有料読書スペース/「北条泰時」とか「アルスラーン戦記」とか/表現の自由と男女共同参画、専門家と運動家/保守からの視点

Posted at 23/01/09

1月9日(月・祝)晴れ

いろいろと状況が大きく変化していて、ちょっと自分の思考がついていけていない感じがするのだが、とりあえずは頭を空にしてちょっと瞑想というか考えてみたいと思う。

ただ、日本や世界が置かれた状況はそんなに変化しているわけではないので、それらのことについての考察はそう大きく変わるわけではない。ただ自分という主体のあり方が変わる感じはあるので自分自身の日本や世界に対するとらえ方が変わる可能性はあるかもしれないと思う。

今朝は東京にいるのだが、地元を少し散歩して、都立の高校の方から少し北の方まで歩いてみた。主に緑道の公園沿いを歩いたのだが、少し離れて商店街の中も歩いた。その商店街は老人福祉関係の施設がたくさんあって、これはいなかでもそうだが東京でも地区によってはそういうのが多いところはあるなと思った。

昨日は車で帰京したのだが、東京には駐車場がないのでコインパーキングに止めていて、一番便利なパーキングは100円玉しか使えないので昼夜通しで1300円をコインで用意する必要がある。8時を過ぎるとまた昼間料金がかかるので移動して別のSuicaが使える駐車場に移した。距離的には少し遠いが、100円玉を用意する必要がないだけかなり楽だ。

先日来たときには近隣の家のリフォーム工事の音が煩くて気が狂いそうだったが、今日は祝日だからお休みなのだろうか。お休みだといいのだが。

最近「アルスラーン戦記」を読み返している。4年くらい前にマンガでの連載分の続きが読みたくなってKindleで読み始めたのだがまだ電子化されてない部分があり、文庫で続きを読んだが文庫にもなってない部分があって最後の2巻はカッパノベルズで読んだ。いずれにしてもあまり明るくない展開のところなので一度読んでからはそのままにしておいたのだが、マンガ化されているところもかなり佳境に入ってきているのでつい続きが読みたくなったわけだ。現在12巻を読んでいるが、ある種の鬱展開が続くのだよな。昔の小説だからやむを得ないとはいえ、最近は明るいものを読みたいという希望が強い。「鎌倉殿の13人」は暗くても面白かったけど。

昨日は夕方丸の内の丸善に出かけ、本を見ていたら「丸善の3階」という読書スペースを見つけ、入ってみたらとても感じがよかった。1100円で60分好きな席が使える。ノートパソコンなどを使える席もあるし、深々としたソファもある。私は東京駅の夜景が見える席に座って、この席で読むために買った上横手雅敬「北条泰時」(吉川弘文館人物叢書、1958)を読んだ。ちょうど承久の乱の戦後処理のあたりまで読んだのだが、この後の時代の法廷戦術に、「訴えた相手は乱で京方(後鳥羽上皇方)であった」という主張によって相手を陥れるというものがあったというのは、現代の誹謗中傷や根拠薄弱な主張も駆使する法廷闘争を髣髴とさせ、生々しくリアルなものを感じた。

帰りにもう一度本を見て、新書コーナーで菊地良生「ドイツ誕生 神聖ローマ帝国初代皇帝オットー1世」(講談社現代新書、2022)を買った。割と読みやすい感じだったので買ってみたのだが、電車の中で読むなどにはちょうどいいかなという感じ。ただわたしは電車には今はほとんど乗らないので、そういうことで本を読まなくなったということはあるなと思ったり。

どうやら今日は工事はないようだ。上の家で少し物音がしたが、どうも掃除機の音らしい。しばらくしたらなくなった。

マクロの方から考えていると「表現の自由」とか「男女共同参画事業に関わる団体の不正経理」といった問題は大したことでないような気がしてくるけれども、個人の立場から言えばもちろんそんなに小さな問題ではない。「表現の自由」をめぐる問題で焼かれた「温泉むすめ」は地方の町おこし事業に対する攻撃だったし、「宇崎ちゃん騒動」は献血啓蒙ポスターの問題だった。こうした視点での攻撃は古くはカレーのCMでの「わたし作る人、ぼく食べる人」問題からの長い歴史の上にあるわけだが、「表現の自由」と「女性差別・搾取」の問題は海外でも写真家イヨネスコとモデルになった娘の訴訟や最近では数十年前の映画「ロミオとジュリエット」で裸体を晒されたことを虐待と主張する訴訟などでここに来てさまざまに提起されてきている。ただ宇崎ちゃん騒動などは実在の人物の写真等ではなくいわゆる萌え絵の問題であって、日本独自の性格が強いように思う。これはマンガ表現が世界的に見て特異に発達していると考えられる日本のある種特殊な現象ではあるだろう。また運動体のあり方も日本独自の問題があるのかもしれないが、そのへんは私にはよくわからない。

海外での問題が個人の肖像権や尊厳にかかわる問題であるのに比べると日本の問題は「自分の見たくないものを見せられた」「自分が好きなものを攻撃された」というやや神経症的な次元であるように感じられ、もっと本質的に重要な問題がないがしろにされているのではないかという懸念はあるのだが、どちらにしてもそうした「表現」において商業的にもアマチュアの世界でも世界一と思われる厚い層があるだけに日本での帰趨が世界におけるそうした表現の将来的な動向をかなり決定づける可能性があると思われるし、そうした表現の未来のためにも現在行われているネットや法廷でのバトルは大きな意味を持つかもしれないとも思う。

弱者救済に関しては児童相談所などの「公的機関や専門家による調査や研究の成果を生かしての事業」の方向性と、社会主義や共産主義などの左翼系の流れをくむフェミニズムやポリティカルコレクティズム系の「運動家による事業」の二つの傾向が併存していて、最近のさまざまな議論の方向を見ていると、後者が実に戦闘的であり、同じような事業を行うほかの団体や機関に対して攻撃的である状況があるように思われる。ただ、後者の行っている支援は必ずしも専門機関や専門家によるものではないという問題はあり、また往々にして専門家や専門機関に対する批判的ないし否定的姿勢が目立つ場合もあるようで、外部から見ていればそのあたりに懸念は感じざるを得ない。

マクロの方向から言うと国家や大きな意味での社会・国民がやるべきことを考えるわけだが、ミクロの方向から言えば人が一人ひとりどうやって生きていくか、それをどう育て、困難な人々をどう支援していくかという問題もある。専門家や専門機関の限界というものももちろんあるのだが、それが運動家によって補えるかと言えばそれはどうかなとは思うところはある。そういう現状の中でかなりの公的資金が後者につぎ込まれていることに疑問を感じる人が少なくないことは、最近のネットバトルの経緯の中でだんだん明らかになってきている。

運動家の人々が議論の相手をバカにし罵倒するのは自分たちがフェミニズムないしポリコレという正しい思想を持っているのにそれを理解できない愚昧な人間以下のネトウヨであるからと考えているとネットでの議論をまとめると考えられるわけだが、表現の自由を擁護する立場の人たちが必ずしも狭義のネトウヨではない、というか自らをネトウヨであると自虐的にでも表明している人はそう多くないように思われる。表現の自由をめぐる問題が「ネトウヨ思想」対「フェミニズム思想」の対立であると運動家の側は捕える人が多いようだが、実際のところはそんな単純なものではないから複雑化し、また運動家の側が苦戦しているということは明らかであるように思われる。

自分が保守というポジションに立つことを前提として言えば、やはり日本国憲法レベルの人権というものは保守的な立場の人々によっても共有されえるものだと思うし、そういう意味では表現の自由は必ずしも保守がこの国の本流や大勢でないところ(たとえばいわゆるアカデミアなど)が多い以上、発言の機会が奪われることがないように表現の自由を守っていくことは重要なことだろうと思う。

私は以前は満洲事変等の旧大日本帝国の方向性には一定の理があるとやや肯定的に見る傾向が強かったが、ロシアのウクライナ侵略によって日本国憲法前文を改めて読んでみてやはり自分たちの理屈は通っていてもたまたま軍事的に成功して戦術的には正解だったが不戦条約体制の浸透を甘く見たという点で戦略的には失敗だったと考えるようになっている。保守と言っても何を守っていくかという立場の違いは常にあるので誰とも共感できるとは限らないところが難しいが、そのあたりを含めて目指すべきところを明示していく必要はあるだろうなと思った。

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