「天下の大勢の政治思想史」を読みながらみなもと太郎「風雲児たち」を思い出すなど

Posted at 22/10/18

10月18日(火)曇っていたが晴れてきた

東京は雨でもどうも気温が高くて少し動くとすぐ汗をかいてしまうような天気だったが、地元に戻ってくると薄寒く、朝起きた時はストーブをつけていた。夜が明けてだいぶ暖かくはなってきたけどじっとしていると薄寒いのには違いない。移動にはこういう温度変化への対応が必要なので、そういう面で結構疲れたりする。自動車で移動するときは対応した服装をいろいろと用意しておけばいいが、電車での移動だとどうしても荷物の量が限られるので汗をかいたまま座席について、とにかく汗を拭いて冷たいのはしばらく我慢する、みたいになる。

とりあえず汗が引いて落ち着いていたら列車の進行とともに寒くなってきてカーディガンを着て、地元に着いたときにさらに上着をきたけれども傘をさして重いものを持ち歩いても全然汗をかくどころではなく、実際のところ気候の違いというのはかなりあるなと思った。


「天下の大勢の政治思想史」、127ページあたり。頼山陽の思想はよくわかった、というか大体納得できることを言っているので、これがどのように近代日本史を形成していくのかについてはその後を追わないとよくわからないという感じがある。そのあとは頼山陽以降の儒者や学者について山陽の著作がどのように受け継がれ広められたかという話なのだが、あまり馴染みのない儒者の話が並んでいて読むのに少し骨が折れる感じがした。

Wikipediaによれば松崎慊堂(まつざきこうどう)は渡辺崋山の師にあたる人で、蛮社の獄で崋山が罪に問われたときに建白書を老中・水野忠邦に提出し、死罪を免れさせたという人だとのこと。崋山の筆による肖像画が残っている佐藤一斎と並び称された大儒者だったと。また林靏梁(はやしかくりょう)は一斎や慊堂の弟子筋とのことで、概ね天保時代(1830-44)の人という感じだろうか。

頼山陽が脱藩廃嫡されたのが寛政時代、また「日本外史」を松平定信に提出したのが文政10年なので、活躍気はほぼ化政時代(1804-30)ということになるだろうか。この辺りの人々の知識は昨年亡くなられたみなもと太郎さんの「風雲児たち」で知ったことが多いので、この作品で頼山陽が取り上げられていないことで知識がなく、そういう意味ではイメージが持ちにくい。

風雲児たち 1巻 (SPコミックス)
みなもと太郎
リイド社
2013-09-20

 

かなり詳細に取り上げられている前野良沢と杉田玄白、それから大黒屋光太夫などの時期から尚歯会すなわち渡辺崋山や高野長英の時代に話が飛んでいるので、ちょうどその間の頼山陽が省略されたということになったのだなと思うのだが。開国期の老中・阿部正弘に関しては詳しく取り上げられているし自分でも伝記を買って読んでいるのである程度はイメージがある。

だから頼山陽自身と彼から阿部正弘の間の時期について、少しWikipediaなどで人々の輪郭を捉え直してからもう一度読んでみようと思った。

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