気分が下降中/アフリカにおける「土地」より「人」の問題

Posted at 23/05/10

5月10日(水)晴れ

天気は良いが、やはり朝方は寒い。最低気温は6度だった。昨夜寝たのは11時を回っていたのだが、目が覚めたら3時20分くらいで、もう一度寝ようと思ったが眠れずに3時40分ごろに起き出した。予定を確認したりしていたら、少し面倒な問題について色々考え始めてしまい、気分がだいぶ落ち込んできた。まあここのところアフリカの面白さや仕事の方針など前向きなことを考えていたりしてちょっとハイになってるなと思うところがあったので、少しこういう反動が来るのは仕方ないなと思いながら、自分の様子を観察している。自分が落ち込むのは概して「どうしていいか方針がたたない時」なのだが、こういう時は考えが堂々巡りしてデフレスパイラルに落ち込む、みたいな感じになる。

先ほどは昨日から再開したモーニングページを書いていたのだが、こういう時は身体の緊張を緩和したり心を落ち着けたりするのに役に立つ。昨日から再開したのはたまたま、というか思いついたからだが、ちょうどタイミングが良かった。というか、そういうのを無意識に察知して再開したということもあるのかもしれない。まあわからないが。

昨日いろいろ仕事のことをやっていて、人生には方向に迷った時に「考え方」というのは重要だなと思ったのだが、落ち込んだ時というのは「考え方」よりも状態の受け入れと立て直しの方が重要になるので、より冷静に「見る」ことが大事だなと思う。落ち込みかけの時はまだ周りが見ようと思えば見えるのだが、だんだん落ち込みの底に沈むと周りが見えなくなる。ただ、ささくれ立った現実の中に何か普段見えてない価値のあるものが見えることもあり、そういう時にしかできないことを大事にするということもあるのだよなと思う。

***

「岩波講座世界歴史アフリカ諸地域」、杉山祐子「女性・ジェンダーから見るアフリカ史」読み始めた。こういう系統のものはまず読まないのだが、アフリカ史ということで少し読んでみようと思って読み始めた。フェミニズムの公式みたいなことが書いてあるところはスルーして、社会の分析みたいなところを読んでいると、やはりこの視点からしか見えない、というか一番見えやすいのだろうなと思うところはある。

近年のアフリカに対する歴史観は基本的に西欧中心主義を見直しアフリカの内在的な発展や「遅れた野蛮な地域」という見方を見直し内部の自立的な動きやむしろ外部の側の偏見が生まれた経緯などを明らかにする、という方向に行っているわけだけど、ジェンダーという視点が入ると男性中心的な世界観を見直す、ということもファクターとして入ってくる。

だから、方向としてはヨーロッパと違ってアフリカはジェンダー的に多用だとか女性の地位がヨーロッパとは違う、みたいな感じの語られ方をするのだろうなという感じはあったが、基本的に方向性としてはそうなっているように思う。日本もジェンダーのあり方は欧米とは違うのだから、欧米的な「家父長制」みたいなものを日本にも見出し、アテハメ主義的に批判するのではなく日本的なジェンダーの多様なあり方みたいなものをもっと明らかにすればいいと思うのだが、なぜかそういう方向にいかず(これはスターリン時代の天皇制批判・32年テーゼみたいなものの延長線上から発想がスタートしているからだと思うが)家父長制という概念を無理やり当てはめて批判しているのはあまり建設的ではないと思った。

ただ、アフリカに関しては「家父長制的で遅れている未開社会」みたいな断定の仕方はポストコロニアル的なイデオロギー的にもできないから、より公平にみようとしているのは建設的だと思った。

知見として面白いなと思ったのは、「ヨーロッパやアジアが土地の私的所有を基盤に社会階層や国家を発達させた」のに対し、人口密度が低く自然条件が厳しいアフリカでは、「土地そのものの占有よりも労働を通して土地を資源化する人の確保と組織化が重要な課題であり続けた」というのはなるほどと思った。

土地が基本的に「生産手段」であるアジアやヨーロッパの農業国に対し、アフリカは土地はそのままでは資源にならないから人的資源を投下して資源化する必要がある。それが焼畑農業などの「移動する農業」が行われる理由で、またアフリカ的な奴隷制が生まれたのもそうした人的資源の確保という面から見るとなるほどと思えるところがあるなと思った。

社会構成としては父系制も母系制もあり、どの社会でも性的役割分担は明確であるといい、その上でジェンダーの役割は多様だとする。これはつまり「男が行うべきこと」と「女が行うべきこと」が社会によって異なるということだろう。それは先に言ったように日本と欧米でも異なる。よく言われる例で言えば家庭で財布を握るのは欧米では夫だが日本は妻であるケースが多い、みたいな話だが、役割分担自体はある上で、そのジェンダーの役割と考えられていることは社会によって異なるのは当然だろう。というかアフリカに関してはそういう見方ができるのだなと思った。

父系制と母型制の問題にしても、父系制で多くの妻を一人の首長が持つような場合、結局頼りになるの母親で母親を中心とした集団が形成される、ということはアラブなどでも見られ、母親が同じ集団が他の母親の集団と対抗することはサウジアラビアなどでもある。「世界のともだち 南アフリカ」を借りてきたのは、他の国では父親が出てくるのに対して南アフリカ編では父親が出てこないからその辺のところが気になったということもある。

また母系制であっても政治を行うのは男性だ、という指摘もあり、またアフリカフェミニズムが経済や「産む権利」の問題よりも文化的な連帯によって公的権力への参与と発言力を求めている、というのもアフリカ特有の事情だということのようだ。

というようなことを読んだり思ったりした。

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