「2.5次元の誘惑(リリサ)」132話「間」を読んだ:コスプレの身体的な側面とコスプレイヤーの表現の内面性/「ウクライナ戦争」:「ロシアのウクライナ観」と「戻せない時計の針」

Posted at 23/02/18

2月18日(土)晴れ/曇り

毎週土曜日になると疲労が蓄積していて頭が固くなってくるのかなかなかブログを書く頭の柔らかさに辿り着かないのだが、今朝は「2.5次元の誘惑(リリサ)」132話「間」を読んでいろいろ考えていた。

このところ「淡雪エリカ」との関わりがずっと描かれているわけだが、130話「次の四天王」でエリカとユキの出会いによるコラボとしての「淡雪エリカ」誕生、そして彼女らのリリサに対する勧誘と心が動く奥村ときっぱりと断るリリサの対比、そしてリリさの気持ちに対する感動が描かれていた。131話「君たちは何がしたいのか」では奥村・エリカサイドで「作品」を作るときの、特に「究極を目指す作品」を作るときの心構えや考え方について語られていて、今回の132話ではリリサ・ユキサイドのボディコントロールの仕方やコスプレをするときに何を考えているか、どういうつもりでやるかという話、それでも皆それぞれなんだ、というのがなるほどと思った。

そしてユキの目指すものは「アートとしてのコスプレ」であり、原作を正確に再現するとともに見る人と演じる人の間に成立する「何か」こそがアートなんだ、という彼女の考え方が示される。エリカとユキがそれぞれどんな考え方で「淡雪エリカ」というコラボに臨んでいるのかということがわかるし、エリカの天才的なプロデュース能力とユキのアート志向の微妙なずれ、或いは「一人で成立させていないアート」みたいなものに対する気後れみたいなものがユキ自身の闇なのかなという気もするのだが、まだそこは深掘りされていないなと思う。

ボディコントロールについては、最近読み始めた「フットボールネーション」でも「スゴイ選手は写真に撮っても美しい」というテーマが語られていて、それは身体の使い方にあるという話になるわけだけど、「バレエ」の身体の使い方の観点から日本のサッカー選手の体の使い方が批判されていく。ユキの立場、つまりは作者さんの立場や考え方にも通じるのだろうけど、筋トレによるボディコントロールがコスプレにおける身体表現に生きてくるという話は自分にとってはかなり新鮮だった。

筋トレというものについてはジャンプラで連載されている「筋肉島」や「ダンベル何キロ持てる?」などで少し読んだくらいで、基本的にはあまり関心がなかった。むしろ下手な筋肉の付け方で健康を害するというイメージの方が強かったのだけど、この回の「にごリリ」を読んで筋トレにはそういう面もあるのかと改めてへえっと思ったという感じ。

そういえば筋トレの人といえば筋肉の名前をよく知っていてどの筋肉も随意で動かせる、みたいな感じはあったけど、そういうことができる意味って何?と思っていたのだが、マンガ表現をコスプレに起こす、みたいなことを考えるのならばなるほど意味があるなと思った。

私自身も身体には関心がかなりあるのだけど、自分がやったり関わったりしてきているのは東洋体育系の方向性のものが多いので、バレエや筋トレはあまりよく知らないのだが、デューク更家のウォーキングの本を読んだときに、相撲とバレエの体の使い方の共通性みたいなのを読んですごくへえっと思ったことがあった。だから筋トレ系の考え方でも自分が知って理解できることもあるのだろうと思ったけれども、コスプレというのは基本「マンガ・アニメ」を自分の身体を使って降臨させる表現だから、マンガ・アニメに書かれている絵の再現が問題になるわけで、で、巷に溢れているマンガ入門みたいな本を読むと(実は結構持っている)みんな西洋絵画的な方向からの捉え方で説明されているし、またそれは解剖学的な基礎から組み立てられているので、当然欧米的な身体観が強く反映されたものになっているということなのだなと思う。

筋トレもそういう解剖学的なところや運動生理学的なところから合理的に考えて組み立てられているのだろうから、マンガ表現も筋トレも掘ってみると同じところからきているのだろうなと思うし、コスプレと筋トレの相性の良さというのはそういう同じ畑育ちみたいなところがあるのかもしれないなと思った。

「2.5次元の誘惑(リリサ)」も現代コスプレの牽引車である「淡雪エリカ」と絡むことで思いがけなく作品論・アート論・身体論にまで深く踏み込んできていて、かなり大きな問題と絡んでいるなと思う。リリサが「コスプレをするときはその場面でのリリエルの気持ちを考える」というのはつまりは演劇性ということだと思うけれども、私は演劇をやっていたこともあってそういうのが普通かと思っていたけれども、コスプレイヤーの第一人者たちが「絵面を考える」(まゆら)「情報から入る」(753)「憑依する」(夜姫)
「アートとしての成立を考える」(ユキ)というそれぞれの表現があることがとても面白いなと思う。

そして、その世界において自分が知っていることから類推できることと全く知らないことの両面があるのがこの作品を読んでいきたいという思いにもつながっているのだなと思う。

まあなんといってもこの作品は面白いです。

***

小泉悠「ウクライナ戦争」。ロシア人のウクライナ観・ウクライナ語観について、ロシア人は「ウクライナ語などポーランドなまりのロシア語に過ぎない」などという人がいるらしい。これ、中国人のおっさんが悪気なしに「日本では漢字を使うんだから日本語も中国語の方言だ」というぞっとするようなことを言うのと似ている。

これはしかし、戦前の日本は中国を「同文同種の国」と言ってたりしたので、主客逆転してるだけで論理は同じ方向だとも言える。文字や言語というものは、より小さな国の民族のアイデンティティや、大国の民族主義的帝国主義(パン・スラブ主義など)と深い関わりがあるなと思う。

「同じ文字を使えば同じ民族」みたいな主張について考えると、ラテン文字を使うヨーロッパ諸国は全て同じ民族か、みたいな話になるわけで、当然ヨーロッパの国々は反発するだろうけれども、同じ文字を使うということがヨーロッパアイデンティティみたいなものに大きな役割を果たしていることは否定できないだろう。

逆にいえば、トルコがアラビア文字を捨ててラテン文字を採用したり、朝鮮語が漢字を廃止したり(北朝鮮)事実上使わなくなったり(韓国)してハングル一本の方向になっているのも、アラビアや中国の強大な文化圏から離れてナショナルアイデンティティを確立し、或いは近代化しようという意思の表れでもあるわけだ。プラスの意味でもマイナスの意味でも、文字や言語というものがその国に与える影響は甚大だ。

日本は基本何でもアリなので街中の看板などでもひらがなありカタカナあり漢字ありアルファベットあり、最近では駅名表示などで簡体字やハングルも見られるようになってきているが、基本的には「そんなことで日本のアイデンティティは揺るがない」という自信と余裕の現れみたいなものだったのだと思う。最近、ハングル表示などに反発があるのは、逆にいえば日本が没落しつつあるという危機感が反映されているということでもあるのだと思う。

ウクライナという国は古代ルーシ国家の末裔という点ではロシアなど東スラブと歴史を共有し、中世リトアニア・ポーランド王国の一部という点でポーランドやリトアニアなどの国々とも歴史を共有している。また草原においてはアジア系の騎馬民族と、黒海沿岸においてはギリシャ・ユダヤ・トルコなどの歴史の一部であったこともあるわけで、元々がユニバーサルでインターナショナルな歴史を持っているわけだから、ロシアがここはロシア帝国の一部だったのだからロシアだと主張するのはいわば大ロシア主義的帝国主義であって、その主張は妥当ではないだろう。

ウクライナ国家がこの形で現在存在するのはある種の歴史的偶然が大きく作用はしているけれども、必然性もまた十分あったと考えるべきだと思う。そしてロシアからの侵略を受けて、否応なく国民国家として成長させられている。そういう意味ではもう歴史の針は戻せないのだと思う。

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