プロセスを面白がるということ/「ブルーピリオド」真田まち子:作家という生き方

Posted at 23/05/28

5月28日(日)曇り

昨日は疲れが出て、仕事が終わったあとブラタモリの屋久島回を見ているうちに寝落ちしてしまった。土曜日は何のかんと言って仕事があるのでちゃんとは休めない。ちゃんと布団に入ったのが九時半頃で、起きたら2時半。いろいろ考え始めたら眠る気がなくなり、一度布団に入ってはみたが程なくして起き出した。今日は東京に帰るのであまり朝のうちにいろいろできないが、文章は一つ書いておこうと思う。

いろいろ考えたことはまだここに書くほどまとまってないのでもう少し考えを進めたいと思うのだけど、つまりは自分は何をしたい人なのかなということ。父は割と運動家タイプで、いろいろな新しいムーブメントを起こそうとすることが好きだったのだなと思う。母はむしろ経営者タイプで、うちにじっとしていないでいろいろなところで話をつけてきたり、家にいるときは植木屋の作業を見たりしてるのが好きな人かなと思う。兄弟は私を含め教員関係が多いのだが、やはり教えるとか育てるということが好きなのかなと思う。

私自身は何だろうなと思うのだが、面白いことが好きだということは思う。ただ、面白いことというのはそんなにしないうちに面白く無くなるので、「面白いことが好き」ということはそのままイコール「飽きっぽい」ということになり、なかなか「面白い」や「好き」を持続することが難しい。

だから、「面白い」を持続させるためには、ある「もの」や「対象」を「面白い」と思ってもそんなに長続きしないから、何か「こと」を面白がる、特にそのことを実行していくプロセスが面白がれるなら長続きするかな、と思うところがあった。実際、「受験勉強」というのもどうやって合格を勝ち取っていくかのプロセスが大事であって、それを面白がれれば割と上手くいく。そしてその成功体験は誰かの援助をするにも、つまりそれを教えることを仕事にすることができる、という意味でプロセスを面白がるのは割と生きる上で役に立つ面白がり方だと思う。

多分それは起業とかもそうで、毎日いろいろな違うことをしないといけないから多分面白いのではないかと思う。起業が成功して軌道に乗ったり、失敗しておじゃんになったりするともう面白さは無くなるのだろうなと思うが、起業ばかりしてうまく行ったらすぐ事業を売り飛ばしたりする人というのは、そういう面白さに取り憑かれているんだろうなと思う。

文章を書くというのもまあ、そういうプロセスをきちんと踏んでいけばもっと面白いだろうなと思うのだけど、何かをやるという時に一番大事なのはエネルギーがあるということで、疲れてたり余裕がなかったりするとなかなかそういうものを楽しく思えない。時間がないというのも物事を楽しめない大きな原因になったりする。最近なかなかまとまった時間がちゃんと眠れなくて困っているのも、そういうエネルギー不足に陥るからなのだが、同じ時間眠ってもエネルギーが回復している感じがするときとしない時があってなかなか眠りは難しいなと思う。

***

https://comic-days.com/episode/13932016480029559862

「ブルーピリオド」を読んでいて、というか夏休みになってからの広島のモモの実家でのエピソードのところを単行本からアフタヌーンのバックナンバーにかけて読み返していたのだけど、やはり抜群に面白いなと思う。

特にいいのが、「真田まち子」というもうこの世にはいないキャラクターで、村井(八雲)のライバルであるとともに理解者であり、鉢呂(はっちゃん)の憧れの作家でもあったこの寡黙な女性キャラは、地味に見えるけれども強烈に「キャラが立っている」人で、周りの人たちにものすごく大きな痕跡を残してこの世を去っている。その話を村井に聞かされた八虎が、その話にどう反応するのかは次号を待て、なのでまだわからないが、「作家という生き方」を20歳少しすぎの短い人生の最後まで貫いた強烈さが読んでいてとても印象に残る。特に、真田が村井に「君はやっぱいい絵描きだね」と言うところは泣けてくる。

私も演劇をやっていて、この人は演技がいいな、と思ったら、「いい俳優だ」ではなく「いい役者だ」と思う。画家、作家、アーティスト、いろいろ言い方はあっても、絵を描くならやはり「いい絵描きだね」と言われたいよね、と思った。多分その表現が、情念みたいなものと直結している。

まあ端的に言って私は絵が好きだし漫画も好きなので、絵が描ける人というのにはシンプルに憧れがあるのだろうなと思う。それもあってこの造形(ルックス的にも人物造形的にも)なので、自分の好みすぎる、ということだろうか。

と書いていて思ったが、つまりは目立つ形ではないにしても、真田は「カリスマ」だったんだなと思う。

絵を描き始めた時に八虎が最初に憧れたのが森先輩で、最初に「ライバル」とか「天才」と思ったのが世田介なわけだけど、実際にカリスマと言えるレベルの人で大きな影響を受けたのが、ノーマークスというアートコレクティブをやっているフジキリオという人で、その辺のことは下の記事に書いた。

https://note.com/kous37/n/n87a6eff9e867

彼女に受けた絶対的な影響みたいなのがあって初めて、おそらく八虎は高く評価された「罪悪感」をテーマにしたインスタレーションを作れたので、そこは一つ彼の「作家人生」においてターニングポイントになるところだったと思う。

その後の八虎は割と自由に制作に取り組めるようになってきた感じがあり、また広島の大きな倉庫で制作することでスペースの限界的な枠も少し外れたんじゃないかなという感じがする。村井に暴言を吐いた広島の画商に本気でキレようとして村井に止められるが、そこで村井に本当の意味で信頼されて、真田の話を聞けたのだろう。

「作家として生きる」というのはある意味「人生を棒に振る」ことで、ましてやその思い半ばで死んでしまったら、何も残らないままになってしまうのだけど、でも真田はたくさんの作品を残していて、それがまた多分生き残った人たちの生きるよすがになったりもするのであって、ふと「はっちゃん」はキュレーターになって真田の作品を守っていくのではないか、というふうにも思ったりした。

面白がると言っても、「プロセスはプロセスでしかない」とも言えるのだけど、そのプロセスが何かを残していくことはあるわけだし、ましてや作品としてそれらが残っているなら、プロセスそのものが生きる意味と言えるのかもしれないとも思った。


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