実直に書かれた思想史の本を読むことの気持ちよさ
Posted at 22/11/12 PermaLink» Tweet
11月12日(土)晴れ
今週は忙しかったが、来週も忙しいことになった。まあいつも忙しいのだが、うまく回転させて休む時にはしっかり休めるようにメンタルも含めて整えていきたい。東京と実家を往復するのに車で行った方が楽な面はある(特に荷物と時間の制約)のだが、数時間運転するのはそれはそれで疲れるので、時間と荷物に制約があっても体力的なものを温存しようと思ったら特急のほうがいいかなと思っている。普段は新宿で乗り換えるのでその手間が結構大変なのだが、東京発着の特急に乗れば乗り換えが一回で済むのは荷物はどうしてもあるのでありがたい。
今朝は4時前に目が覚めてしまい、どうしようかと思ったが、思ったことを一通り紙に書いていたら5時になったので出かけて隣町のスタンドにガソリンを入れに行った。途中の国道で舗装工事で交互通行になっていたが、交通量の多い道なので夜間しかできないのだろうなと思った。そのスタンドは土日に3000円ガソリンを入れたらボックスティッシュを一つくれるのだが、2950円になって笑った。まあティッシュの単価が50円くらいと思えば特に損はしていないのだけど。
山の上の住宅地まで車を走らせて塩パンを買って、ちょうど東の野にかぎろひが立つのが見えたので写真を撮ったりなどした。
濱野靖一郎「頼山陽の思想」(東大出版会)を読んでいる。この本の前に読んでいたのは同じ著者の「天下の大勢の政治思想史」(筑摩選書)だったのだが、読んでいていろいろ考えさせられることがある。
著者の議論は頼山陽をはじめとして蘇軾や朱子などの漢籍、また本法では熊澤蕃山や荻生徂徠などの著作を正確に読み、それをまとめていくことで著者の見解や主張を正確に掴んでいくという姿勢で書かれている。当たり前といえば当たり前なのだが、最近の人文系の学者の書くものというのは自分の主張やある特定の思想に依拠したある意味バイアスのかかった読み方をしている人の方が多いと感じているので、素直に読書百遍意自ずから通ずという感じの「読み」を読んでいると気持ちがいい。
これは日本史で言えば呉座勇一氏や、そのほか最近の学者の方々の「新しい」日本史、気鋭の研究者の方々のやっていることと基本的には同じ「実証的態度」だなと思う。
私はもうだいぶ前になるがフランス革命を専攻していたので、当時の歴史家達がマルクス主義的唯物史観に基づく歴史観から「史料をそれに当て嵌めながら事実を切り分けていく」方法をとっている人がいたり(ある種のでカルト的方法)、フランス革命に肯定的なそれらの見解に対して真っ向から批判して「修正主義」と非難されている学者がいたりしていた(主にフランスでの話だが)。
ただ日本史とは違い、西洋史は少なくとも当時は風通しが良かったので、後者寄りの見解でフランス革命の実相を見たいと思っていた(当時は今考えてみると実証にはそんなにこだわりがなかった)私などでも別に居心地の悪さを感じることはなかったが、日本近代史をもしやっていたら吊し上げられていた可能性もあっただろうなと思う。
現在もいろいろな理由で日本史自体の研究に関してもわりと開かれる時期もあったり思想的な観点から糾弾が行われたりあるわけだけど、どちらの立場に立つにしても、実証というか史料や文献をいかに正確に読むかを大前提にして、そこから理論的解釈を作ったり当て嵌めたりしてもらいたいと思う。
人文系の学問では基本的に「史料や文献を正確に読めるのは当然」ということを前提に学者の文章は書かれているわけだけれども、それが逆転して「私は当然正確に読めている」という驕りのようなものを感じる文章を見ることが最近特に多くなってきている感じがする。特に「正確に読むということは私のような「正しい思想」を持ち、それで全てを解釈することだ」という感じがするということだ。そういう文章を読んでいると、その人の読解は本当に正確なのか?という疑問を逆に持ってしまう。
私などは基本的に虚心坦懐に書かれていることを読む、というふうにものは読んできているので、流石にマルクス主義的な文章については「あーこれはあれダナー」と思うことは多々あるが、フーコーとかになると「なんか気持ち悪い書き方をしているけど何に影響されているのかよくわからない」と思うことの方が多い。まあ、最近フーコーの影響は以前よりはだいぶわかってきたけれども。(ただフーコー自体をあまり読む気になってないのでちゃんとわかってるわけではない。しかし少し読んでみるとフーコー自体が問題というよりその著者がフーコー「的な」分析をしてドヤっているのが気持ち悪いことの方が多いようには思う)
そういう文章はもちろん以前からあるのだけど、基本的にくだらないと思ってあまり読んでないのでそういうものに免疫があまりなくてこの年まできているのでいまだに引っかかるわけである。ちゃんとした学者だとそういうものに引っかからないようにもっと警戒が上手いわけで、まあ学者というものになるにはもっと人が悪くないといけないと思うのだが、まあその辺がどうしても本質的に面倒くさいのでその道を極めるのができなかったんだなと今にしては思う。
本格的な思想史の研究書は多分そんなに読んでいないので、史学に比べて考えるのだが、読んだ文章から理解・解釈・つまり見解を抽出するとき、ないし全体像を構築するときに外部の思想・理論に依拠することは歴史学だとよくあることなのだけど、思想史は逆に内部で完結させられるのでその辺は面白いなと思う。孔子や朱子が実証史学的に見ればどんなとんでもないことを言っていても、「孔子はこう言っている」「朱子はこう考えている」とすればいいだけのことなので、読みに徹すればいいというのはある種気持ちがいいなと思う。
歴史学は「事実はどうだったのか」という最終的には確定しようのないことを文献史料や考古学的な証拠から再構成して決定するものなので、新史料が見つかればひっくり返ることもままある。まあ科学的と言えば科学的なのだが、それを決定と言い切ることが自分にはどうしても躊躇するところがあって、その辺の微妙なところが歴史学に対するそこはかとない違和感を持ち続けた理由なんだなと思ったりする。
まあ、政治家や小説家の書く文章とかは全然思ってないことを書いたりすることがあってもおかしくないので、やはりなかなか難しいところがあるのだけど、思想家の書く文章はその文章自体が勝負なわけだから、それを真摯に受け止めればいいというところの気持ちよさがあるんだろうと思う。
明治史研究の本を読んでいたときに「思想史」の項を読んでいて強烈な違和感を持ったのが「言語論的展開(ママ。転回の校正ミスか)」についてなのだが、このような視点が「オルタナティブな読みを提供する」という意味にとどまる限りは価値があったと思うのだが、それまでの学問的積み上げを全て「疑わしいもの」にしてしまい、新しく出てくる議論や展開も全て「目覚めた」理論に結びつけられた奇天烈なものになってしまっていることはどうにも残念な感じがする。
社会学者を称する人が「都合の悪い資料は無視する」と言ったりするようなことが大手を振ってまかり通るようになれば、もうそれは学問ではないだろう。それは運動家の論理であって学問の論理ではない。「目覚めた」学者たちのやっていることは「学問は運動の婢女」というスコラ学的な、中世的なやり方になってしまっていて、それが猖獗を極めていた時期には学問自体に触れることが全く面白く無くなってしまっていて、小林秀雄や白洲正子ばかり読んでいた。
最近、日本史特に中世史も、新しい気鋭の学者の研究によって、そうしたものでない実証的伝統に基づく研究書や一般書などが出されるようになってきたことによって、ようやく史学も面白くなってきたと思っていたのだが、やはりそういう人はターゲットにされやすいようでいろいろ災難にあっている例もまだよく見かける。
そうした中で、むしろ本丸とも言える思想史の分野で日本近代を動かした思想を、そうした角度でなく再検討する研究が現れてきたことは本当にいいことだと思っていて、いろいろな意味で考えにくい日本の保守思想というものを再構築するにとどまらず、近代史の見方に新しい風を吹かせることにつながると思う。
保守の思想というものはやはりイギリスが一番進んでいるし説得力があると思うのだけど、アメリカのような宗教保守でもなく、ロシアなどに見られるような白人至上主義的右翼でもなく、日本から発信できる説得力のある保守思想のようなものが構想・構築されていくべきではないかと思っている。
古事記以来の日本の「思想」、漢籍からの輸入された伝統とその日本における成熟と展開、ヨーロッパに従来からあった急進主義・設計主義に対抗する保守の思想と言ったそれぞれの流れのうち、二番目が自分の中では一番疎かったので(どれも満足に理解してるわけではないのだけど)、今はとても勉強になっている。
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