iPadのストレージ/ノートシステム/相原コージ「うつ病になってマンガが描けなくなりました 入院編」/聖地巡礼と作品の心象風景

Posted at 23/05/18

5月18日(木)晴れ

今日はいい天気。でも朝の気温は高め。でも落ち着いてじっとしていると少し寒いので少しだけ暖房を入れた。すぐに暑くなってしまうのだが。天気が良くても空気中の水蒸気量は多いようで、見える場所まで車を走らせたけれども富士山は見えない。iPadAirのストレージが一杯になっていたので一度Kindleアプリを削除したら32Gの半分くらいがクリアされた。再インストールしたので今度は少しずつDLしていこう。

このiPadを銀座のApple Storeで買った時には、ストレージの容量を尋ねたら動画を頻繁に見るのでなければ32Gで十分ですよと言われたが、今になってみると全然足りなかったなと思う。もちろん、この初代iPadAirを買ったのが多分2013年だから、もう10年選手だから時代が違うということもあるのだけど。iOSももう更新されなくなっているのでKindleも古いバージョンになる。でもジャンプラのように見られなくなることはなくてよかった。

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あまりにやることが多く多岐にわたっているので、頭の中がパンク状態だから、外部記憶装置として何が使いやすいかは常に考えているのだけど、今までの試行錯誤の結果、とりあえずノートシステムを構築した。

全体状況について考えていく「状況コントロールノート」A4を司令塔みたいにして、持ち運べるようにする「BulletJournal型ノート」A5と「スケジュール帳」B6を機動部隊とし、自分の収入支出を記録する「金銭出納帳」、「事業ノート」「家産管理ノート」「家人脈(親戚や両親の友人、地縁関係など)管理ノート」「執筆ノート」、その他家族(介護)、生活、趣味、交友などなどと各ジャンルごとにノートを作っていくという考え方。これらはB5版でノートを作った。パソコンやスマホで管理するのが今は一般的だと思うが、どうもそれだと頭の中のごちゃごちゃの整理がしきれないし、紙のノートのような一覧性がないので、ちょっと膨大なシステムになりそうではあるが、今までの記録などもこれらのノートの中にまとめつつ、生身の自分の生体ストレージを最大限活かせるようなシステムを構築しないとと思った。

もともと一人の人間のやる量としては多すぎると思うし、それなのに収入につながるものがあまりないという問題点もあって、まずはiPadではないが生身の記憶・思考容量を確保しないと十分活動できないなと思う。こうした外部記憶装置を動かすのも結局は生身の問題なのではあるが、まあなんとかしていきたいと思う。

これに加えて従来から書いているモーニングページノートがある。これは心情的なこととか思いつき、そのほかなんでも書く創造性を涵養するためのノートなのだが、分野別のノートに位置付けられないところも書いていくことになるだろうなと思う。

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昨日は整体を受けに松本まで行き、ただ仕事がたくさんあったので松本の街には出ずに、郊外のツタヤによって相原コージ「うつ病になってマンガが描けなくなりました 入院編」(双葉社)を買い、昼ごはんを買って戻ってきて、岡谷図書館で「世界のともだち 南アフリカ」を返却した。

「うつ病になって漫画が描けなくなりました 入院編」は、以前銀座の教文館書店で見つけて読んで強い印象を受けた「発病編」の続編だが、入院生活を描いたもの。アプリで既に読んでいたところもあるが、Webアクションは課金すれば読めるのではなく「公開終了」になってしまうので読めないところも多くて、その部分は結局単行本化を待つしかなかったから、ようやく読めたという感じではある。ただ、それでも去年の9月の公開分までなので、今続きを読もうとアプリを見ても最新回しか読めず、数回分空いてしまうので入院中の経緯の機微がわからない。

ただ、今発病編を含めて読み直してみると、希望があまり見えない発病編に対して入院編では大きな希望が描かれている。それは、看護師に勧められてチョコレートを食べてみる場面なのだが、それまで一切「喜び」が感じられなかった作者が、チョコレートを口に入れて味わった瞬間に天啓のように「美味い」という感想が降りてくる瞬間である。食事の喜びというものが本当に人を元気にするということが、とてもよく伝わってくる話だった。

あと、なるほどそうなのかと思ったのは、入院中に医者に「自分は本当にうつ病なのか?悩みとかストレスがあった気がしないのだけど」と尋ねると、医者が「うつ病とは何かメンタルな原因が必ずしもあるわけではない。ガンがはっきりした原因があるわけじゃないように、うつ病は脳内物質のバランスが崩れる病気で、原因がなくてもなる人はなる」という説明だった。逆にいえば割とメンタル的に追い込まれてもうつ病にならない人はならないわけで、そう考えると「悩むだけムダ」みたいな話なんだなと思ったのだった。

こういううつ病の話とか、精神病院の話、刑務所の話などは読んでいると自分が知らないところで精神病の人たちや犯罪を犯すことになった人たちがどのように思い、どのように処遇されているのか、入る側の立場と管理する側の考え方みたいなものが見えてきて興味深いところはある。このほかにも田中圭一「うつ抜け」や吾妻ひでお「失踪日記」など、そういうものはいくつか読んだ。刑務所で言えば、花輪和一「刑務所の中」「刑務所の前」は出色。特に「刑務所の中」はこういう体験もの?みたいなジャンルで、ただ淡々と日常生活を描写していくことのインパクトが強く表現されていて、一つの方法論を確立した作品であるように思った。

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昨年とても売れた「ぼっち・ざ・ろっく」の聖地巡礼(作中に出てくる店や場所にファンが訪れて記念写真などを撮る行為)が下北沢のライブハウスなどで問題になったりして、いろいろと話題にはなっているが、今は「スラムダンク」の聖地巡礼で中国人が多く江ノ電の鎌倉高校前駅に押し寄せているという話をどこかで読んだ。こういうふうに人が集中してしまうのはそこで生活や営業をしている人たちにとっては迷惑になることが多いが、それでも実際その作品や場面がどこなのか、ということが気になることは多い。

自分が体験した例でいうと、「極黒のブリュンヒルデ」というアニメで諏訪湖の風景描写が出てくるところがあり、流石にこれはあそこだ、というのがわかって本当に現実の風景が使われているのだなと驚いたことがあった。

読み返していた「正反対な君と僕」の舞台が、最初はどこか地方だと思っていたのだけど、京都・奈良への修学旅行の後、横浜デートがあって、えっ、関東なの?と思い、そのあと舞台がどこかをずっと考えてるのだが、神奈川西部かなあと考えたりもしたのだが、近場に十分遊べる街があり、横浜に出やすいところで住宅地もあり田舎もあり、ということになると八王子かなと考えたりした。

八王子だと横浜線一本で横浜に出られ、それでも高校生が頻繁にデートに行くような距離でもないだろうから、設定にあってる気がする。そうなると同じ作者さんの「氷の城壁」もこの辺りだろうかなとか。

「ぼっち・ざ・ろっく」のぼっちの家は金沢八景だけど、なるほどという感じだった。「2.5次元の誘惑」も東横線沿線みたいに書いてあり、公園の描写とかみるともう少し郊外な気もしなくはないのだが、と思ったり。「平成少年ダン」は山梨県の団地だという描写があって、これはリアリティがあった。

聖地巡礼というわけではないけど、どこが舞台なのかは割と気になりはする。日常ものとか学校ものは、舞台が「そのマンガの世界」の人間の常識みたいな意味での「文化」に関わりがあることがある感じがするからだろう。

もちろん、場面や風景を借りるだけで全然中身は関係ないということも多い。ただ最近はそうとも言い切れない作品が結構多いので、その作品の底流にある世界観、人間観みたいなのを考える参考にそういう補助線があるとわかりやすいなと感じるわけだ。

逆に、全く風景が描かれてない種類の作品もあって、これはこれで世界との断絶みたいなものがはっきり現れていて面白いなと思う。いずれにしても、風景ないし背景は口ほどにものを言う、というか言わせてくれている作品が面白いなと最近感じている。

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by Luke Peterson

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