移動の日/人文系の学問に対する「役に立たない」攻撃についてなど

Posted at 22/12/27

12月27日(火)晴れ

今朝の今のところの最低気温がマイナス7.6度。毎日少しずつ最低気温が下がっている。多分まだ洗濯機は大丈夫だとは思うが、そろそろ凍結の心配もする感じになってきた。

一昨日は早めに寝て、昨日は3時半に起きて出かける準備をするつもりだったのだが、午前1時半に起きてしまったので風呂に入ったり薄めのブランデーの水割りを飲んだりしてもう一度寝ようと思ったがうとうとしたくらいの感じで、結局3時過ぎに起き出してブログを書いたり整理をしたりネットを見たりして6時半に家を出て実家に向かった。

バス停0637発の都バスに乗ろうと歩いていたら3分ほど早くバスが来てマジかよと思いながら走って飛び乗ったら、やはり37分まで停車するとのことで急いで損をしたと思った。まだ道はあまり混んでなくて錦糸町駅前には時間通り着いたのだが、あったはずのえきネットの受け取りの券売機が見当たらず、途方に暮れていたらみどりの窓口らしきところの横に券売機が二台あって、先客が二人ゆっくりと操作していた。まあ時間はあるから大丈夫だろうとは思ったが、あまり来ない駅でのこういうものの配置が変わってしまうと咄嗟の時に本当に困る。改札口には駅員さえいなかった。こういうのはどうにかならないものかと思う。

錦糸町で特急に乗ったが隣の席にジャージ姿の女子高生が座っていて、どうやら千葉の方から八王子までこの電車に集団で乗っているようだった。この特急は通勤時間帯の特急なので通勤電車のグリーン車がわりに利用する人が多く、新宿・立川・八王子まではそういう客の姿が結構あるのだが、運動部が予約も取らずに乗ってきているというパターンは初めて見た。

特急では隣の席が空いていると荷物も置けるし動作も余裕を持てるのだが、隣の席に人がいるとコートの着脱にも気を使う。とはいえ特急のグリーン車を利用するほどの余裕はないのでまあ仕方がないということなのだろうな。八王子でだいぶ空き隣も空いたので朝ごはんを食べ始めた。

10時ごろ地元の駅について職場の駐車場まで歩き、走り出そうとしたがまだ結構フロントが凍っているっぽい感じが残っていて、この時間でこれではこれから結構ハードな季節になるなと改めて思ったり。

午後は2時前に母を連れて松本の病院に出かけた。高速は割と空いていたが、雲がかかっていて北アルプスがあまり見えなくて残念。病院にはほぼ時間通りに着いたが、そこからいろいろゴタゴタして病院を出たのが5時過ぎになり、松本市街の帰りの渋滞に少し引っかかってしまった。市街を走っていてももう暗くなっていたので、ここはどこどこだと母に説明しながら走ったのだけど、全然ピンときていなかった。明るければ見覚えのある道だろうと思うのだけど。高速に乗った時にはもう完全に夜になっていて、6時過ぎに施設について母を見送った。

夜は疲れていたので早く寝たが、また3時過ぎに起きてしまった。これは寝る前にストーブの灯油が切れていて、外のタンクまで行くのが億劫だったので起きてからにしようと思っていたのだけど、目が覚めると寒くてマイナス6度の暗闇の中で給油することになった。懐中電灯をつけていても暗いとどのくらいの分量が入ったのかよくわからないので少なめに入れた。まあ色々とご不便ではある。

***

「自分は自分」「自分は世界に属さない」というふうに考えてみると楽は楽というか、肩に入っていた力が抜ける感じはする。そう考えた方がフリーな視点でものを見られる感じはあるので、昨日も書いたけどそういうところからものを作っていければいいなと思っている。

今日は動く予定にしていたが少し余裕を持って考えを整理した方がいいなと思うところもあり、最低限のことはするにしても一度体と心を休めてから再始動した方がいいなと思った。まあ夜がちゃんと寝られればもっとなんとかなると思うのだが、疲れに任せて眠り、朝早く起きてしまうという悪循環をもう少しなんとかしないとと思う。

とはいえ、年末だからなのか飛び入りで次々に用事が入ってきて(というかいつもなのだが)そういう目論見も崩れつつある。精神の平衡を保ちつつできる範囲でものを考えたい。

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教養というものや修養というものについて考えている部分があるのだが、教養のあるなしというのは、というか教養というものが何のためにあるのかといえば、アイデンティティのためという部分が大きかったのではないかと思う。もちろん「知は力なり」なので、知ることによって知らない人より何かを実現するための力を得る、ということが本来は「知」ないし「知ること」の意味だったのだと思う。「知」は本来役に立つものであったはずで、「役に立たない知が尊い」というのは倒錯した思想であったはずだ。

人文系の学問は人格を陶冶するために力になる教養を身につけるためのものであり、それは統治者並びに社会の指導者層にとって大事なものであったはずだが、それがどこまで民衆に浸透するかもまた大事だっただろう。人々のアイデンティティを確立するということは力を与えることであり、また集団として力を得ることであるから、「国学」が下層の人々はともかく地方の名望家の人々の間にかなり広がっていたことは明治以降の国民的アイデンティティの確立には大きな役割を果たしていると思う。これはヨーロッパにおいてはキリスト教であり哲学的教養であったわけで、階層上昇が可能な西欧社会においてはそのための手段として教養を身につけることは大きな意味があった。それが産業革命を経てセルフヘルプ的思想が強くなったとはいえ、本当に統治者層に食い込むためにはある程度以上の教養が必要だったわけで、そこの階級上昇のための「力」として教養という「知」はあったはずであり、今なおそうだと言える。だからいまだに階級社会としての性質が強いヨーロッパにおいて、教養が滅びる心配は今のところそんなに強くない。

日本においても統治階層には日本の文化的伝統における教養というものは大きな位置を占めていたわけで、明治維新によって西欧的な教養が導入されてからも日本的土壌の上に乗った導入であった部分が大きかったのが、明治末年から大正あたりになると日本的あるいは漢学的教養とは別の西欧的な理解による教養の力が増してきて、そこに大きなアイデンティティクライシスが起こったことはよく知られている。

自然科学系の学問は基本的に即物的に「知」が「力」になるのでもともとそういうものが好きな日本人にはわかりやすく発展もしやすかったし、社会科学的な学問は割合早い時期に儒教的な統治理論から西欧的な政治学や国家経営学、国際法思想、植民地支配のための学問など西欧の知見が導入されていったが、これがうまくいったのは「頼山陽の思想」、つまり「国家や社会の捉え方における儒教的世界観からの解放」があったからだと最近「天下の大勢の政治思想史」「頼山陽の思想」を読んで考えるようになっている。もともと儒教の思想を「漢意(からごころ)」として排斥し、実情に即して対応するのをよしとする傾向があったこともその背景にはあると思う。国家理念において英米法的な法を創作していく世界の捉え方より大陸法的な法源があってそれから展開していく考え方の方が日本人にはあっていたということもあると思うけど、どちらにしても西欧的な法体系を導入するだけの素地がなくはなかったことは大きい。江戸時代は訴訟社会だったというのはよく言われるし、代言人も地位が低いながら存在していたことも大きいだろうと思う。

だから日本において過去も現在も問題になるのは特に人文系の教養、つまり人の在り方としての問題であって、西田哲学をはじめとしてハイカルチャーの世界での教養主義の深まりはあったのだけれども、人として実社会に生きる上で西欧的なハイカルチャーがどこまで日本の現実を生きる上で力になり得たかというのは難しいなと思う。

だから日本では、生きるための「力」としての「知」が「教養」という形ではなく、「修養」という形でより大衆的な形に結実していく傾向が強かったのだろうと思う。アカデミアの世界では二流に思われるそういう修養書を書いた、ないしは現在も書いている人たちがより大きな成功を収めるのはそれを支持した人々がいるからであり、「力」として役に立たないのに「知」の世界にふんぞり返っている人々に反感が持たれるのはある種そうした事情のもとに教養と修養が分裂せざるを得なかった日本なりの事情があるように思われる。

「疑似科学(医療に関するものを含む)」とか「ネトウヨ」とか「スピリチュアル」というものが日本において力を持ち得るのは、やはり「教養」が「本当には役に立たない」と思われていることと大きな関係があるわけで、そこの問題を大衆のせいにしてしまって自分たち自身が真に役に立つものに変わろうとする意思がないままでは人文系ないしはアカデミアに対する攻撃が強まりこそすれ弱まることはないのではないかという気がする。


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