「ハンチバック」を読み始めた/「2.5次元の誘惑(リリサ)」141話:「愛されることによってではなく、愛することによって救われる」

Posted at 23/07/23

7月23日(日)曇り

いろいろと考え事に沈みながら仕事をしたり家のことをしたりしているので、気がつくといろいろなところに不十分なところが出てくる感じで、なるべく早く問題を解決したいのだが、さていつになるか。今日は東京に帰ろうと思っていたのだが、こちらでやることもあり、また8月の上旬は2週帰れない週があるので帰京は来週にすることにした。実際のところ考えなければいけないこと、整えなければいけないこともあるのでどちらにいたほうができるかということではあるのだが、東京は暑いというのもプレッシャーの一つではある。

午前中にツタヤに市川沙央「ハンチバック」(文藝春秋、2023)を買いに行ったら一冊だけあったので買って、帰りにクリーニングに寄ったのだが、ベストがまだできていないということだったのでシャツだけ受け取って帰った。仕事の後、西友に買い物に行き、思ったより金額が大きいのでなんでかなと思ったら米を買ったことを忘れていた。

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芥川賞作品の「ハンチバック」。いろいろと話題になっているのをTwitterで読んで面白そうだと思って読み始めたのだが、文芸作品を読むのは久しぶりだし芥川賞作品も一番最近読んだのは2016年の「コンビニ人間」だったから、7年ぶりということになる。

いろいろと知らない情報が多くて読みながらググったりすることもあり、またやはり小説一本を読み切る体力みたいなものもなくなっているのか、今のところ60ページまで読んだ。主人公の属性もコタツ記事のライターだったり資産家の令嬢だったり自分が入っている施設のオーナーだったり遺伝性難病患者だったり通信制の大学でフェミニズム系の勉強をしていたりと多いので、その都度いろいろ調べることになる。

生きるために身体を削るという感覚は多分若い頃はわからなかったが、最近になると本を読むのにも目に負担がかかってその分壊れてるんじゃないかという感覚になる。これは若い頃にはなかった感じだなとは思う。

30代低身長の自意識としての「弱者男性」でありその自意識が故の攻撃性が武器、みたいな存在と、ほぼ難病により外出不可だが資産家で女性としては身長の高いある意味での強者女性という関係性がある種の関係性のゲームとして嫌味を言い合う、みたいなところまで読んでいて先がわからないからなんだとは言えないのだが、途中の感想というのは途中でしか言えないので書いておくと、まあ人間の実存というものを削っていくとそういう感じに収斂してしまうことはあるかもしれないなという気はしないではない。ただそういう削り方をしたいかどうかというのは人によるだろうとは思う。

「重い本を読むことが困難」という状況は分からなくはない、というかまずそういう状況で重い本を読もうとするとか、また潔癖症で古本や図書館の本に触りたくないというのが必ずしも病気由来ということでもないようで、これはそういうものに触れる時の微妙な感覚を呼び起こす感じはするが、まあそれは生きる上である意味無神経にならないと仕方がないことの一つだよなという気はしなくはない。そういう人にとっては全てがテキスト化されPC等の画面で見られることはある種の福音なんだろうなと思う。理解はするが共感はどうか、みたいな話ではあるが。

まあ途中の感想なので適当なところで端折っておこうと思う。

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https://shonenjumpplus.com/episode/4856001361458145999

「2.5次元の誘惑(リリサ)」の141話の感想を書いてないことに気づいたのだが、これも2週間前は東京に帰ったこともあり、バタバタして忙しくて書きそびれた、みたいなこともあったなということを思い出した。

連載マンガの感想というものは上に書いたようなある種の「途中での感想」になるわけで、すでに142話を読んでいるから141話を読んだ時の感想というのはもうすでに書けない感じはある。今読んでの感想ということで少し書いておこうと思う。

というか、この作品は本編はジャンププラスで2回前までは無料で読めるのだが、それ以前は40円で48時間読めるというシステムになっている。単行本に収録されているのは135話までで無料で読めるのは141・142なので136-140はその都度課金しなければならない。昨日は合宿編を振り返ってみようと思い課金して読んでみたのだが、やはり忘れているところもあって、雑誌のように買い切りで何度も読めるというシステムにしてほしいということは思わなくはない。

忘れていたなと思ったのは、137話でエリカが自分のやりたいことだけに集中して世間の目とかを否定する、ある種の天才なのだが自分の世界に閉じこもる傾向がある人だったということ。そこはある意味奥村に似ているわけで、そこがユキと出会って世界に目を開こうとするようになった、またそのきっかけの一つが美花莉に対する評価の違いということだった、という部分だった。

この「淡雪エリカ」編ではユキの屈託の方に大きなページをさいて語られているし実際行き詰まりを感じていたのはユキなので、ストーリー的にもそちらがメインになるわけだけど、エリカにとってもユキは大きな存在だったということを改めて確認できて良かったと思う。

エリカは「愛されることではなく、愛することで救われた」と言っていて、これが奥村にとっても鍵になることになる。エリカは「ユキの目から見た世界」を知りたいと思っていろいろなものに触れているうちに「愛していれば良かったんだ」ということに気づく、ということが137話で語られる。

ある存在に対して「俺のフィルターが輝いた時」が「好きという感情だった」と気がつく、という137話のクライマックスなのだけど、その話の中で出てきた「本当は美花莉のことが好きなんじゃないか」というエリカの言葉をリリサに聞かれ、リリサもまた迷いの中に沈む。しかしリリサはユキとの会話の中で、「人の目で世界を見るな」と言われ(ここは実際全くエリカと反対のことを言ってるのがすごい)「自分の気持ちに本当に忠実になった」結果、奥村に「愛している」と伝え、でも今までの関係性を続けたい、それが自分の願いだという。奥村もそれに同意することで漫研内部の愛の話は一応落ち着くが、ROMの制作についてもリリサは一つの答えを出す。

それが141話のテーマになるわけだが、「表現は個人的なものでなければいけない」、だから「自分は奥村への「個人的な」思いを表現し、奥村はリリサに向けた「個人的な」写真を撮れば、「リリエルはその間にいる」」という答えになったわけだ。

これはアプリオリに正しいというような答えではないが、今まで読んできた多くの読者にとっては納得できることだろうと思う。リリサは奥村を信頼し、「奥村を驚かせる・感心させる(その他の感情)」ためにリリエルを表現し続けてきたわけだし、奥村はそんなリリサの写真を撮るために自分と戦ってきて、ついには141話で「先輩も遠慮なく私を愛して下さい」と言われる。そして根源的な愛すること・愛されることへの恐怖・逃げたい気持ちに打ち勝って(自分を捨てた母に愛されていた記憶の場面が肯定的に描かれることがその象徴だろう)「俺は人を愛していい」という気持ちでシャッターを切る。それが2人の求めていた一枚になる、ということになるわけだ。

137話の写真との根本的な違いは奥村がリリサ・リリエルへの愛を「自覚して」シャッターを切ったことだ、ということになる。それは今までのベストショット、70話の夏合宿での写真を超えたものになった。この時はリリサから奥村へ愛を向けられていて、奥村もリリエルの奥にいるリリサを撮ろうとしていた。同じことを137話でもやろうとしたのだが、納得できない写真になったのは、奥村の姿勢が腰が引けていたから、「愛が濁っていたから」というのが136話でのエリカの指摘だった。

実際には「それなりに」良い写真だった(2人以外は良かったと言っている)のだが、「究極」を目指したことでそれでは満足できなくなった、ということなんだろうと思う。

142話でユキの美大時代の回想の中で教授がいう、「度し難さが必要」ということを実現しなければ、「究極」には程遠い、というのは全くその通りだなと思うのだが、ここ数回で奥村・リリサ・エリカ・ユキの4人がやっていることは相当「度し難い(本来は救い難いという意味だが、この場合は常識を超えた、と解釈すべきかなと思う)」ことだったなと思うし、だからこそ納得できる一枚になったのだろう。

とりあえず今のところの「141話の感想」はこんなところだろうか。

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by Luke Peterson

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