女装の思い出/多様性という言葉に絡め取られない多様性

Posted at 23/07/15

7月15日(土)曇り時々雨

昨日は午前中母を病院に連れていき、施設に送った後ツタヤへ行って「カノジョも彼女」の最終巻と「EDENS ZERO」の27巻を買って帰ってきた。なんだか頭痛がして調子が悪く、休み休み動いていた。

今朝は昨日よりは頭痛が治まっていたのだが、夜中に左足が硬直して痛くなったので何時だろう、とりあえず風呂に入って暖まり、まだ痛かったけどそのまま寝たら朝起きたら治まっていた。

5時ごろ起きて色々やってから出かけたのだが、やはり朝入浴しないと時間が使える感じがするので良い。夜は結局眠いので入浴する前に寝てしまうのだが、これからの季節は少なくともその方が体調は良い方に回転するかなと思った。頭痛はゼロではないけれどもだいぶ治まった感じだろうか。

隣町まで行ってガソリンを入れ、そう言えば月曜日は休日だから月曜発売の雑誌はどうなるのかなと思って調べたらヤンマガが昨日出ていてジャンプとスピリッツは火曜だということを知り、デイリーで塩パンを買った後セブンへ行ってヤンマガを買って帰った。

最近トランスジェンダーのことや女装男性(いわゆる女装子)の話などがかまびすしいが、そういう性別の領域を超える、みたいな話はどちらかというとアート的な方面や単純に「男の娘」の可愛らしさ的な方面から関心はあったのだけど、「少数者の権利を求める<闘争>」みたいになってから興味を失っていた。

なんとなく徒然に考えていたら、自分も女装したことはあったなということを思い出し、それを書いてみることで自分のこういう分野に対するスタンスというか考えていることも書きやすいかなと思ったので少し書いてみる。

自分が女装したことは2回あるが、まあどちらもイベントなのでガチの女装子というわけではない。高校の文化祭の「美人コンクール(女装した男子生徒の・つまり男子校ノリ・女子もいたのに)」で従姉妹に中学の制服のスカート借りたり(ウェスト58センチだった)同級生のアイドル女子にメイクしてもらったりして出場したことを思い出す。

今そのことを思い出して気が付いたのだが、彼女らはもうすでに2人ともこの世を去っていることを思い出してなんとも言えない気持ちになった。まあそれはともかくとして、文化祭ではノリがうまく掴めないまま「清楚な女子高生が実はビッチ」みたいなセリフを言ってみて一定ウケた(のか?)感じだった。あれはよくわからなかったし、いろいろな情報を組み立てて一応そういうものを演じてみたのだができたのかできてなかったのかもいまだによくわからない。

2回目は・・・と思い出してるうちにそういえば他にも何回か女装っぽいことはした(させられた)ことを思い出してきた。しかしまあそれらはそんなにいい思い出でもないので抜きにして、2回目は大学時代に演劇でロングスカートの婦人警官が実はスカートの下に褌を履いているという役(唐十郎の戯曲)を演じたのだった。が、これはなぜか意識高い系の女性にやたらにウケてちょっと困ったことを思い出す。当時の自分はどうも「お姉さまに可愛がられる系の年下男子」だったような気がする。

ただまあ男性にはウケてないので、まあ役者としてはこの方向性はないなと思い、「イカれた悪役」系の演技の方向へ進んだのだが、まあ演劇続けてたら女装はきっと数多くやったんじゃないかなという気はしなくはない。演劇人に女装はつきものなので、もしもっと続けていたら女装に対してももっと蘊蓄を傾けられたかもしれない。

女装してわかるのは、変な話だが、女性も男と同じ人間だなという感じ。着てるものの種類が違うから体の作りが違うなという根本的な違いは感じるが、裸の上に服着て身だしなみを整えて歩いてることに違いはない、メイクも演劇であれば男だって全員やるので、根本的には違わない気がする。もちろん生理的なことはわからないので「理解できる」というのとはちょっと違うけれども、ちょっと面白いもの着てるだけで人間であることには違いないよな、という感じを持った。

自分はちょっと感覚的(なのかな)に変なところがあり、自分と他の人間が本当に同じ種類のもの、「類的存在」なのかみたいなところが時々わからなくなるところがあるので、「同じ類的存在」という意識は自分にとっては結構大事で、そこを根拠にして人とのつながりも作れていく感じはあった。演劇している頃に一番人間関係が広がったのは多分そういうことなんだろうと思う。

まあ、同じ類的存在とはいえ、心の中はわからない、みたいなことは恋愛とかしてみればすぐわかることだし、しかしまあ心の中というものは、同性だから理解できるというものでもないし、女だから理解できないというわけではない。

まあそういう意味で私に取って女装というのは考えるきっかけみたいなものではあるが、それを偏愛するみたいなものでもない。だからそこで女装愛に振り切れる人たちはある意味すごいなとは思うが、女装するなら綺麗にとかかわいくとかはしてほしいという気はする。

それは、女性の女性っぽい服というのはそういうことを意図して作られているわけだから、それを実現してほしいなという感じといえばいいだろうか。だからゴツい感じの女装子さんには悪いが全然共感しないというか普通に「ダメやろ」とは思うが、そこは個人の自由なので言わないけれども。

それにしても、女装とかするにしても、その人にとっていろいろな理由があるはずなので、それをひとしなみにジェンダーだのトランスだのの言葉で片付ける風潮は基本的に嫌いだ。今朝、車の中で聞いていたNHK-FMの「ビバ合唱」で、中高生のNコンの課題曲は青年期に新しく芽生えた感情に戸惑うことがテーマだったりするという話があって、そういう話を「でも今は多様性の時代ですから」で締めていて、「多様性という言葉でたくさんのいろいろな人間の在り方を一様に塗りつぶすのはやめてくれ」と本当に思った。

私はこのブログにも何度も書いているが「ぼくらのへんたい」というマンガ作品が好きなのだけど、最近はこの作品もそっち系の人に取られた感じがあってなんだかなという気はしていた。

作者さん自身がこの作品がどう位置付けられることを望むかは私の問題ではないので良し悪しは言えないが、読者としての自分は「多様性という言葉に絡め取られない多様性」みたいなものをあの作品には読んだので、そういうものとして大事にしたいと思っている。

トランスという言葉の本来の意味は「境界をこえる」ということだと思うのだが、今の状況では「トランスという新しい境界を作って多くの人をそこに囲い込む」みたいなものを感じ、大変嫌な感じがする、ということは書いておきたい。私のように非当事者であっても、当事者の方であっても、そういうふうに感じている人は決して少なくないはずで、でもその声は運動の正義のようなものに塗りつぶされようとしているのが、気持ち悪くて仕方がない。

まあ、少しナイーブな言い方になったが、このくらいで。

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