「修養の日本近代」読了:オンラインサロンなど「自己を高める行い」についてのあれこれなど

Posted at 23/03/19

3月19日(日)晴れ

昨日は雨の1日だったが、夜は冷え込んで、朝は車に降った雨が凍ってドアが開きにくくなっていた。それでも最低気温はマイナス0.1度。春の冷え込みはやはり寒い。明後日は春分なのだが、そういう意味では春の前半(立春から春分)はまだ冬との共存だよなあと思う。

「修養の日本近代」読了。というか、とりあえず最後まで読んだ、という感じ。最後は少し駆け足というか細部まで読みきれなかったところはあるが、現代のところに入っての「オンラインサロン」の問題、問題というには形がなくて、問題というよりは「危うさ」ということなのだと思うが、それはある種「修養」というものが持ってしまいがちな問題点、「誰でも成功するはずはないのに誰でも成功すると断言する」「語り」であるとか、成果が出ないのに自己を高めようという努力をやめられなくなってしまっている状態とか、そういうものと切り離せない部分はあるなと思った。この辺の指摘はなるほどと思わされるもので、元々の動機が大学卒業後入った会社で「当然のこととしての修養」みたいなものに持った違和感からこの本を企画したという元々のスタンスからの問題意識だったのだろうなと思う。

自己を高めるというのは本来ポジティブなことであるはずなのだが、「自己を高めることがやめられない」とか「自己を高めることが続かない」というようなネガティブな問題も生み出すことはあるわけだし、うまくいっているように見える人でも「宗教みたい」に見えたりすることはある。著者は仏教の研究者でもあるので、この「宗教みたい」という表現にある日本人の「宗教への強い拒否感」を指摘しているのだけど、ある意味著者自身のそれぞれの事象・事例に対する「慎重さ」と「否定も肯定もせずに記述する」感じというのが時に強く肯定的に感じたり逆に否定的に感じたりするのは、「自分の中にあるそれらに対する印象」が反映されて感じられている面もあるのだろうなと思った。

逆に言えば、後書きを読んで著者のスタンスが少し分かったという感じなのだけど、それぞれの事例に対しても著者自身のとりあえずの「評価」みたいなものも書かれていても良かったのではないかと思うのだが、そこは「価値中立的な叙述」を守ろうとした部分もあるのだろうと思う。その評価は読むものに預けるというのはある意味正しい態度だと思うし、自分とはっきりスタンスの違う著者の書いたものが読みにくいことは確かなので、まあそんなものなんだろうなあと思ったりした。

宮澤賢治が参加していた国柱会とか、修養の側面から描いたものを読んでみたくはあったのだけど、またこういうアプローチの研究・著述が出てきたら読んでみたいと思った。

いずれにしても「自己を高める」というポジティブな行いが、ネガティブな結果につながらないような付き合い方というものは、考えていっていいことだと思った。

またこういう「自己を高める」という思いが日本資本主義の一つのエートスになったことは確かだと思うし、それが「日本の保守思想」の一つの柱みたいにもなってるようには思うが、それが逆に新自由主義を呼び込んだ面もなくはないところがあり、評価すべき面と危うい面のようなものを切り分けながら考えていきたいと思った。


月別アーカイブ

Powered by Movable Type

Template by MTテンプレートDB

Supported by Movable Type入門

Title background photography
by Luke Peterson

スポンサードリンク













ブログパーツ
total
since 13/04/2009
today
yesterday