「人生のコスパ」と「アメリカ・ヨーロッパ文明の影と光と影」:帝国主義と自由と「ポリコレとロシアと中国」/生存と実存/イメージの断片

Posted at 23/08/08

8月8日(火)晴れ

昨日は母を連れて高速で地方中心都市の病院まで行ったのだが、朝7時に出かけて帰着が夕方5時になり、思ったよりもかなり大変だった。時間がかかるとは最初から言われていたのでお昼までに終わるのは無理かなとは思っていたが、本当に丸一日潰れるというのは予想外だった。帰ってきてから朝買ったジャンプやスピリッツ、ヤンマガを読んでいたらもう夕食の時間になり、他のことがあまりできないうちに休むことになった。

今朝は4時ごろ起きたがまだ空気はもわっとしていて、いろいろなことを寝床の中で考えていたというか良くも悪くもさまざまなイメージが湧いてきてまあもともと自分はこういう人間なんだよなあと思ったり。その中からこれはと思ったことを拾い上げて文章にはしているわけだけど、そうならないまま消えていくイメージも結構ある。断片的なそういうイメージを書くにはTwitterは割とよくできたメディアだと思うのだが、本当に断片的なまま消えて行かないようにするために文章を書いている面もあるなと思う。

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人生のコスパのようなものを求めていくと、より今の世界の中枢とか特権階層に近いところにいるのがコスパがいい、ということになってくると思うが、それはつまりアメリカ白人の男性のエスタブリッシュメントの、コンサバといえばコンサバな、リベラルといえばリベラルな階層とその周辺というあたりにいるのが、人生のコスパは一番いい、という感じはする。

ただ彼らは、いろいろな意味でその特権階級制を攻撃され、嫉妬や怨念、憎悪や叛逆を受けてきているから、自分たちの特権の一部を譲る形でポリティカルにコレクトなことをやってますよとか、フェミニズムで女性にも配慮してますよとか、LGBTQで性的少数者にも配慮してますよとか、BLMで黒人にも配慮してますよとか、まあそういうことをいろいろやりつつも、やはり自分たちは世界の中心という意識で、「原爆バービー最高!」「忘れられない夏になるわ♡」とかやっているわけである。

その傲慢さと無神経さに我々は苛立つわけだけれども、現実問題としてその辺を中心にして世界が回っていることはまあ否定はできない。

そういうもの=ある種政治的なポリコレ=脱「戦後」帝国主義政策の一環として、フランスはアフリカの旧植民地に対する軍事的な存在の誇示や利権の行使を「フランスアフリック」と批判されてきて、その見直しに着手してきたマクロンはこうした地域からの軍の縮小と、地元各国との協力を打ち出してきたわけだが、ニジェールのクーデタで雲行きが怪しくなっている。これにはロシアの介入が噂されていて、実際にワグネルの部隊が首都のニアメーに入ったらしいわけだが、つまりはフランスは「ポリコレ的にいいところを見せようとしてロシアにつけ込まれた」ということなわけである。

これはどこかでみた構図だなと思っていたのだが、考えてみたら「香港」そのものである。

イギリスは1997年に帝国主義の清算という形で天安門事件から8年後の中国に香港を返還したわけだが、この数年は香港の民主的選挙の事実上の廃止や独立派の人士の逮捕、報道の禁止、人権の侵害を公然と行なってきているわけで、イギリスは自らのポリコレ的ないいカッコしいを中国につけ込まれた、ということに他ならないわけだ。

ニジェールの国民が何を望んでいるのかはまだなんとも言えない部分もあるが、香港に関しては中国的な専制支配、一党独裁支配を望んでいる人は多くはないだろう。そういう意味で言えば、彼らにとっては「イギリスの植民地支配」の方がずっと「まし」であり「光」であったわけである。

我々はずっと欧米による植民地支配を「影」と認識してきたが、それは彼ら基準ではあるが例えば近代主義とか民主主義とか科学的思考とか大衆消費社会などの自由を前近代社会に与えて、社会自体を近代化したという側面もあるわけである。そういう意味で「光」であったわけだが、今度はポリコレの圧力に負けてそれらを手放すことにしたところを「ロシアや中国」につけ込まれて人権が抑圧される「影」を生んでいる、というのが一つの現状の見方であろうかと思う。

「ロシアや中国」というのはつまり、「権威主義的な」「大国」ということであるが、彼らの「民族自決」や「国家主権」に対する考え方は我々と、あるいは西欧スタンダードとは違うところがある。これは小泉悠氏の著書によればロシアは大国のみが、つまり他の国に忖度することなく動ける国のみが真の独立国であるという考えがあり、そういう意味で言えば日本は独立国ではない、と見做している部分があるわけである。中国もまた中華民族主義の立場を取り、漢民族だけでなくウイグル人もチベット人もその他の少数民族も「中華民族の一部である」という考え方を少なくとも以前はとっていた。現在の民族に関するイデオロギーが公式的にどう定義されているかは確認はしてないが、定義がどうなろうと人民解放軍が基本的に共産党の軍隊であるように、そうした意識は変わっていないように思う。

ただ実際には、「自由主義の大国」であるアメリカもまた、我々の考えるような主権意識を持っているかというとやはり違う感じがする。彼らはアメリカが中心であって、その周辺に同盟国があり、敵対国家があるという認識があるわけで、同盟国とアメリカは「完全に対等である」とは考えていないだろう。大統領が外遊するときに警備はホスト国の警察には任せないわけで、その辺りは日本などとは全然違う。

またフランスも帝国主義時代のアフリカ支配の延長戦的な支配ー同盟関係をアフリカには持っているわけだし、イギリスもコモンウェルス=イギリス連邦を大きな外交的資産にしていることは間違いない。カナダにもイギリスの「総督」がいるように、これらの国家が「完全な独立国」であるかどうかは解釈も余地があるようになっている。そういう意味で、世界の諸地域が完全な主権国家体制で成り立っているというのはある意味フィクションの部分はある。

ただそれらの国々が完全に一国一票を持って対等であるのが国連総会であって、そういう意味では理想の実現の一つの形ではあるわけだ。

アメリカ白人を中心にした免罪符としてのポリコレのようなものを国情の違う日本にも押し付け、その国情の違いによる進行の遅滞を「遅れている」と揶揄する彼らの姿勢は19世紀的な社会進化論の焼き直しのようなものであり、逆にそんなものに乗らない方が政治的に正しいとも言えるわけで、反ポリコレが反欧米につながっている面は日本に限らず世界的にある。ロシアや中国はそういうものを狡猾に利用しているわけで、いわば前門の虎後門の狼なのだが、我々は我々の納得するような政治的正しさにこだわって主張し、実現していくしかないだろうと思う。

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人間は生きていくためにいろいろなことをしなければいけないけれども、そういうことをしているだけでは満たされないというか、自分というものを持てないところがあるわけで、つまりは生存しているだけでは実存的な問題が勃発し、それが自分を苦しめ、生存すら危うくなる、ということがあるわけである。

だからできれば人間は自分の実存に関わるようなことを生存のための手段、つまり仕事に結びつけて、実存を実現しつつ生存を図ることができればそうした問題は起こりにくい、ということになる。

まあその辺りのことを書こうと思ったのだが、ちょっと今日はあまり展開する感じがないのでまた改めてお書きたい。

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普段は日常雑記的なことから書き始めるのだが、今日は世界認識的な話を先に書いたのでちょっと硬い感じになったかなという気はする。まあこういうものの書き方の加減というのは割と微妙なものなので、いろいろ工夫していきたいと思う。

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