アメリカの歴史と日本の現皇統の歴史/Twitterの長所/ウクライナ戦争:「アイデンティティの戦争」と「大国間競争の時代」

Posted at 23/07/04

7月4日(火)晴れ

7月4日、と書くとああ今日はアメリカの独立記念日だなと思うわけだが、247周年か。まだ独立戦争の最中だから完全に独立が確定したのは1783年のパリ条約、それからだと240年。長いのか短いのか。日本では天明3年、7月6日に浅間山が大噴火し、おりからの天明の大飢饉をさらに悪化させた。天明に改元されたのは閑院宮家から皇位を継承した光格天皇が即位されたからであり、幕政としては10代将軍徳川家治、老中田沼意次のいわゆる田沼時代である。皇室はそれ以来直系相続が続いており、米国史はそれと同じ長さだと考えると長いのか短いのか。

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Twitterはその後APIに関してどういう方針にあるのかよくわからないが、あまり接続しないようにしていたこともあり、昨日は制限に引っかかることはなかった。Twitterは自らの長所を自らなきものにして行っている感があって、経営陣が自分たちのサービスの長所をどのように考えているのかよくわからないのだが、私自身としては他のサービスや情報に対するハブのような役割だと思っている。Twitterは無料で使わせてもらっているのだから文句を言うな、と言うような論調もあるが、YouTubeもインスタもFaceBookも無料な中でTwitterだけ有料化するというのはどうなんだと思うし、有料化やむなしならばここのところ提携がどんどん切られている他のサービスとの連携を復活してもらいたいものだと思う。

個人的には「ついログ」との連携を切られたのが残念で、自分のツイートを見返すのに公式だと時間がかかるので、これは是非復活してもらいたい。インスタとの提携が切られているのもコンテンツ量の低下を招いていて、実際意味がわからない。

結局のところユーザー側としては他に有力なサービスもない現状なのでいろいろ対策を講じながら付き合っていくしかないというのが現状なのだろう。noteでも呟き機能があるよ、と宣伝をしていたが表示はそれに相応しいようになっているかというとやはりテキストその他のコンテンツの方が大事にされてるなと思うわけで、「ツイッターの代用」は流石に無理だと思う。

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一昨日買った高橋杉雄編著「ウクライナ戦争はなぜ終わらないのか」が面白い。この戦争の性質の分析、という面では2022−3年の時点でドローンをはじめとする新しい兵器やスターリンクシステムやスマホ・SNSなどの存在感の大きさという点で新しいけれども、塹壕戦や戦車など第一次世界大戦と似たような古典的戦争の面もあり、ただこの「ずれ」もまた現代的文脈の中で起こっていることを見落とすべきではない、というのがなるほどと思った。

また、ウクライナもロシアも激しい情報戦を展開していて、いかに味方を作るか、国連の場などの多数派工作やお互いの残虐性の訴え(ウクライナ側はブチャの虐殺、ロシア側は「ネオナチ」言説など)においても火花を散らしていて、これを「デジタル時代の総力戦」と名付けているが、私自身としてはクラウゼヴィッツがいうところの「戦争とは延長された(他の手段で行われる)政治である」という言説が、全く古典的な形で行われているというところに意味を感じた。「戦争犯罪」であるとかその失地回復を狙う「歴史戦」や「デジタル戦争」など、政治的な現象については比喩的に「戦争」の言葉が使われるけれども、「戦争は政治であり政治は戦争である」みたいな感じで読み取れるなと思った。

我が国では政治はともかく、戦争は絶対悪であって、問題は交渉で解決すべきだという論調が強くそれ自体はもちろん正論なのだが、侵略に対する抵抗まで否定するのは軍事的にだけでなく政治的にも正しくはないわけで、その辺りの日本人の認識がこの戦争によって変わるといいなとは思っている。

もう一つの指摘は、「この戦争はロシアとウクライナのアイデンティティをめぐる戦争だ」、という指摘で、これもなるほどと思った。「東スラブの盟主」はモスクワ大公イヴァン4世がツァーリを自称した1547年以来ロシア国家が担う形になっていて、現在の政治主体で言えばベラルーシとウクライナはその下にあるべき、というのがロシアのアイデンティティだろう。それに対しウクライナは遥かに古い988年にウラジーミル1世の元でキリスト教東スラブの基礎を築いたわけだが、その後分裂しロシアやポーランド、リトアニアなどの支配を受け、東スラブだけでなくカトリック的西欧の影響も受けるようになったわけで、ウクライナ国家としてのアイデンティティはソ連崩壊後の独立の後もそんなに強くはなかった。逆に言えばウクライナの国家統合が劇的に進んだのは2014年のロシアによる侵攻後であり、まさに今ウクライナは「独立戦争」ともいうべき戦いを行なっているとも言える。

まだ読み始めたばかりだが、第2章ではこの戦争の抑止は可能だったか、第3章ではこの戦争における宇宙利用について、第4章ではサイバー空間上での戦いについて述べているということで、この辺の「新領域における戦争」の分析も楽しみである。また第5章では「戦争の終わらせ方」の問題について論じられ、終章では日本の周辺で「戦争を起こさせないことの重要性」について述べられているといい、重要な論点はくまなく押さえられているように思った。

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第1章を読み始めていきなり私自身の世界認識の遅れを自覚させられたが、現代はもはや「ポスト冷戦」時代ではないのだなと思った。「ポスト冷戦」というのはイコール「アメリカ一強(唯一の超大国)支配体制」な訳だが、2007年ごろからの顕著な中国の大国化と2014年のロシアのクリミア併合・ドンバス支配などをメルクマールとし、この時期から「(超)大国間競争」の時代に入ったというのが2017年に出されたアメリカの国家安全保障戦略(NSS)になっているという。

私はこの辺りは「トランプ政権の世界観」くらいに捉えていて、アメリカ全体の国防方針というのとはまた違うと思っていたのだが、確かに中国との対立を意識する姿勢はトランプだけでなく共和党・民主党双方の広範に存在するものではあったということは理解していた。

それが「ポスト冷戦」から「ポスト・ポスト冷戦」を意味するほど重要なものだと思っていなかったというか、逆に言えば「中国は最初からやばかったし今でもやばい」くらいに思っていたので、そんなメルクマールになるようなことだと思っていなかったということなのだけど。

ただ、気がついたら安全保障関係で「ポスト冷戦」などと言ってる人はもう誰もいないわけで、「大国間競争の時代」を特徴づけるものは確かにいくつもあるなと思う。

そういう意味で言えば1929年の世界恐慌が「ポスト世界大戦=「戦間期」の終わりの始まり」であったように、2008年のリーマンショックが「ポスト冷戦」のメルクマールであったと考えるべきなのかもしれない。2008年のアメリカ大統領選で当選したオバマがアフガン撤退を始めアメリカの世界への干渉を減らしていく路線をとり、それは2016年当選のトランプ政権でも受け継がれた。アメリカが「一強」の役割を放棄する一方、ロシアは石油生産で経済を回復させ、事実上の長期政権を担うプーチンは2014年にクリミアを一方的に併合、ドンバスにも手を伸ばした。中国は世界一の成長率を続け、2012年に習近平政権になると以後香港や新疆ウイグル、内蒙古、チベットなどにも強権的な政策を進め、軍事力も飛躍的に増強させている。

「大国間競争」でアメリカが最も意識している競争相手は当然ながら中国なのだけど、ロシアもまたいわばその間隙を突いて専制化をすすめていて、それが遂に侵略の形で火を吹いたのが2022年の第二次ロシア・ウクライナ戦争であったと考えると図式は綺麗に決まる。

習近平政権が「一帯一路」という世界戦略を提唱したのが2017年であり、日本で安倍政権が「自由で開かれたインド太平洋」を提唱したのは2016年なので、この辺りから東アジアでも戦略的対立が激しくなっているのは確かだろう。

東アジアの自由主義圏は日韓対立やフィリピンとアメリカの対立など古傷は残っているのだが、韓国がより現実的・柔軟な尹(ユン)政権になったこともあり、火種には蓋をされつつある。インドやインドネシアなどの地域大国は必ずしも旗幟を鮮明にしているわけではないけれども、彼らも米中・米露の対立構図を無視できるような状況ではないことは確かである。

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というわけで第1章の感想に入る前の自分自身の復習でもう時間がなくなってしまったので、また改めて続きを書きたいと思う。

それにしても、冷戦時代の最も鮮鋭な代理戦争である朝鮮戦争・ベトナム戦争はアメリカが当事者でソ連は背後からの援助者であったわけだが、大国間競争の時代の代理戦争であるウクライナ戦争は当事者がロシアであり背後の援助者がアメリカという形で攻守が逆転しているのも何か考えるべきことがあるのかもしれないとは思った。

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