行額以上の資産を持つために作っているのだという指摘だった。これはある種金本位制に似ているが金と違って資産の価値は変動するので不動産バブルがはじけつつある今、中国経済は相当危ないんじゃないかと思ったり。ただいずれは日本のように変動相場制に移行するのではないかという観測と、そうなると人民元の暴落もあり得るかなという感じもあり、アジア通貨の連想で日本円も影響を受けるかなと思ったり。「中国の失速」というのは時間の問題になりつつあるということはあるようだ。
夕方に職場を出て岡谷へ回る。地元では雨は降らなかったが、岡谷に入ると路面がかなり濡れていて、こちらではかなり降ったのだなと思う。書店で本を探すが目当てのものは見つからず、モールへ行って夕食の買い物などして帰った。
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昨日文章を書いていて思ったのは、文章を書くためには「思い出す力」が大事だということ。乗っている時には書いているうちにあれもあった、これもあった、というのが自然と思い出されてきて、そのことに触れていく。全体に話が膨らむし、微妙に脱線しない程度の方向で思い出すと論理も破綻しない。一方で推敲する時には「評価する力」が大事なわけで、これはある意味批評的な能力になるなと思う。大事なところ、良いところをきちんと評価し、ここは削った方がいい、また削るとしたらここだ、みたいなところを客観的に見て文章をシェイプしていく。その過程でまた新しい表現が湧いてくることもあり、そのサイクルがうまくいくとどんどん生産的になっていく。
大事なのは、「良いところをきちんと評価する」というところで、文章を書いていると時々「何もかもダメなのではないか」という気持ちが襲ってくるということがあるからで、「そんなことはない。この文章はこういう点が評価できる」みたいなことを自分で確認していくことが大事だということだ。文章を書くときの心的態度みたいな問題については、多分もっと語られていいことなんだろうと思う。
思い出すのは地から湧いてくる感じがするが、思いつくのはふとどこからかやってくるのでその入り口・出口がわからない。文字通り天から降ってくる感じもあるし、気がついたら隣にいました、みたいな感じもある。右側から来ることもあるし、左側くることも、したから来ることもある。後ろに目がついていないからか背後から来ることはあまりないが、後ろも意識していればそちらからも来るようになるのかもしれない。
思い出すのはそれと違って、やはり地下に源泉があるという感じがする。それは今まで読んだ本や考えた記憶が地下水のように溜まっていたり伏流水のように流れていたりするということなんだろうと思う。記憶の漆黒の湖のようなものがあって、そこからボコっと湧き上がってくるというか。いずれにしても、そういう湧き上がってくるものとか不意に訪れるものをなるべく捉える、なるべく逃さないようにすることが大事だなといつも思いながら書いている。
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多木浩二「ベンヤミン精読」読み始めたが、ものすごく面白い。もっと早くベンヤミンに出会いたかったが、まあ色々なタイミングで今になったのが私の人生なので、まあ仕方ないかなと思う。まだ1章の「テクストの誕生」を読み終えたところだが、いくつも面白いところを発見したし、これは本当に面白いなと思った。一つにはベンヤミンの本領はこういう批評、いわゆる文芸評論にあるのだなと思ったことで、今まで一体この人はどういう人なんだろうと掴みかねていたが、文芸評論の祖先みたいな人なんだ、という捉え方が自分の中で一番しっくりくるなと思った。もちろん祖先にはさらにその祖先がいるわけだが。(最初は元祖と書こうと思ったが文芸評論のアリストテレス以来の歴史を考えると元祖は苦しいかなと思ったり)
1章で引用されているのが「ブレヒトの詩への注釈」の冒頭で、ベンヤミンは注釈とは価値評価とは違い、「対象となるテキストを古典とみなすところから、したがっていわば一つの偏見から出発するもの」と述べているところで、つまり「対象を古典とみなすという偏見」からスタートするというのはとても面白いと思った。
これは、私がマンガについてとか小説についてとか書くときに、批評とか評論とかと書かずに「感想」として書くことと一脈通じていて、つまり私は「対象を良作とか傑作であるとみなすという偏見」からスタートしているのだなと思ったわけである。
大事なところは、自分が「古典」の「注釈」に取り組む態度を「偏見」と「自覚している」ということで、つまりこれは近頃話題のウェーバーがいうところの「価値中立性」というものに近いということだ。逆に言えば世の言説の(特に左翼言説の)多くが党派性やイデオロギーからスタートしていながらそのことに無自覚、あるいは無自覚であることを装っているということでもある。
「注釈」については、そういう読み方、そういう書き方というのが「あり」なんだと言われると心強い、ということがある。もともと後期の小林秀雄とかはそういう書き方だなと思っていて、ああいう書き方がいいなと思い、「感想」という言い方も考えてみると小林の言い方を踏襲したという面もあるのかなと思ったりしたが、ブレヒトは1898年生まれで1892年生まれのベンヤミンよりも年下であり、ベンヤミンよりもずっと後まで生きているわけで、その作品を「古典」というのは確かにある種の「偏見」でありこの上ない称賛でもあるのだなと思った。
ここまでを読んで、ベンヤミンという人にとても強い関心を持ったし、読むにあたっての自分が取り組むべき態度みたいなものも見えてきた感じがする。つまり、小林秀雄を読むときのスタンスに近くていいのだろうと思う。小林はデビュー作の「さまざまな意匠」から文芸というものを大きな視野で位置付けていたが、後になってさらに広い範囲にわたってものごとを捉えようとし、最後には「本居宣長」で生複合的な世界を描いた感じがする。
http://www.honsagashi.net/bones/2005/11/post_204.html
「本居宣長」の内容を簡単に言えばどうなるか、と思って自分のブログの過去ログを読んでいたらすっかりはまってしまっていけなかったが、時間のある時にもう一度読んでみると良いとは思った。やはりこれこそは「古典」なんだろうと思う。
「本居宣長」の中で小林秀雄は「ただ宣長の言葉に耳を傾けることによって彼の思想を「信じ」、また「述べる」ことを宣言しているわけだが、これは「宣長の著書は古典である」ことを宣言しその「注釈をする」と言っているのかもしれない。小林秀雄が「新潮」に「本居宣長」の連載を始めたのは1965年の6月号からだそうで、「複製技術時代の芸術」が日本で翻訳され紀伊国屋書店から出版されたのも1965年のようなので、小林が書き始めた時に読んでいたかどうかはわからない。ただ「本居宣長」の連載は11年続いているのでそのどこかで読んでいるかもしれない。
http://www.honsagashi.net/bones/2005/11/post_203.html
私はベンヤミンを読もうとしたことは今までも何度かあるのだが、どういうスタンスで近づけばいいのか全然わからずに困っていた。自分にとっては、「いわゆる文芸評論家」だと思って読むのが一番読みやすいようだ。小林が後期になるとさまざまなものを渉猟して文章を書き、最後には本居宣長で日本や日本人、日本語というものに迫ったように思うが、ベンヤミンでそれにあたるのが近代パリの風景について多彩に論じようとした「パサージュ論」なのではないかと思った。
まあ、アート(及び人間の作り出したもの全般)と人間について考え、書くためには読んだ方がいい本が山のようにあることは結構見えてきたが、その中で自分にとって特に役に立ちそうなものから読むしかなくて、ベンヤミンはすごくその後の読書のためにも役に立ちそうだなとは思う。
「複製技術時代の芸術作品」というのもコピーとオリジナルの差異がなくなるというような視点はもちろんアンディ・ウォホールらの「ポップアート」のある意味理論的支柱になるのかなという気はするが、そういう新しい時代のアートのあり方を喚起したというだけでなく、アートというものの我々現代人にとっての意味みたいなものを問うところがその中心なのだろうと思う。
昨日書いたこともそうだけど、ベンヤミンを読みながら、批評家という存在、批評という行為の重要性について、システムとしてアートを成り立たせるためにいかに重要な存在かということがよく了解できた。アートというのは作品の集積である以前に、巨大な知の体系であって、それはブルジョア以上の階級に資する階級的な存在でもあるけれども、知の体系であるという点において人類全てに供給される、あるいはされるべき存在でもある。そういう意味では複製技術というのは非常に重要なもので、印刷だけでなくパソコンやネット、3Dモデリングや3Dプリンタなどの発明は画期的なことであり、アートを享受する可能性を飛躍的に広げただけでなく、アートの制作の面でも新しい可能性を提供するようになった。「複製技術時代の芸術作品」は今こそ読み直され、あるいは書き足されていくべき文章かな、という気はしたのだった。
まあ「階級」側が「批評」をどのように受け入れるかはいわば彼らの問題なのでまずは批評は作られなければならないと思うのだけど、例えば外国語に訳しても十分読み手がいるような「強い批評」が求められているのだろうなと思う。
この辺はいろいろ考えられることがたくさんあるけれども、例えば「システム」を利用することで、日本文化がより多く、というか世界中の人に享受されることが可能になり、また日本文化の側も刺激を受けつつより先鋭な表現も発展させていくとともに共通の地盤作りみたいなこともできると面白いなとは思った。
彼らの視点や思想を利用するだけではなく、よりわがままに日本の視点や思想をも伝えていけるようにしたい。彼らの視点や思想を経由するということは結局オリエンタリズムに陥ることになりかねず、彼らにとってそれのどこがいけないのかなかなか理解されていない感じがすることもあり、共通基盤形成も怠らない方がいいが、日本もまた肯定されるべき巨大な文化複合体であるということを認めさせる、みたいなことが必要なんだろうと思う。
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