アフリカ史と日本/東アフリカの良くも悪くもダイナミックな歴史/様々な植民地と日本の植民地

Posted at 23/05/01

5月1日(日)晴れ

昨日は一日、すごい雨が降っていたが、今朝はすっかり晴天。五月晴れというのはこんな感じかと。ただまだ肌寒く、ストーブを焚いている。今日の最低気温は8.2度、最高気温は20度の予想。旧暦ではまだ3月だから弥生の空なのだが。

昨日は目が覚めたのが2時台、今日は3時台だった。結局4時前に起き出して風呂に入ったりジャンプ+を読んだりしているうちに5時半ごろになり、明るくなったのでポリタンクに外の灯油タンクから給油して、ファンヒーターをつけたら暖かくなった。普通のストーブに比べてやはり暖かくする力が違う。その分灯油も電力も消費するのだが、この歳になると暖かいのには替えられない。

二、三日雨だったので気がつかなかったが、灯油を入れに外に出てみると蒲公英など草がずいぶん伸びていて、タンクに入れている間に一通り草むしりをするなど。あまり伸びないうちに一度草を刈りたいのだが、そう言っているうちにどんどん伸びてしまう。

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昨日はマンガも読んだが、主に「岩波講座世界歴史18アフリカ諸地域」をずっと読んでいて、鈴木英明「沿岸部スワヒリ世界の形成と展開」まで読み終わった。この辺りは元々の知識はオマーン海上帝国とザンジバル王国くらいしかなかったので、知っていたことや最近知ったことに色々肉付けされていく感じで読んでいて面白かった。

私がアフリカ史を読んでいて感じる面白さというのは、なんと言ってもほとんど知らない地域の歴史イメージがラフにとはいえどんどんできてくる感じがたまらないということなのだけど、非欧米世界ということもあって日本と重なる部分も多く、日本は周辺諸国に比べると突出した歴史を持っているので相対化することがしにくいのだけど、アフリカを調べてから日本を考えるとこういうことなんだよな、と思うことがいろいろあり、そういう意味で自分の日本史や日本という国自体を考えるのに新しい視点や考え方を提供してくれている感じがする。

アメリカやウクライナの周辺などはだいぶ頑張って読んだけど、やはり基本的に欧米世界の延長という感じで知らない国を地道に知っていくという感が強いのだが、アフリカはすごく刺激的な感じが多い。ラテンアメリカやオセアニア、シベリア(極東も含む)などまだ知っておきたいことは多いのだが、なかなか余裕がなくてその辺りに手をつけられていなかったけれども、このシリーズは「南北アメリカ大陸」と「太平洋海域世界」という独立した巻があるので余裕が出てきたらその辺りも読めるといいなと思う。シベリアはまた探すしかなさそうだが。

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「沿岸部スワヒリ世界の形成と展開」。沿岸部スワヒリ世界というのは基本的に東アフリカの沿岸に浮かぶ島々の世界、ということだと。ザンジバル島やモザンビーク島、キルワ島やラム群島、モンバサ島など。つまりそれに対応するのが内陸部スワヒリ世界ということになる。この沿岸部スワヒリ世界が形成されたのはさまざまな文明文化が混淆してということなわけだけど、そのような意味ではあらゆる文明文化もまたそういうところはあるよなと思う。

日本の稲作文化についても、稲作農耕民が渡来してそれを広げたのか、渡来した農耕民自体は少数で元からいた人々がそれを受容したのか、という論争が過去あったことを思い出す。今はどういう結論になっているのだろうか。

沿岸部スワヒリ世界は11世紀くらいからさらに海洋性を強め、アラブとの交易や珊瑚の切り出しなどの海の資源を使うようになるとともに内陸部との往来は限定的になっていった、というのは面白いなと思った。日本の中世港湾都市もそのようなケースが多かったように思う。また、16世紀のポルトガルの来航はこれまで考えられていたほど影響力は大きくなかったというのもへえっと思った。

それは、沿岸部スワヒリ世界の港町はポルトガル人ほかヨーロッパ商人たちにとっては通過点あるいは泊まりさえしないところだったということのようで、あくまで彼らの目的地はインドやマラッカやその先の日本・中国だったということなのだろう。また、西アフリカには黄金や奴隷などの彼らの求める「商品」があったが東アフリカには当時はなかったということなのだろうなと思う。

この状況が変化するのは19世紀、1820年代にオマーンのブーサイード朝のスルタン、サイイド=サイードがザンジバルに拠点を作り、頻繁に往復してオマーン海上帝国を築いてからだと。この辺りは少しは知っていたが、この地域の歴史にとっての意味の大きさのようなものが理解できてよかった。

スルタン・サイイドは欧米人とのザンジバル以外での通商を禁止し、インド人ヒンドゥー教徒のカッチー・バティヤーに港町の徴税を請け負わせたという。イスラム教徒にそんなに拘らなかったのは面白いなと思う。王の死後帝国はオマーンとザンジバルに分裂したが、王朝としては20世紀まで継続し、ザンジバルの王朝は1963年の革命で滅び、ザンジバルはタンガニーカと併合してタンザニアになったが、オマーンは今でもこの王朝が続いているようだ。

彼はザンジバルの発展を図り、通商をザンジバルのみに許可し、輸出税を無税にした。

19世紀の欧米向けの東アフリカ産品の最重要品目は象牙だったという。総輸出量の3分の1を象牙が占めていたと。そのため、1880年代には乱獲により象の個体数が減少し、より内陸部で狩が行われるようになったという。アフリカ側の輸入品は綿布、ビーズ、金属線で、これらは内陸部で交換材、つまり通貨のように流通したらしい。

もう一つの主力商品は奴隷で、これは少し意外だった。欧米における奴隷制廃絶運動が高まったため、西アフリカでの奴隷交易が衰退したので、まだ奴隷を必要とした新大陸のプランテーションに向けて東アフリカからキューバやブラジルに輸出されたのだという。またザンジバルなど沿岸部スワヒリ世界そのものにおいても需要が高まていて、奴隷の半数が地元で家内奴隷やプランテーションで使われたのだという。ザンジバルのプランテーションの作物は香辛料のクローブとココヤシだった。

奴隷が生み出されたのはこうした需要があったからだけでなく、ムフェカネと呼ばれるズールー王国の王シャカによる征服活動による混乱で、多くの戦争捕虜が出たこともその理由になっているというのはふむふむなるほどと思った。数十年前に「偉大なる帝王シャカ」という本を少しだけ読んだことがあり、ここに話がつながるのかと思ったのだった。

こうした港町で奴隷が多くなったため、その奴隷を略奪する事件なども起こったりしたというのは、まるで何かの物語のようだと思ったが、そういうこともあったのだなと思う。

ザンジバルは19世紀の前半には繁栄していたわけだけど、やがて衰退した。それは東アフリカの交易の中心がザンジバルからモンバサに移ったからで、ケニアとウガンダを植民地にしたイギリスが沿岸部と内陸部ウガンダを結ぶウガンダ鉄道の起点をモンバサにしたからだ、というのはなるほどと思った。このウガンダ鉄道の建設人夫はパンジャブのインド人が使われ、工事の終了後も七千人が残ったという。現在でもケニヤには8万人のインド人がいるというが、その起源はこの時だったのかなと思う。

東アフリカにおいても徐々に奴隷制は廃止されていくわけだが、奴隷身分から解放された人々は服装にアイデンティティを見出すようになったという。女性が身につけたのがカンガと言われる衣服だが、1920年代には日本から、大阪の西澤八三郎商店の製品が輸入され、英領東アフリカの交易量の15%が日本産になったという。当時の日本の最大の貿易相手は中国だったが、中国で反日運動が高まったため、違う販路を模索していたということもあったようだ。この取引は第二次世界大戦で中断したが復活し、1980年代までこの貿易は続いていたという。この辺は知らないことが多いが、日本とアフリカの関係も決して薄くはないのだなと思った。

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鈴木英明「沿岸部スワヒリ世界の形成と展開」読了。色々面白かった。オマーンによるザンジバル征服によって東アフリカ世界が展開して行ったこと、ズールー王国の征服活動によって奴隷が生み出されるなどの変動が経験されたことなど、ダイナミックな動きが興味深かった。

東アフリカでは沿岸部ではザンジバルなどの権力中心が作られたが、内陸部ではそうした国家形成がなかったようで、イギリスとドイツ、イタリアとポルトガルの植民地形成によって領域的支配が始まったと考えていいのかなと思った。中部アフリカや南部アフリカ、西部アフリカなどでは国家形成がそれなりに進んでいたが、東アフリカでは現在の国家規模の国家形成が進まなかったというのは、オマーンやザンジバルの例や早くからのポルトガルの進出などを考えると割と意外な感じがする。なぜ進まなかったのかということも少し調べてみると何かわかるのかもしれない。

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植民地支配はアメリカやカナダのようにほぼ白人だけの社会を作り先住民を奥地に追いやってしまうケースと、インドのようにほぼ上部の行政官や軍人だけが白人というケースの両極端があるが、アフリカにおける支配は人口の1割から2割を白人が占める形が多いようで、中間のケースと考えられるかなと思う。

日本の植民地支配は朝鮮や台湾がインド型、日本人の入植が伴った満洲の支配はアフリカ型、という感じだろうか。北海道は通常植民地とは言わないがほぼアメリカ型と考えていいだろうか。満洲国では昭和15年で人口4300万人、日本人は82万人ということなので2%くらいか。アフリカ型というには少ないかもしれない。

このように現地人と植民者の割合だけを考えても、植民地と言ってもいろいろある。以前東京帝大経済学部殖民学講座を持っていた矢内原忠雄の著書を調べたことがあったが、現代から見るとそういうものを調べるのがちょっと背徳的な感じがしてドキドキしたのを思い出す。でも当たり前だけどものすごく実務的な感じで、変に思想性がなくてスッキリしていた。

その中に植民地の形態分類みたいなのもあった気がするのだが、もうはっきりは覚えてはいない。基本的に植民地というのは過去の政治経済形態なので、すでに歴史研究の対象になっていることがほとんどなわけだけど、現在でもロシアにおける国内植民地的なシベリアとか、中国における新疆やチベットなども同じ延長線上で研究できる部分はあるだろうと思う。

基本的に中央集権的国民国家が基本形態となっている現在の世界の国家統治システムが実情に合わない地域も世界にはかなりあるだろう。だから現在も分離独立とか帝国の再建みたいなことが幾度となく問題化することになる。

ウクライナ戦争もある意味ではその枠組みの中に入る部分もあると思う。この辺、解釈の仕方によって立場が変わり得るので難しいところは大きく、結局「戦争でどちらが勝ったか」がいまだに意味を持つ時代なのだなと思わざるを得ないところもある。

「歴史の終わり」が公言された時期もあったが、現在でも人類の歴史はダイナミックに動いているのだよなと思ったのだった。良くも悪くも、ではあるのだが。

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夕方夕食の買い物に出かけたついでに書店に寄って本を見て、最近少し興味がある「ぼっち・ざ・ろっく」の1巻を買った。少しずつ読んでるが、こういう展開なんだな。わかるなあ、と思うところもあるのはやはりヒットした作品だからだろうなあと思う。

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