理解と表現の「解像度を上げる」ことと文章を書く上での形式(スタイル)

Posted at 23/07/09

7月9日(日)雨が降ったり曇ったり

強い雨が降ったり止んだ利を繰り返していて、なかなか予定が立ちにくい感じがする。今朝は自治会の草刈りがあるのだが、どうなるか。雨雲レーダーを見ると大きな雲が近づいていて、不気味な感じはする。

こうして毎日文章を書いているのだが、自分は何を目指して書いてるのかなと思って、つまりどういうことが私の文章を読むことによって起きるといいと思っているかなと思ってみると、「より解像度の上がる文章」ということではないかなと思った。

ものごとについて、全然知らないことを一次情報として伝える文章というのはあるし、それはそれでとても意味がある。自分の立場でそういう文章を書くとしたら、それは物語とか小説とかの、新しい表現とか展開とかを創作するということが一番近いかなと思う。

解像度を上げるというのはどんな分野に対してでもできることで、なんとなく雰囲気としては分かってる気になってしまいがちだけど本当はよくわからない、みたいなものを、「こういうことだったのか」と腑に落ちる、ようにするような文章がそれにあたるかなと思う。つまり、さまざまな情報をもとに「解釈」するということなわけだけど、それがうまくハマるとかなり面白いのは確かだ。

もう一つ考えたのは、書く上での姿勢というか、スタイル。村上春樹のエッセイのように世の中とデタッチした上で特定の分野(料理とか音楽とか)に対する強い思い入れを展開していくものとか、曽野綾子のように社会への強い関わりを持ってある意味のめり込んだ上でその立場から書くという姿勢、石原慎太郎のように爆発的な行動力と裏腹の虚無感みたいなものを持った上でのそういう自分を冷静に観察し、痛快さや心の一瞬の怯みみたいなものを記録していくスタイル、常識的あるいは左翼文化人的なスタンスに安住した上でのしみじみエッセイ、とかいろいろあるなあと思う。とにかく噛みつき批判論争に持ち込むウェブ論客ならではのスタイルもあるし。まあこういうのは動画配信者と同じようなもので、芸がないと暴露系に走ったりとりあえず脱いでみる、みたいなスタイルに行ったりする。それも芸に昇華していればいいのだが。

読書人型というのもある。「学ぶ」というスタンスでいろいろな本を読み、いろいろな出来事について書いたり、自分が出会ったものについてなど、さまざまな事象についての自分の学びや感想や批評を書く。まあ自分が今やってるスタイルはそれが一番近いだろうか。

何をなぜ、あるいはどんなふうに表現するか、というのは今「2.5次元の誘惑(リリサ)」でも展開中のテーマだから改めてこういうことを考えるのだけど、意図、動機、方法というのは常に大事で、その辺を繰り返していくうちにその人のスタイルみたいなものができてくる、あるいはこの形式に乗っちゃえばアウトプットしやすいという形式を見つける、みたいな感じだろうか。

ただ借り物の形式というのはいつか飽きる。自分で苦労して作った形式であっても、時代に合わなくなったりもするし、形式そのものはいつも追求していく必要があるものだなと思う。

そんなことを考えたりしている。

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