「ウクライナ戦争」開戦初期のウクライナの奮闘とロシアの優位/「2.5次元の誘惑」ユキのアート志向の「意識の高さ」と抱えているもの/「考察より行動」の時代なのか

Posted at 23/02/19

2月19日(日)雨

私は火曜日から土曜日までが仕事なので、土曜日の夜或いは日曜日の朝になってようやくお休みの実感が出てくるわけだが、今週は本当に疲れが溜まっていて日曜日のリセットがなかなかできない感じで、起きたのは4時半ごろで今9時半なのだが、ようやくブログに取り掛かる気が起きてきた。

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読みかけの本がたくさんある中で、昨日は小泉悠「ウクライナ戦争」(ちくま新書、2022)の第3章「特別軍事作戦」を読んだのだが、2022年2月24日の開戦(ロシア側の言い方では特別軍事作戦開始)以来、7月ごろまでの戦況の推移についてまとめて書かれていた。

印象としては、初期の「聖ジャベリン」の活躍などウクライナ側の奮戦についての記述ももちろんあったが、キーウ攻撃の失敗と東南部へのロシア軍兵力の集中、マリウポリの占領によるクリミアからドンバスにつながる補給線の確保の成功であるとかキーウ近郊からの撤退によるブチャの虐殺の発覚など、ロシア軍サイドの動きが主に触れられていた印象がある。停戦交渉もブチャの虐殺の発覚までは可能性がなくはない感じだったのがこの件によってウクライナ側の態度が硬化したことで出口が見えない状況になったという印象。巡洋艦モスクワの撃沈などは当時はかなり大きな事件だったという印象だったのだけど、戦況全体としては大きく動かすものではなかったということか、ウクライナ側の戦果はこの辺りまではあまり語られていない印象だった。要は全体的にロシアが優勢だったということだろう。

しかし当時の報道やツイッターでの印象は、「不利な状況ではあるがウクライナはよくやっている」という方が強かったので、これらの記述を読んでいるともう少し頑張ってたよねウクライナ側も、それにロシア側の戦い方も酷かった(レベル的に)ということを思ってしまうのだが、それはまあ欲目というか判官贔屓の感覚なのかもしれないなと思う。逆にいえばまだ戦争は終わっていないけどそういうことで今の時点での総括ができることは、より冷静にこの戦争を見る上でも大事なことかもしれないと思った。

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https://shonenjumpplus.com/episode/4855956445093072597

いきなり日常的な話題になるが、昨日読んだマンガではやはりジャンプ+の「2.5次元の誘惑(リリサ)」132話「間」の印象が強く、それについて考察したツイートなど読んでいると、自分でもいろいろと考えることが出てきた。

コスプレ四天王のトップという描写になっている「淡雪エリカ」は、それをプロデュースする伝説のコスプレイヤー・「秋葉原の女王」エリカと、身体表現を筋肉骨格的な意味で極限まで極めるユキのコラボレーションで作られた存在だ、という話から、131話では奥村がエリカからレクチャーを受けて奥村に「自分たちが何をやりたいのか、もっと主体的に取り組まないといけない」ということを気付かされる展開だったのだけど、132話ではリリサがユキからレクチャー及び筋トレ指導を受けて身体表現の究極に迫るためのボディコントロールについて描かれているのだけど、一方でユキは自分の目指すものを「アート」であるといい、「難しいことがわからない」リリサはポカンという顔をするが「アートは作り手と受けての間に成立するもの、例えば「カワイイ」だと思う」という説明を聞いて、「間」というところに対する印象は残る、という展開になっていた。

これはツイッターで読んだ指摘を受けたものだけど、奥村は自分自身を「ただのオタク」であるというがそれは決して謙遜であるだけでなく、「オタクとして誰のどんな「スキ」も否定しない」という矜持を持っていることも当初から示されていて、それが圧倒的な熱量で作者に向けてぶつけられるのが58話の「あんたが書いたあんたの漫画がッッ俺を幸せにしたんだッッ!!!」だった。この時の奥村は「受け手としてのオタク」としては最高の域に達していた(どういう意味なんだ)と思うが、作り手としてはまだ未熟というか、「リリサの究極のROMづくりのために協力したい」という考えしかなかった。奥村が自分の「カメラマン(作り手)としての足りなさ」を意識し始めるのも「淡雪エリカ」のコミケでの実演とROMを見てのことだったから、言われ見てれば当然ながらこれは繋がっている話なのだと思う。

奥村やリリサの今後の成長についてはこれから描写されるだろうから楽しみにしたいのだが、今回何度も読み返して、実は今最も気になるのは、というかこの作品の中で「解決されるべきテーマ」として提示されているのが「ユキがコスプレを止めようとしている理由」なのだ、ということに気がついた。

エリカの手腕もあり、現時点で彼女はコスプレイヤーとして相当「成功」していると言えると思うのだが、そんなユキが何か悩みを抱えていて、理由も言わずに「コスプレイヤーをやめる」と言っている。もちろんコスプレイヤーは、特に「自分の好きなキャラクターを自分の身体を使ってリアルに降臨させる」ことを目指すコスプレイヤーには年齢的な限界というのが当然ついて回るし、またまゆらのように「コスプレするのはいかがなものか」と考えられる職業に就くことで引退するということもあるので、コスプレイヤーは必然的に「短い間しか咲けない花」みたいな、常に引退の二文字がついてまわる存在のあり方なので、「引退する」こと自体にそんなに不思議はないのだが、今回の描写を読んでユキのやりたいことが「アート」である、というところが多分その理由に大きく関係するのだろうなと思った。

今まで「2.5次元の誘惑(リリサ)」に出てきたキャラクターで、ユキに似ている人はあまりいないのだが、一番似ているのは一番最近出てきたツバキではないかと思う。ツバキは「自分のやりたいことを見つけてそれを仕事にしなければならない」という強迫観念に囚われて自分の「スキ」を見失っていたが、実際にコスプレをしてみて、また奥村に「好きなことをやり抜く・守り抜くためには狂気が必要なんだ」と檄を飛ばされて「スキに没入する楽しさ」を取り戻した、というキャラだった。

ユキは「(アート志向で)意識高い」という意味でツバキに似ていると思うのだけど、だからその悩みはある意味ツバキに似てるんじゃないかということを思った。(作中の)来週撮影ロケでファンタジー的な場所に行くらしいが、その時にユキとツバキが会ったらいきなりアートについてのすごい議論を始めるんじゃないかという気もするのだが、それでユキの悩みが吹き飛ばされるのだろうか。

今まで、そういうきっかけになるのはツバキの時も58話のキサキ先生の時も、そしてリリサが悩みに沈んだ時もいつも奥村だったから、今回も奥村になるのかなという気もしなくはないのだが、どうなんだろう。奥村って心に傷を負ったオタクということでみんなから気の毒がられているけど、実は結構チートだしコミュ力高いなと思う。ツバキを通して間接的に、みたいな展開もあるのかなとも思うけど。

あとユキに関して思ったのは、今回特に積極的にリリサにコナをかけていること。「大丈夫変なことしないから・・・あ、それともしてほしかった?」とか、説明のためとはいえリリサを脱がしたりボディタッチしたり、「なんかリリサとは気が合うね・・・ねえ今日泊まってく?」とか冗談めかしてはいるけどちょっと百合的に危険なお姉さんという感じになっているが、これは「意識高いことを言って女の子をだまくらかすアーティストや映画監督やカメラマンや学者」が女の子をゲットする手口に似てるわけで、この辺はギャグでやってるのか半ば本気なのかわからないところがミソなわけだけど、まあ「パリの恋人(Funny Face)」でオードリー・ヘプバーンをゲットしようとしたフロストル教授みたいに見えるところもなくはない。

まあユキのそうしたヨコシマな欲望みたいなのとアート志向と意識の高さみたいなものと、わりと通俗的でもあるオタク文化とコスプレイヤーという表現形態、アートと自己表現とエンタメの境目、そしてエリカのいう「コスプレでやりたいこと」という多くの要素がこの「ROM制作編」では出てきていて、この辺は「ブルーピリオド」やらなんやら、アートとエンタメとそういう表現そのものに対する、表現とは何かみたいな問いかけへの本質的な返答みたいなものが出てくるのではないかという期待をしてしまう。

アートは作り手と受け手の間に成立するもの、というのはまあそれはそうだと思うのだが、私自身の感覚としてはAとBが出会ってある種の反応、燃焼みたいなものが起こり、その結果AもBも変化する、みたいな感じかな、と受け取った。ただ、ベラスケスの絵を見てみた人が感動する、という変化はベラスケス側には変化をもたらさない(もう死んでるし)ので、作者側の変化は必須ではないけど、受け手側にも変化をもたらさないならそれはアートとして成立してないんじゃないかという気はする。

こういうちょっと難しい話をオタクネタとかサービスカットを挟みつつ展開していく手法はやはりコスプレをテーマとしたこの作品ならではというところがあり、次回以降も楽しみにしたいと思う。

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https://news.yahoo.co.jp/articles/bcfc0f5b673e1038f99a898c096ff55b8b7e2cac

大月隆寛先生の札幌国際大学との裁判で、一審判決が大月先生のほぼ全面勝訴だったと伝えられていて、本当に良かったと思うのだが、そのことに関連して大月先生がツイッターで暇空茜さんのコラボ告発と関連し、「バカになって行動するヤツが出ないと世の中はひどくなる一方だ」ということを言われていて、本当にそうだなと思った。

Twitterのような文字メディアには考察勢が多くて、私自身もそうなのだが、物事の本質を考えたりするのが好きなので、戦争でもマンガでも事件でもそれについて考えて書いたりすることは多いのだけど、昔に比べてそういう記述が読んでいる人に届くことが少なくなっている感じがしている。

これはGoogleの記事を拾い集めるアルゴリズムが変化して個人の情報発信が不利になっているということもあるのだけど、それだけではなく世の中の人が「考察」よりも「行動そのもの」を求めるようになってきているということがあるのではないかと思う。

自称「弱者の味方」が政権の課題とする方向、SDGs的なものとかフェミニズム・LGBT擁護とかデジタル化とか留学生・外国人労働者受け入れ拡大みたいな大きな政治課題の流れみたいなものをうまく作り出し、それに乗っかって「公金チューチューシステム」を構築しつつある一方でそれに疑問を呈したり異議を唱えたりする人たちを黙殺・無視・排除する方向に流れているのに違和感を覚えたり憤りを感じたりしている人たちは実際には少なくない。しかしそこで実際に行動する人は多くはないわけで、だからこそ暇空さんの動きに注目が集まっているわけだ。

考察勢ができるのは、その大きな流れの方向性そのものを批判することになるわけだけど、現場で戦っている人にとってはそれはとても悠長に見えるし、ロシアの理不尽と戦っているウクライナにとっても、ロシアのやり方は良くないと批判するだけでなく、実際の資金や武器を援助して欲しいというのが喫緊の課題であって、異議を唱えているだけの存在にまで注意は回らないだろうと思う。

時代は1968年のような、大きな変化の節目に来ているのかもしれないと思うし、その時代認識の中で自分がやるべきことを考えていくということかなとも思う。


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