「自助の精神」と「人間の顔をした保守主義」/女子駅伝/コミックレビューとレコードレビュー
Posted at 23/01/16 PermaLink» Tweet
1月16日(月)雨
ここ二、三日雨が降ったり止んだりしていて寒中とは思えない暖かさなのだが、予報を見ると午前中から雪になるらしく、いつもの年に戻るかも知れない。一昨日は付かなくなっていた机のスタンドのランプ(LEDか?いや古いタイプだから蛍光灯なんだろうな)を交換し、昨日は風呂の水道の蛇口を修理するのにトライしたらなんとかうまくいって部品代1086円で済んだ。当然ながら修理に来て貰えばそんなものでは済まなかったので、とりあえずうまく行くとこういうことは嬉しい。
水道の部品をホムセンに買いに行ったついでに暇空さんのサイトで読んだマンガを2冊と、「文藝春秋」に載っていた村上春樹のクラシック本を買いにツタヤに行ったのだが、「Bまで恋はAiまかせ」の3巻と「かぐや様は告らせたい ラストファンブック」と村上春樹「更に、古くて素敵なクラシック・レコードたち」(文藝春秋、2022)は見つかったので買った。
出かける前には都道府県対抗女子駅伝をなんとなく見ていたのだが、最後に出てきた大阪の選手がゴツくてすごいなと思った。注目したのは中学生の部で17人抜きをやった岡山のドルーリー朱瑛里選手。しっかりした走りで他の選手をぐんぐん抜いていく様はこれから相当注目されるのではないかと思った。それから11位に入った長野県は、9人中6人が先日の高校駅伝で優勝した長野東の高校生で、2人は春富中(伊那市)と下諏訪中の中学生。アンカーの和田だけが日本郵政の社会人で、大学生や社会人の選手達にくらいついて11位に入ったのはすごかったなと思ったが、それだけの差が高校生と大学以上ではあるのだなということも改めて思った。
帰ってからはなんとなく相撲を見ていたのだが、貴景勝が割と調子が良さそうだ。相撲を見終わってから夕食の買い物に出かけ、ついでに別の書店で村上の「古くて素敵なクラシック・レコードたち」(文藝春秋、2021)を探したら見つかったので買った。
それぞれざっと読んだのだが、コミックガイドとして暇空さんが書いていてその内容が自分の琴線に触れたものは割とあたりだということが分かったので、参考にさせてもらいたいと思う。「Bまで恋はAiまかせ」は私がメジャー誌の作品を中心に読むようになる前の、2010年ごろに自分の勘だけでマンガを探していた頃に引っかかってきた作品群のテイストに近い。そういう意味でなつかしいなと思ったのだが、調べてみると角川つばさ文庫の「不思議な国のアリス」のイラストを担当していたり、デビューは「快楽天」だったりとなんというかなるほどなあと思う作品展開をしていて、いろいろ思うところはあったのだが、その辺はまた。
「クラシック・レコードたち」の2冊はそれぞれ自分の知っている曲の演奏にどういういいものがあるか、を探すのにちょうどいいと思ったのだが、知らない曲を聞くきっかけにもなるなと思った。レビュワーとしての村上春樹さんが信頼が置けるかどうかはいまいちよくわからないのだが、まあ読者であるということはある意味その感性を面白がっているところがあるのは確かなので、手頃な本もなかなかないからちょうどいいかもしれないと思う。
***
保守主義について考えていると避けて通れないことの一つが「自助の精神」なのだけど、例えば少なくとも日本で保守を標榜している人のほとんどはこの「自助」「自力救済」について思想の根幹にしている人が多いように思う。
このあたり、私は必ずしもどうかなと思っていたのでいろいろ考えていたのだけど、「修養の日本近代」に「自助というのは資本主義の精神」とあったり昨日買った「文藝春秋」に菅元総理の名前が出てきたことなどで考えていて、「自助・共助・公助」という言葉を思い出し、ググってみるとこれは本来災害対応の時に、まず自分で助かる努力をする、次に助け合って協力しあって救助する、そして公的な消防や警察、自衛隊などがきて救済する、という枠組みから来ているのだということを知った。
福祉政策については恐らくはそれを読み替えて、「自助」はまず自分でなんとかする、つまり老後に2000万の資金を用意するというような話で、「共助」は社会保険や年金など「国民がお金を出し合って助け合う」システムを指しているらしく、また「公助」はそうなると公的補助、税金からの支出ということになるという考え方のようだ。
アメリカなどの自力救済一本槍でオバマケア程度の補助に対しても強い反対が起こるような国柄とは違うのでそれなりに手厚くはあるのだが、これには以前からこういう制度に巣食う反国家勢力の問題が指摘されていて、今もコラボなどの問題がネット発で取り上げられている。
ただ、この辺りの本当の問題は「福祉が平等に行き届いているか」というあたりであると私は思うし、「国家が個人を援助すべきかどうか/国家は所得の再分配に関わるべきかどうか」みたいな根本的な議論、つまり「社会民主主義か新自由主義か」という部分はそんなに真剣には俎上に載せられていない気がする。
ニューディール以来のアメリカの格差是正策は、所得格差があまりに開くことは低所得者の自由の範囲を狭めるので、所得の再分配により低所得者を底上げして低所得者をより自由にするという考えがあり、それが「リベラル」と呼ばれる考え方になっている。
しかし日本では「自由を確保するため」という意味合いよりもワイマール憲法で初めて規定された「生存権」の規定、日本国憲法で言えば「健康で文化的な最低限度の生活」をする権利という形で社会政策・福祉政策が考えられていると言えるだろう。
明治の日本で最初にベストセラーになった「西国立志編」がスマイルズの「Self Help=自助論」の翻訳であったことからもわかるように、「近代資本主義の精神」は「自助の精神」であったと言えるだろう。「修養の日本近代」によれば、学歴エリートとしてエリートコースに乗れなかった青年たちの中に、自殺した藤村操のような「煩悶青年」、学歴は得られなかったが成功をとにかく追求する「成功青年」、それらから外れて享楽を求める「堕落青年」といった新しいタイプの青年たちが出てきたと言い、こうした青年たちを善導するためという方向性の中で「修養」という考え方が出てきた、という話が出てくる。
したがって修養という言葉は、「人間性を高め完成させる」という方向性と「成功に必要な考え方を身につける」という方向性、そして自分たちが何に導かれているかという宗教的な方向性のそれぞれを持つ、ということになるのかなと思った。
人間としての人格形成というのは前近代からもちろんあるし、宗教的な救いに近づくために念仏を唱えたりするという行為も当然あるわけだが、前近代の人格形成というのは「武士の子がより良き統治者となるため」という側面が強く、「成功」というのも役目を獲得したり善政を施したりすることであって求められるのは儒教倫理ということになる。
だから明治以後になって資本主義が成長し資本主義的な意味で成功をおさめることが目標になってくると、人格の形成や成功の意味、あるいは宗教的救済の意味も必然的に違うものになってくるわけだ。
この辺りは例えば、昭和以前の時代劇、歴史作品に現れてくる人物たちが例えば宮本武蔵がやたらと求道的に描かれていたり、宗教者たちが煩悶青年的に描かれていたり、民衆が求める宗教的救済がやたら絶望的に描かれていたりするのは我々の近代のそうした修養的な世界観が反映してそうした描かれ方をしていたということになるのだろうと思う。形は違うが銭形平次と子分のガラッパチとの関係が理解ある会社の上司とそれを慕う新入社員みたいに描かれているのもそういう現代社会の反映ということになる。
最近の大河ドラマなどは一見現代的に描かれていてもそうした「人間の格の高さ・低さ」みたいなものはあまり描かれなくなっているので、ホームドラマや権力ドラマとしての傾向が強まって「修養的世界観」に基づく描写は下火になっているということになるだろう。
私自身のことを言えば、「人格的完成を目指す」という意味での修養はある意味当たり前のことだと思っていて、というか修養といえばそういう意味しか思いつかなかったのだが、資本主義社会において人間として一人前になるということは経済的にもある程度成功をおさめるということだし、安心立命の境地に立つということはある意味宗教的な確信を持つということでもあるわけで、修養というのがその辺りを含んだ概念だという指摘は考えさせられるものがあった。
つまりは近代社会において「一人前の人間」というのは「自分の頭のハエを追える人間」、つまり経済的にも精神的にも自立した人間であって(これは「美味しんぼ」で海原雄山がよく言ってた)、そういう意味での「自助」が大前提になっている。この「自立した人間」が要は民主主義社会における「市民」なのであって、だから民主主義制度の初期には政治に参加する条件として「自立した人間として認められること」が加えられていたわけで、それが例えば「直接国税15円以上を納める25歳以上の男子」であったわけだ。つまり資産を持ち、ある程度以上の国税を払い、大人として認められる年齢に達していて、男であること、が選挙という形で政治に参加するための条件だったわけである。
これらは徐々にそういう人間の「階級性」「階級的利益」というものが指摘されるとともに条件が緩和されていくわけだけど、制限選挙性の本来の意味はそうした「自立した市民」が形成するのが「民主主義社会=市民社会」であると考えられていたということだ。
したがって福祉制度もそのように作られているわけで、「税金を納める自立した市民」が「困っている人たち」に援助する、というのが元々の形なわけだ。これは当然ながら、「自立した市民」と「困っている人たち」の割合がかなり問題になってくるわけで、特に戦後高度成長期以降の日本のような所得格差の少ない社会においては、わずかな差が問題にされていくことになってしまうわけだ。
この辺の議論は言い出すとキリがないのでこの辺りにするが、つまりは「自立した市民」の範囲をどこまでとするか、「困っている人たち」の範囲をどこまでとするかが現在のような福祉政策の行き詰まった時代にはシビアでセンシティブな問題になる。新自由主義的に「全ての市民が全ての福祉を負担する」という消費税制度が導入されたり、また「困っている人たちの味方」を自称する勢力が公的資金をATMがわりに使うような現象が起こったり、あるいは「階級的利益の打破=擬似マルクス主義的な平等概念」を掲げて子供や外国人にも参政権を与えようとする勢力などがそれぞれ部分的に要求を実現しているわけで、この辺りは正直言って混乱状態にあり、政治の現場にいる人たちが認識している以上に社会の現場は混乱していると言えるのだと思う。
いわゆる朝田理論というのはどういうことを指すのかよく理解できてない面もあるのだが、「弱者のことは弱者しかわからないので「弱者」の要求通りに援助せよ」という主張だとすると、これは「統治者のことは統治者にしかわからない部分があるから統治者の要求通りに統治されよ」ということにもなるので、あまり良くない理屈である気はする。「統治者にしかわからない部分などというものは全て開示すべき」というなら「弱者にしかわからない部分も全て申告せよ」ということになるわけだし。「弱者=正義」というある種の宗教的な枠組みが今はある程度効力を持っているからそういう無理な主張も成り立っているように見えるが、これもいつ崩れるか本当のところはわからないと思う。
まあ、そういう混乱的な部分を除いて考るような、「公的扶助は一切なし」というアメリカの「保守」派の主張はある意味シンプルでわかりやすい。日本でもこのスタンスに立つ人たちが増えてきた印象はある。しかしそれが「本当に」困っている人たちにとっては冷たいというのもそうだと思うし、日本的な保守主義というものはそういう方向性にはないと思う。
以前は「恐ろしい家父長制」に支配された「厳つい保守主義」ではなく、家族のポジティブな面をより強く主張するという意味で「人間の顔をした保守主義」ということを書いたけれども、「自助」だけでなくコミュニティの力を強めるという形での「共助」もあり、またしっかりした「公助」もあるという形での保守主義、という意味での「人間の顔をした保守主義」というのも言わなければならないなと思った。
***
前近代社会においては「人権」という概念はないから福祉も国家の「義務」ではないが、統治者の義務としての「善政」というものは意識されていた。
そういうものをいくつか拾ってみると、例えばヤマタノオロチ=怪異に襲われて困っている民衆をそれを討伐することによって救済する素戔嗚尊、という例があるが、これは軍事的・警察的な力によって民衆を守るという夜警国家的な統治者の義務ないし理想を表現している。
また、仁徳天皇が不作の折に村の人々の竈門から炊煙が上がらないのを気にかけ、数年間税の取り立てをやめて宮中は窮乏するが村の家々からは炊煙が上がるようになった、という「民の竈は賑わいにけり」という説話はいわゆる経済的な意味での善政ということになる。
また光明皇后が施薬院を建てて自ら癩病の患者に奉仕し、その患者が実は阿閦仏の化身であった、というような話もあって、これは病者に対する公的な救済を意味しているわけで、これらの寓話のような形で統治者としてやるべきことという意味での「治安の維持」「恩恵の付与」「慈悲」というものが儒教的・仏教的な意味合いが日本化された形で示されているわけである。
日本の保守主義の精神というのはそうした理想の提示の延長線上になければならないと思うし、それらは江戸期の代官たちの善政志向のようなものとも関係してくるだろう。
この辺りいずれにしても大きなテーマで一度で描き尽くせるようなものでもないのだが、とりあえず重要と思われるところを描写してみた。
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