ちゃんと息をすることの大切さ/考えがないのではなく知られたくない/「おどろきのウクライナ」批判と対立の三つの形態と保守のありよう

Posted at 22/12/07

12月7日(水)晴れ

昨日は母を病院に連れて行ったり、またなんだかんだとあっていろいろ疲れたのだがまだワクチン接種からの回復過程の感じがあってちゃんと昼寝ができたから午後から夜にかけてはまあまあの感じで過ごせたのだが、どういう具合なのかあまり深く眠れなくて12時前に寝て4時ごろ目が覚め、なぜか「質量mの弾丸が時速200キロで高さ1メートルのところで10センチの壁に当たり突き抜けた後1メートル飛んで床に落ちた。壁を貫通したエネルギーはどれだけだったか。また貫通しないためには壁の厚さをどれだけにしたら良いか」みたいな問題を考えてしまっていて(昨日取り組んだとかいうわけではない)、そんなものを考えても全然意味ないのにそれに取り憑かれてしまっていたので起床した。

起きたら壁の時計が止まっていた(電波時計なのだが、時々止まる。朝止まっていることが多い)のでそれをリセットしたり、入浴したり洗い物をしたりお米を研いで炊飯器にセットしたりしてから車で出かけた。5時半過ぎだったがまだ真っ暗で、走っているうちに東の空が少し明るくなったので空と山の写真を撮った。

今やるべきことを考えていて昨日割とポジティブな感じの方向性を考えていたのだけど、運転しながら考えていると実はポジティブというよりは他にできないからそう考えるしかないみたいなネガティブな方向から出てきたポジティブなんだよなあみたいなことに思い当たった。でもそれを自分がポジティブにとらえて「頑張ろう!」みたいに思っているとそれに縛られてきて苦しい、みたいな感じが起こるから、これはネガティブなところから出てきた考えなんだとネガティブな感じで考えていると落ち着く、というか肩の力が抜けてちゃんと息ができる、みたいなところもあるなと思ったり。いずれにしても、「ちゃんと息をする」ということは大事だなと思った。

「最近の若者は自分で考えずに答えを求めがち」と言われることが多いが、実際には「考えが無いのではなく、人に知られたくないのだ」、というツイートを読んでいてそうだなと思ったのだけど、自分の考えを言って否定されるよりはその場に相応しい答えを探して答えている、ということなんだろうなと思う。「君のことを大大大大大好きな100人の彼女」で「いまあーしの表情、あってる?」というコマがあったけど、「その場に相応しい表情ができているかどうか」みたいなことを気にせざるを得ない環境の中で彼らは生きているところがあるんだろうなと思う。壁を作らなくてもちゃんと息ができるような世界にしていくことは大事だと思う。

「おどろきのウクライナ」を読んでいて考えたのは、「批判」というもののいくつかの形態について。

一つ目は、とりあえず相手の土俵、少なくとも「共通」と考えられている土俵に立って相手を批判する批判。例えば、「差別はいけない」と主張してサッカーワールドカップカタール大会でもカタールの差別に反対するパフォーマンスをしたドイツが、放送で日本に対して差別語を使い、配信もされた、ということに日本人が抗議するのは、「差別はいけない」という西欧の、あるいはその認識が国際社会の前提となっている土俵の上での批判ということになる。ネット上の批判の多くもそういうものが多いだろう。

二つ目は、逆に相手の良しとする価値をあえて否定して見せる批判。これは例えばタリバンが「男女平等」や「女子教育」が西欧社会において重要で素晴らしい価値であるとされていることを前提とした上で彼らの支配地域においてそれを否定するというようなもの。この辺り、伝統的なイスラム社会においてどう考えられてきたのかはよくは知らないので伝統の復活なのか単なる西欧の否定なのかは断言はできないのだけど、西欧は彼らのことを「未開だから」と判断しがちだが、彼らはその価値をある程度認識した上であえて否定に来ているので、それは前近代性の問題ではなく現代における問題だという指摘がこの本にあって、それはなるほどと思った。

ただ彼らは最新の通信機器や兵器など新しいものは進んで取り入れているし、近代文明そのものを全否定しているわけでもない。対談者の橋爪大三郎さんは「彼ら自身も自分たちがどうすればいいのかわかっていない」と言っているが、そこまで断言は私は今の所できないけれども、カタールにしろ中国にしろ自分たちの基準で豊かにはなりたいし強国にはなりたいけれども西欧の基準で自分たちを律せられたくはないということははっきりしているだろう。そこは日本もある程度そういう部分はあると思う。

三つ目は、従来よしとされてきた論理の延長線上に自分たちの正義を設定し、破壊的に既存社会を攻撃するような批判。原理主義とか急進主義、今はwokeismと言われることが多い現象だが、これはもちろん昔からあった。

これは進歩派と保守派の対立の中で、進歩派が主導権を握ろうとした時、進歩派の中も急進派と漸進派に別れてきて、そこでの対立が抜き差しならないものになることが多い現象として従来はあった。フランス革命においてはモンターニュ派とジロンド派の対立などがそれだけど、現代のwokeismにおいては穏健リベラルな立場からの急進派に対する批判が弱いのが今までの傾向とは少し違う感じがあり、ただwokeismがあまりに強くなると従来大事にされてきた市民的価値・市民的自由というものが損なわれる恐れが強くあるように思うので、この辺のところはなるべく穏健なラインで収拾がつくと良いなとは思っている。

この三つは、一つ目が自由主義・民主主義的国内・国際制度内、つまり「近代の内側」での対立、二つ目は文明間の対立、三つ目は急進派と漸進派の対立というそれぞれ性格の違う対立なのだが、それぞれの形での対立が最近強くなってきていることは感じる。社会であるとか人類であるとかを守っていくためにはそれぞれの方向性の極端化を最小限に抑えていくような保守主義的な思想が大事だと思っているのだけど、第一の対立においては民族的伝統的(一概には言い難いが)な価値を大事にする保守主義的な価値観、第二の対立においては相互理解・共存主義的な価値観、第3の対立においては論理の飛躍を抑制する漸進主義的な価値観が大事だとは思っているのだけど、第二の対立が一番具体的なプランが今のところ自分の中で思い付かない感じはある。

月別アーカイブ

Powered by Movable Type

Template by MTテンプレートDB

Supported by Movable Type入門

Title background photography
by Luke Peterson

スポンサードリンク













ブログパーツ
total
since 13/04/2009
today
yesterday