「鎌倉殿の13人」第45回「八幡宮の階段」を見た:役者の力量を最大限に引き出す脚本の力と引き出された小栗義時・柿澤実朝・寛一郎公暁/地元の書店が生き残っている嬉しさとありがたさ
Posted at 22/11/28 PermaLink» Tweet
11月28日(月)晴れ
昨日は弟夫婦と朝食を共にした後でかけて特急で東京に帰ってきたが、コロナ期間中は電車が空いていたので前の席はともかく隣に人が座ることはなかったのだけど、昨日は2年以上ぶりに隣の席に知らない人が座っていて、ああこういうのは落ち着かないなあと久しぶりに思った。自動車での移動に慣れてしまうと公共交通機関が苦手になるというのはこういうことだなと思う。子どもの頃は父の運転する車で帰省するのは電車に乗れないからつまらない、と感じていたものだが、それを考えると電車に乗ること自体を楽しむ気持ちを復活させた方がいいのかなと思ったりもする。
東京駅に着いてからエキナカで昼ごはんに駅弁を買い、丸善丸の内店へ行って「頼山陽の思想」を買った。本来ならこういう高いものは車で行ったときに買えば長い時間の駐車券がもらえるのでそうしたいところだが、タイミングでそうならなかったのはもったいないと言えばもったいない。それから万年筆のコーナーでウォーターマンのブルーブラックのボトルのインクと、文房具の方も探してトモエリバーノートのA5サイズのドットのノートを買った。これは調べてみると限定品という感じだが、ぜひこれからも生産を続けてもらえたらいいなとは思う。
とりあえず欲しいものは買ったので地下鉄で家に帰り、溜まっていた郵便物など確かめた。昼ご飯を食べた後、前の日の夜があまり眠れなかったせいかなんとなくウィーン少年合唱団のレコードを聴きながらぼんやりと過ごしていたのだけど、サッカーのドイツ戦の録画を見た後4時前に出かけた。
時間的に「鎌倉殿の13人」の前に帰ってくるには足を伸ばして出かけるのはちょっと時間がないなと思って、結局地元を散歩した。久しぶりに昔は遊郭がちかくにあった商店街を歩いたのだが、人が少ないなという印象。そういえば「商店街の書店らしい書店」があったなと思い北のほうに歩いたら以前入ったことのある書店があった。普段はいる書店とは品揃えが違うのが面白いなと思って物色していたのだが、雑誌は少年シリウスがあったしエロ系の雑誌もあって(「快楽天」とか久しぶりに見た。コンビニでは見なくなっているので)なんというか健全だなと思った。印象に残ったのはラノベが充実していることで、マンガも結構あったけど小説ではその辺が売れてるんだろうなと思った。
新書系も割と固いのがあって、結局巽好幸「美食地質学入門」(光文社新書、2022)と橋爪大三郎・大澤真幸「おどろきのウクライナ」(集英社新書、2022)を買った。前者は地質と日本各地の特産物の関係、後者はロシアのウクライナ侵略という事態を受けて、世界をどうとらえるかという試みの一つだけれども、ロシア寄りということはないにしても割と反米的なスタンスではある人たちなので最近読んでいる国際政治学者たちとはスタンスは同じではないからちょっと読んでみる意味はあるなと思い、迷ったけれども買ってみることにした。
近くに古書店もあるはずだなと思ってググってみたけれどもどうも無くなったらしく、裏道を歩いてから一番近い西友まで歩き、夕食の買い物をして帰った。いずれにせよ、地元の昔からの書店がしぶとく生き残っているのは嬉しいものだ。
帰るとまだ6時前で、ちょうど大相撲が結びの一番で貴景勝が勝ち、優勝決定戦が巴戦になったのだが、何と阿炎が2連勝して初優勝という予想外の結果になって面白かった。7時からはサッカーのコスタリカ戦を少し見たが、あまり動きがないので見るのをやめてネットを見たりして、8時からの鎌倉殿に備えた。
***
「鎌倉殿の13人」第45回「八幡宮の階段」を見た。前回に続く、鶴岡八幡宮における実朝の右大臣拝賀式における惨劇の描写とその収拾。実朝も公暁も仲章も殺され、三浦も身動きが取れなくなったのを奇貨として義時が権力を掌握していく様子が中心に描かれていた。
https://www.nhk.or.jp/kamakura13/story/45.html
今回の、というか今年のこの作品のこのドラマの描写は、それぞれの登場人物が与えられた役割を筋書き通り演じるというよりは、役者そのものが持っている力量やその背景までを含めて「活用して」ドラマに活かすというつくられ方をしていて、良くも悪くもその人でなければ出せないもの、演じられない「何か」が表現されている面が強いなと思った。そのためには役者のルーツも利用するし、必要なら史実になかったことも付け加える。
もともとの「史実」も陰惨ではあるがドラマ的にも興味深いし、そういうこともあって頼家の死のあたりまではドラマの展開自体に脚本の妙を主に感じていたのだが、一度トークスペシャルをはさんだ後のラスト10回ほどは脚本そのものについてはむしろあざとさが目に付くようになり、しかし観終わった後で反芻してみるとやはりおもしろいわけで、それはなぜなんだろうと考えてみると、つまり「あざとさ」まで含めて「役者の力量」というものを最大限、というか限界まで引き出すような脚本と演出になっているのだということに思い当たった。
私も20代には演劇をやっていて脚本を書いたこともあったのだが、役者の力量を引き出す芝居というのは理想でもあったけれども、当時はその役者が何ができるのかということを深くは把握できていなかったし、あてがきなどもよくしたけれどもその役者の良さを限界まで引き出す、というような脚本は書けなかったなと思う。
今思ってみると、役者がその力量を限界まで発揮するような戯曲というのはつまりはその方向に限界までその役の「キャラを立てる」ということで、それは例えばマンガ(の原作)や小説などにおいても使える面もあるのだなと思うのだが、これはここ10年ほどでなるほどと思いだしたことで、ジャンプの編集者がとにかくまず登場人物のキャラが立っていることにこだわるという話を読んでから考えるようになったことだ。現在は脚本を書いたりはしていないから今なるほどと思ってもそれを生かす当てはとりあえずないのだが、やることに余裕が出来たりまた来世があるならそういうこともやってみるのもいいかなと思ったりはした。
そういう面で「八幡宮の階段」で思うところはやはり主人公義時を演じる小栗旬さんの芝居がメインになるわけだけど、三谷さんが終盤10回の義時をどう演じるかを見たい、と言っていたように、このあたりの義時の凄味というか円熟味、ダークさの演じ方については明らかに今まで小栗さんができていたことを超えているよなとは思う。
仲章に太刀持ちの役を奪われて「悄然としている」と時房には受け取らせながら偶然とはいえ公暁が義時も狙っていたということを知って公暁の動きを止めず、また実朝を助けに行こうとした泰時を制止するところはそういうところだぞと思う。
また心配になって駆け付けたのえに対して「八重や比奈はもっとできたおなごであった」と「言っていいことと悪いことがあります。いまのはどちらですか」と詰められるようなことを言われたりするのも本当に言わなくていいことを言っているわけだけど、そこは今までのえにどちらかと言えば反感を持たせていた視聴者が義時を非難しのえに同情するように仕向ける意味が脚本的には強いと思うし、また「よくできた=支えてくれた=内助の功」的な八重や比奈に対し、「思ったことをはっきり言う現代(的な)女性」であるのえの戯画化的な側面もあるのかなと思った。
つまり、「自分を支えない=自分にとって役に立たない妻は存在価値がない」と言い放っているわけで、そこは義時の(あえての)冷酷な面がよく表れているけれども、いつか殺されるぞとは思う。義時はのえ(伊賀局)に毒殺されたという説もあるから、その伏線という意味もあるのかもしれないが。
このあたりは同じことなのだけど、実朝暗殺を受けて宙に浮いた後鳥羽上皇の皇子の鎌倉下向について、言下に取りやめだと言いながら泰時や三善たちの意見も聞きつつ「こちらから断るのではなくあちらから断るように仕向けよう」と敢えて下向を催促すると「異論を聞いた形で自らの望みをより有利な形で解決する」という策士ぶりが泰時や三善を唖然とさせるのも今までの力技とはダークさが一段違う成長を見せているのも面白かった。
息子と孫を一度に亡くし呆然とする政子に「これからはもっと重要な役目を担ってもらう」と言い放ち、死を決意する政子を監視させていた(のだろう)トウに止めさせる。もっともトウは監禁されていた源仲章の屋敷を脱出した直後のように描かれているからトウの意思と見えなくもないが、義時の命令でなければ政子の御所にトウが潜んでいるのもおかしいのでおそらくは義時の意思なのだろうと思う。死ぬことも引退することもできないと知った政子が「頼朝未亡人」という公的な地位を演じ続けるのは普通に考えればきついことだしそれが従来描かれてきた「悪女としての政子」ではなく、弱さと気丈さを両方持った存在として、特に気丈さを強く押し出して描かれているのは政子像として新しいのではないかと思った。
義時が政子に「われらは一心同体」というのは、ただ利用しようという意思だけではなく、本当に心の底からそう思っているだろうというのは今までの経緯からも察せられるわけで、「誰にも遠慮せずにやりたいことをやれるようになった」義時にとっても仕える対象が甥たちであるよりは姉であった方がよりシンプルに動けるということはあるんだろうなと思うし、大事にしたい気持ちそのものも本心ではあるのだろうと思う。
このあたりに比べると泰時や義村、運慶に対する気持ちの動きはもっと微妙なところがある。泰時に対しては、「父上を止めます」という泰時に対して頼もしさとやれるものならやってみろと言う余裕、そして「父を超えて行け」という思いさえも感じさせる凄味の中にも温かさを感じさせる演技で、とてもよかった。
義村に対しては「俺を殺すつもりだったのか」と聞いて「そんなことはない(大意)」と答えた義村が去り際に襟を直す(=義村が心にもないことを言っているときに現れる癖)のを見る、というのがタイムラインでは話題になっていたが、私は言われるまで気が付かなかった。なんだかんだ言って義時は人の心が分からないところがあるので私の見方では「心にもないことを言っている」という分かりやすいサインであるというよりは単に「テンパっている」っという心の動きである気がするのだが、少なくとも義時がそのように受け取ったということは分かるような仕掛けになっているわけで、ここも面白い。そしてそのように問いかける義時の気持ちにはやはり怒気と悲しみが含まれているわけで、それが分かっているからこそ義村はためらいなく公暁を殺したという説得力を生じさせている。
義時が公暁を討った報告をする義村に対し、北条と三浦が協力してこそ鎌倉は安泰だと言い放ち、義村が「これで鎌倉はバラバラだ」と違う場で吐き捨てるのも面白い。実際実朝の死後100人以上の御家人が出家したそうだから、そのように見えても当然だっただろうと思う。そして親王下向を実朝の意思として実現するというポーズをとるのはその対策としても有効だと考えたわけだろう。義時が義村に「裏切ったらどうなるかわかるだろうな」と釘を刺し、義村に改めて「こいつには逆らえない」と思わさせた演出は深く礼をする義村の鋭いまなざしとともに舌を巻かせるところがあった。
心ならずも権力闘争に巻き込まれ苦悩する義時の最大の理解者でもあった運慶に対する対応も、芸術家に対する尊敬というものを消し去り「同じ俗物」という地平に立ったうえで敢えて「権力者としての無茶ぶり」を行うという挙に出るのもある種の義時の悲しみを感じさせるし、運慶がそれをどう受け取ったかは運慶が彫った神仏の像がどのようなものになるかだろうから、それを見たいという感じはある。このあたりはまあ、「権力者としての孤独」というものを最大限に感じさせながら、その悲しみが青年時代からの迷いと地続きであることを感じさせる存在として義村と運慶を出したのだなと思った。いやなんだかやはりすごいな三谷脚本。
***
他の人物に対しても、特に実朝に関しては「太郎のわがまま」を聞いて持っていた小刀を、おばばの「天命に逆らうな」という声を聞いて捨て、公暁に自分を斬らせるという選択を取るのは、実朝という人が結局は「他人の思い」に敏感で、それをかなえてやりたいと思ってしまう優しさという権力者としては致命的なウィークポイントを持ち、だからこそ御家人たちに慕われ優れた歌を詠んだのだろうと思わせるところは大変良くできていたと思う。
実朝もそうだが、やはり「この事件の主役」である公暁の脚本上の描写と演出が今回は最も重要なところの一つだろう。
公暁が「自分は源頼朝の孫、源頼家の息子として名を上げたかった。なのに私は武士としての名がない。それでも私は四代目の鎌倉殿です。それだけは忘れないでください」と祖母の政子のもとを訪れて訴えるのはやはりとても哀切で、「運命に翻弄され暴走し死んでしまった若者」という今までの公暁像の基本線を変えたわけではないにしても、「強く振舞いたい頼家」「理解してやりたい実朝」にたいして鬱屈はしていても若者としてある意味真っ当な「名を上げたい公暁」という人物像を作り上げたのは感銘を受けた。
公暁を演じた寛一郎さんが上総介を演じた佐藤浩市さんの息子であり、さらには伝説の俳優ともいえる三國連太郎の孫であること、つまり三世俳優であることとかなり意識的に脚本上の重ね合わせが感じられるのは指摘されるべきだろうと思う。
はっきり言って寛一郎という役者がどういう出自かを知っている視聴者は当然ながら父や祖父の存在をそこに見るわけで、逆に彼がそれに対してどう臨むのかという難しさは出てくる。
公暁の野心は寛一郎さん自身の野心の吐露としても見れるという線を、当然ながら三谷さんは狙ったんだろうなと思う。もちろんそこはあざといとは思うが、この芝居に全力で何でもかんでもぶち込むという鬼気迫る作り方、というふうにも見える。
そこを前提に考えると、寛一郎さんの演技のある種抑え目でありながらパッションの表出においては圧倒的なものを見せた演技は、さすがだとしか言いようがない。しかしそれもまた「獅子の子は獅子」と視聴者に思わせるある種の嫌味もまたあるわけで、そういうものを含めてウェルメイドだなと改めて思う。
***
また例によって長大になってしまったが、最後までお付き合いくださりありがとうございました。
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