歳末大忙し/エリートの輸入学問に対する大勢の「役に立たない」批判とそれを逆用してアイデンティティ破壊を図る新自由主義的アイデンティティポリティクス
Posted at 22/12/28 PermaLink» Tweet
12月28日(水)晴れ
昨日は朝からばたばたした。なるべくゆっくりものを考える時間を取りたいと思っていたのだが、突発的なことがいくつかあったのとやらないといけないのに忘れていたこと、また自分のミスなども重なって余裕を持って過ごすつもりがかなり忙しくなってしまった。仕事を早めに片付けようとお歳暮を2件届けに行き、帰ってきてからお歳暮の熨斗の短冊が足りないことに気づき大慌てをしたのだが、自分のミスであることがわかってバタバタしたがそれはなんとかなった。そのあと2件お歳暮を届けにいったが一件は留守、もう1件は昨日までの営業だったので滑り込みセーフだった。もう少し早く配ればいいのにどうしても年末ギリギリにならないと自分がそういう気持ちにならないのでなんとかしたいものだ。
帰りに書店に行って月刊スピリッツとコミックゼロサムを買おうと思ったが月スピが入ってなくて、別の書店に行くことにしたのだが道が混んでいたので迂回路をいき、お金をおろして別口座に補充し2件振り込みをしてから駅前まで戻って駐車場代を払いに行った。その途中で12時になってしまい、防災無線からお昼のエーデルワイスが流れてしまった。これは地方あるあるだと思うが、特定の時間に特定の音楽が防災無線でかかる。動いている時は時間が知れていいのだが、私は12時には家に戻ってお昼を食べようといつも思っているのに大体午前中の用事が済まなくて運転中にエーデルワイスを聞くことが多く、うわ今日も間に合わなかったと軽い敗北感を覚えるので、もう少しなんとか早く行動したいものだと思う。まあ今日は短冊の騒動がなければ軽く間に合ったはずなので、まあその辺が反省点ということか。
駐車場代を払ってから別の書店に行き損なったことを思い出し、迷ったが買いに行くことにしたそこで往復20分以上はかかるので、別ルートを通ったために行くのを忘れたわけだからまあ年末の渋滞というものは色々と予定を狂わせる。蔦屋で月スピを立ち読みし、買うかどうか迷ったが「重版出来!」で主人公の元柔道選手の編集者が失踪したマンガ家の娘のアユちゃんに付き纏っていたストーカーを捕まえて投げ飛ばした場面を見て買うことに決めた。この場面はかなり心にヒットした。
返ってきて食事をして、その後もいろいろバタバタあったのだが後略。夜は早めに仕事が終わったがぐずぐずして帰ったのは10時過ぎになった。この時期は外に駐車しているとガラスが凍結してしまうので、駐車場で10分くらい暖機してから帰ることになる。冬は全てにおいて一手間多く、寒冷地というものは大変だなと毎年感じる。
***
教養と修養の問題を考えていて、昨日は現在進行中の「人文学に対する「役に立たない不要不急の学問」という批判」に関する問題に結びつけて考えていたのだけど、これは世界的にいえば、というか特にアメリカに関していえば「反知性主義」の問題と結びつけて語られることが多いのだけど、日本の場合はそれに留まらない、輸入学問に対する伝統的な反発みたいなものとの関係も考えた方がいいのではないかと思った。
女性官僚らしきアカウントが「木簡を読むような学問ができるのは国が豊かだからだ」といういかにも新自由主義的な批判をしていたが、これは攻撃側に立つことによって自分たちに対する反発を逸らそうという感じがある。木簡を読む、すなわち日本の歴史について深いところで研究するということは、日本人としてのアイデンティティに関わる問題であり、決して役に立たない学問ではない。つまりそれは彼女らの学問感の浅さを露呈させているに過ぎず、それが彼女らの新自由主義的な信条からきていることは容易に察せられる。
竹中平蔵氏がこれだけひどく攻撃されていることからもわかるように、日本において新自由主義的な考え方への反発は一定あり続けている。それは富めるものはより富み、貧しいものはより貧しくなる新自由主義的な方向性が、伝統的な「経世済民」「民百姓のための政治」から乖離しているからで、一億総中流が実現したことでその反動によるメリトクラシー思想の勃興によって新自由主義が一世を風靡してしまったが、それと連動した形で「少数者の権利」が強く主張されるようになり、多数派日本人、特に男性(特に経済的能力等においてより弱い立場にある男性)に対する逆差別が強まってきたことによってそうした行き方への疑問が高まってきている。
まあこの辺の考えはまだざっくりとしたビジョン的なものなのでこれから考えていかないといけないけれども、日本においては常に輸入学問の導入とそれへの反発・反動というものが繰り返されている。それは基本的に常に「役に立つか立たないか」ということが大きいように思う。
記録にはっきりと残る最初の大きな対立は仏教という新学問の導入だったわけだが、排仏派の一つの主張は仏教を崇拝しても良くならなかった、役に立たないというものだった。結果的に崇仏派の蘇我氏が勝利したので受け入れられるようになったが、その後の密教の伝来なども加持祈祷など空海をはじめとした人々が示した「法力」のようなものが大きかったのだろうと思う。
日本史上最も大きな輸入学問の導入は7世紀から9世紀にかけての漢学と律令制度の導入であったが、源氏物語の中でも制度としての「漢意」はそれだけではダメでそれを実践するためには「やまとごころ」がなければダメだ、みたいな形で批判が行われている。鎌倉時代には律令制度に対する一つのアンチテーゼとして武家法、つまり御成敗式目が作られたが、これも「律令だけでは現実に対処できない、役に立たない」からであって、逆に言えば御成敗式目は「役に立った」わけであり、江戸時代まで部分的には使われて多くの武家法がこれを法源として派生していくわけだけど、この辺りも歴史学的にだけではなく、法学的にも研究されると面白いと思う。
江戸時代の頼山陽らの儒教批判も結局は「統治方法として儒教は役に立たない」ということが重要だったと思うし、蘭学の隆盛も「役に立つ」と考えられたからだろう。またエリートの学問が漢学であり続けたことに対する批判は江戸時代になってようやく「国学」として結実したわけで、これらの輸入学問を批判ないし再解釈して日本の現実に役に立つものとして仕立て直すというのは日本史において継続的に行われてきているわけだ。
幕末明治以降の西欧学問の導入というのも「実学」という言葉が示すとおり基本的には「役に立つから」導入されたわけだが、西欧に西欧の学問の体系というものがあるから政治経済に役立つ社会科学系の学問や物理的に役に立つ自然科学系の学問だけでなく人間観の根本にある人文学もまた導入されることになり、そこで明治人の若きエリートたちは日本の伝統と西欧思想に引き裂かれる思いに晒されるわけだが、それでもなお日本の伝統に引き寄せながら西欧学問を再解釈していく試みが敗戦までは続けられたように思う。
問題は戦後であって、日本の伝統が否定的に見られるようになっただけでなく西欧の人文学を日本の伝統に合うように再解釈していく試みも否定的に語られるようになり、より直輸入的なものが大手を振って歩くようになったように思う。それでも高度成長や石油ショックの克服までの時期、つまり80年代までは輸入学問は輸入学問として尊重しつつ日本の国力に裏付けられた自信のようなものを背景に、「日本的経営」や「日本的家族主義」みたいなものもある程度は肯定的に語られる余地はあったように思う。
問題は特に平成以降であって、昭和末期のニューアカデミズムや価値相対主義、言語論的転回など西欧でも大きな問題になった転換があって、それによって学問の基盤自体に大きな打撃が加えられたように思う。新自由主義と能力主義がより浸透し、家父長制という名で日本的伝統のかなり深い部分に攻撃が加えられ、アイデンティティポリティクスの名で日本のアイデンティティに対する攻撃が強められたことにより、逆にいわゆる「ネトウヨ」の動きも起こってきた。
「役に立たないものに対する攻撃」というのは述べてきたように日本の伝統的な体制変革論理であって、今は人文学全般にその攻撃が加えられていて、「木簡を読む」というところ、つまり「日本の歴史を研究する」という「日本人のアイデンティティに関わる部分」に対する攻撃というのはかなり意図的なものではないかと思う。そのような人間が行政の中枢である官僚機構に少なからずいるというのはかなり憂うべき問題なのだが、これは日本のエリート教育、中高一貫の受験教育の中で、そうしたアイデンティティポリティクス=「意識の高い教育」が作用している問題でもあるのだろうと思う。
「日本ダメだ」論はまあ昔からあるが特に平成になってから強まってきて、それも「日本を良くするためにあえて日本を批判するんだ」というスタンスから「日本はもうダメだから頭のいいヤツは日本を捨てるべき」と言ったスタンスが強まりつつあるのは、ある種の新自由主義者がどういう勢力に影響されているのかを暗示しているのだろうと思う。
非エリートには当然ながらエリートに対するルサンチマンがあるわけで、ネットで語られている言説の中にはそこの部分が強すぎると思われるものがかなり多く見られるのだが、人文学全てを攻撃するのは正直言って新自由主義者の思うツボなので、やはり本丸であるジェンダースタディーズやカルチュラルスタディーズなどのいわゆるスタディーズ系の学問(こんなものが学問と呼べるのかという気が私はする部分があるが)をちゃんと攻撃するべきだろう。日本国民のアイデンティティをあからさまに壊そうとしているような愚かな官僚の煽動に乗せられるべきではない。
本当は、アカデミズムの人たち自身に自らの学問がいかに役に立つものであるかを語ってほしいのだが、「役に立たないものこそ尊い」みたいな倒錯した自己満足に浸っている人が多くて困る。特にこうした新自由主義的な傾向が猖獗している時代には、孤高を気取っていたら自分たちが殺されるだけだということはちゃんと自覚したほうがいい。
ただ、やはり学問をやっている人たちに問いたいのは、「どんなに貧しくても木簡を読み続けるのか」というそういう覚悟の問題なのだと思う。戦前の理化学研究所を描いたマンガ「栄光なき天才たち」で長岡半太郎が「金がなくても紙と鉛筆さえあれば研究はできる」みたいなことを言っている場面があるが、それだけのものはまあそうならないようにするのが一番だが持っていてもらいたいと思う。それに対して池田菊苗だったか化学者が「理論物理学はそれでいいかもしれないが化学は実験器具がなければできない」と抗議するわけだが、それらのやりとりを見ていた理研の所長・大河原正敏が鈴木梅太郎の合成酒など事業化できる部分を事業化して研究に必要な資金を調達していく描写がある。歴史オタクがこれだけ多い日本なのだから、木簡の研究だってクラファンにしろ事業化にしろいくらでも資金を調達する可能性はあるわけで、自分のよって立つ足場を自分で固めていくくらいの気合いは研究者にも最終的には必要だと思う。
また別の方向から少しこの問題を考えてみる。
白洲正子は日本の地方に埋もれたほとけたちや伝統的な職人技など、日本的な文化を背負うものたちを掘り起こして世に広く伝えていった人だけれども、彼女自身は樺山伯爵家の令嬢として生まれ、女性として初めて能舞台にたったり、アメリカの女子校で教育を受けたりしたいわゆる飛んでる女性であって、それらはひと頃ブームになった夫の白洲次郎のドラマなどでも描写されていた。
彼女の言葉で印象に残るのが「かくれ里」だったかと思うが「日本のほとけたちはインドや中国の神像のように自分自身でその存在を強く主張するような存在ではない。信仰されることによって、拝まれることによってその存在が輝くような存在なのだ」というようなことを言っている。記憶で書いているので正確ではないが。
今、日本で攻撃にさらされている人文系の各学問というのは、あるいはそういう「信仰されなければ力を失う日本の仏」のようなか弱い存在なのかもしれないと思う。(ジェンダースタディーズのような禍々しい力を持っているものはその対象ではない)だから、それらの学問を語る白洲正子のような「学問の目きき」「学問の見巧者」が、それらの魅力を語るべきなのかもしれないと思う。それは埋もれた仏たちを語ることに比べれば無理解や批判と向き合い続けることになるかもしれないが、人文系の出版社や編集者・ライターなどの人々にとってのある種の使命としてあるのではないかと思う。
私が持っている一つのイメージは、個性的な事業をやっている日本の面白い会社を紹介していくシリーズみたいなものなのだが、書名は忘れたが「鎌倉投信」や「ユーグレナ」、「林原」や「金剛組」などおもしろ会社を紹介するものがあった。そういう感じで、マイナーだが面白いことをやっている学問分野を紹介するような本が書かれると少なくとも予算獲得のためのプラスにはなる可能性があるのではないかという気がする。
私はスタディーズ系の「学問」を除いた伝統的な人文学が「役に立たない」ものだとは全く思わないのでその種の批判は見当違いだとしか思っていないのだけど、当事者の努力も必要だろうとは思うし支援者も必要だとは思う。国に頼らなくてもできるような体制は作る気概はあったほうがいいと思う。
昨日書いた教養と修養の話で言えば教養というのはどうしてもエリート的なものになり、現代において最新の教養はwokeismと新自由主義に強く影響されているから修養というものもそれらの中での生き残り術みたいな感じになり、それらに迎合する傾向のあるものも多い感じはしている。エリートの教養が本来あるべき経世済民の思想に戻るためには「役に立つ」ものを再構築していく必要があると思うが、そのバックボーンになり得るのはやはり日本的な保守思想であるのだと思うし、それを構築していく必要があるのだと思う。
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