明治維新と神道の挫折/廃仏毀釈運動と啓蒙主義的快感/保守は何を求めるか

Posted at 23/03/31

3月31日(金)曇り

早いもので、もう3月も終わり。2023年も4分の1が終わった。今日が年度末のところも多いだろうし、明日からいろいろ変わる。4月1日が土曜日というのはやりやすいのかやりにくいのかわからないが、曜日の巡りは人事と関係がないので、ただ静かに動いていく感じだ。

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「国家神道」、明治初年に入り、浸透や信仰の方から見た明治維新のてんやわんやぶりみたいなものが改めて興味深いと思った。

平田篤胤を調べたときに、幕末の彼の教え=平田国学の隆盛ぶりと、そのネットワークが倒幕の動きにも大きく関わっていたことを知った。また大国隆正や真木和泉、玉松操などいろいろな形で倒幕運動に関わった神官・国学者も多く、明治維新はある意味彼らの宿願の実現だったという側面がある。

だから欧米列強に伍すような近代国家の建設を目指す薩長の勢力も世論を主導してきた彼らに一定の地歩を与えたわけで、慶応4年閏3月14日の天皇が臣下とともに神前で誓う「五箇条の御誓文」の誓祭が行われた前日に「祭政一致、神祇官再興」の布告が行われ、全国の神社を政府の直接支配下に置くという方向での「神道国教化」が進められることになった。

だから論理的必然としてキリスト教の禁教は継続されることになり、また神道の仏教と習合した部分を排除する、神仏判然令が出された。一方では「癸丑(ペリー来航の1853年)以来殉難者」の霊を祭祀する招魂社が作られ、靖国神社の起源となるなどの動きが見られた。

明治2年末には「大教宣布の詔」が出されるが、これは神道という語が習合神道を指すものとして使われていたために「大教」の名を用いて、皇室祭祀と神社の国家支配と国家に殉じた者の霊を祭るという形が合わされ、平田=復古神道を「信仰」内容とした新しい「日本国家の主宰する神道」の名前とした、ということで良いのだろうと思う。

そして幕府権力と結びついた仏教の役割を終わらせ、それに「大教」がとって代わるように国家の仕組みに取り入れていく中で社領は国家に回収され、社格も新たに国家によって与えられて、国家機関の一部のような形になっていき、明治4年には寺院が民衆支配=戸籍管理を担っていた江戸時代の宗門改のように神社がそれを統括するための「氏子調べ」が計画されたが、全国的に実施される前に中止された。

そして同じく明治4年に行われた「廃藩置県」の翌月に、「太政官」と並立する国家の重要機関と位置付けられていた「神祇官」がなんの説明もなく「神祇省」に格下げされ、欧米のキリスト教や江戸幕府の仏教に取って代わる形での神道の国教化路線は撤退していくことになる。

これは神社には寺院と同じ立場で民衆を掌握できるような凝集力がなかった、つまり寺院の選択は個人にとてより能動的なものであったが神社の氏子はその地域を包括するものでより受動的な者であったから帰属意識が強くなかったということと、欧米列強からのキリスト教解禁要求に抗することが政府として難しかったからという側面、それに文明開化を唱えて迷信からの啓蒙を主張する福澤諭吉らの主張を政府要路の多くも共有していたということがあるのだろう。

要は「空気のような立ち位置」にある神道を国家の都合の良いように改編し、それを国教として扱って民衆を支配する基軸とすることは不可能であったということと、神道家や国学者たちが仏教に対して復讐的でキリスト教に対して敵対的であったことが外国との軋轢を避けることと社会の安定を求める新政府の担い手たちから見て彼らの方向性を国家の基軸とすることの不可能を悟らせたということなのだろう。

だから神社・神道側から見れば明治政府の宗教政策は国家の都合の良いように改変された挙句、キリスト教や仏教と並ぶ「多くの宗教・信仰の一つ」に格下げされたわけで、神官や国学者たちにとっては失望以外のものではなかっただろう。この辺は、江戸時代までは「生き神」であった諏訪大社の大祝(おおほうり)がその地位を失い、その子孫が学校教師として生計を立てざるを得なくなったり、またのちに原敬の内相下で神社統廃合が行われて多くの社が廃止され、自然保護の観点から南方熊楠らが反対するというような「国家に良いようにされる神道」のある意味での殉難が始まったということでもあったのだろうと思う。

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廃仏毀釈運動の詳論についてはまだ読んでいないが、始まったのは近江坂本の日吉山王社、つまり比叡山延暦寺の支配下にあった神社で、その詞官の樹下茂国(1822-84)は岩倉具視のもとで尊攘派として活動していたが、慶応4年4月に神祇官の官吏になり山王社改の命を受けて神殿の鍵を寺院側に要求し、受け入れられないと農民を引き連れて神殿に乱入して仏像・経巻・仏具などを破壊・焼き払うなどしたという事件があって、これが全国に廃仏毀釈運動が始まるきっかけになったようだ。

この辺りは以前読んだ鵜飼秀徳「仏教抹殺」(文春新書、2018)を見てみると詳しく叙述されていて、この本は私は松本の例が印象に残っていたので日吉神社のことは忘れていたのだが、通史的に理解していくとこの日吉神社の事件が大きな意味を持つということは改めて理解できた。

なるほどと思ったのは、廃仏毀釈運動は、幕府権力と結びついていた寺院権力に対する神官やそれに率いられた民衆によるある種の革命運動ととらえることもできるのだなということ。これはフランス革命で教会を破壊したヴァンダリズムに近いと考えることもできる。「宗教的な支配からの解放」というのはある種の「啓蒙主義的な快感」があったのだろうなと思う。

これは例えばジェンダーとかBLMもそうだが、「旧習を打ち破って解放感を得る」というのはある種の人間性に基づいているわけで、「革命が熱狂的に支持される」裏にはそういう快感のようなものがあったのではないかと思ったわけだ。

もちろん神官たちにとっては仇敵への復讐・腹いせであっただろうが、そうでない実行者たちにとっては宗教的権威の無力であることを身をもって知ったという意味もあるだろうから、宗教的熱狂のヴァンダリズムというだけにとどまるものではなかったのではないかとは思う。

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それにしても、明治初年というのは莫大なエネルギーが注ぎ込まれた日本史上最大のスクラップ・アンド・ビルドの時代だったのだなと改めて思う。こういう歴史過程の複雑さというのは、日本の「保守」を構成するそれぞれの要素の「一筋縄では行かなさ」を理解するために大きな示唆を与えてくれるものではないかと思う。保守と言ってもこれまでの歴史的経緯の中でさまざまな歴史的主体が確執や共同を繰り返してきているわけで、それは進歩派の諸勢力が様々に離合集散するのと変わらないと言えば変わらない。

国家や社会、世界をめぐる対立軸は常に変化するの可能性を持っていて、そういう意味では思想だけでは保守は語れない側面を持っている。そういう意味で保守は神道と同じように強力なイデオロギーや組織力を持っているわけではないから、明治初年の試みのようにそこをイデオロギー化して求心力を得ようとするのは難しいというか、他の主体に利用されがちになる危険は常にある。

保守として守りたいものというのは何かといえば、究極的には人間と人間の穏やかな関係、であるのかもしれない。そこらへんのところはまた改めて考えてみたいテーマではある。

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