日本が近代化に成功し韓国が失敗した理由/「鎌倉殿の13人」第40回「罠と罠」を見た/自分という大地

Posted at 22/10/24

10月24日(月)曇り

夜中の三時ごろに目が覚めてしまい、朝までいろいろやっていたのだが、ものを書いたりという方向になかなか行かず、ただいろいろ考えたりして自分は自分というものが一番大事だ、というか重要なポイントになってる人なんだなと思った。それは、思い通りに行かない、納得のいかないことが多いこの世の中で、自分のやったことには手ごたえも感じられるし、自分がやったことなら仕方がないと思うこともできる。そこである程度「自分という大地」というか、立っていられる場所がある感じがするから、なのだと思う。

自分が今までいろいろやってきて、はっきりと自分がこれをやった、と形として自分でも見られる、というようなものが果たしてちゃんとあるのかどうか、ということが自分として自分を認めにくいことではあるなと思う。まああったらあったで(というか形として見えるものでなければ当然ながら自分でやったいろいろはあるわけだが)これでは十分ではないと思うのだろうし、そういうのはまあ仕方がないと言えば仕方がないことなのかもしれない。

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昨日ブログで書き忘れたことで言うと、日本の近代と朝鮮韓国の近代の違いがどこから生まれたのかということについて、前近代が武士が支配した時代だったか両班と言われる貴族が支配した時代だったかの違いだ、ということはよく言われてきたけれども、思想面で言えば日本には頼山陽がいて朝鮮にはいなかった、ということは大きいということを考えたのだった。

https://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480017499/

「天下の大勢の政治思想史」にあるように、頼山陽は儒教では、特に朱子学では重視されてこなかった「勢」というものが国家にとって致命的に重要である、と主張した政治思想家であって、これは当時の人々に広く受け入れられた。もちろんそれが受け入れられた素地が日本にあったことは確かで、それは儒教的に言えばあまり地位の高くないはずの「将軍」が実質上最高の地位にあり、また文官官僚でなく「武士」が支配階級であったということが日本社会にはあったわけで、武士たちが朱子学を学んでも自分たちは純粋な文官ではなく、一朝事あれば槍や刀を持って立ち上がるべき存在だと思っていたから、ある種朱子学の理想というものを日本の実態に合わせて改変しているという意識はあったはずだ。
だから朱子学の「理」に基づく世界理解においては日本が特殊形態であるということもわかっていたわけだから、朱子学だけが日本において正しい学問であるとは(もちろん官学ではあったが)思われてはいなかったわけだ。朱子学は理においてスパッと割り切る思想だから、すべてを説明できる一方で拡がりもないわけで、それに飽き足りない人たちが様々な学問を起こしていた朝鮮は朱子学が絶対的な学問だったので、そのあたりがもともと違うということは確かにある。

この本の読書は阿部正弘の章を読み終え、堀田正睦の章に入っているが、幕閣首脳にまで頼山陽の考え方は浸透していたわけで、西欧列強が迫ってくるなかでも朝鮮のように理に基づいた尊皇攘夷・衛正斥邪の考え方だけでなく、彼我の戦力を冷静に分析し、妥当な国策を考える柔軟性があったということなのだと思う。

https://binder.gozaru.jp/aizan-kanzan.htm

山路愛山が日露戦争中に訪韓したことを「韓山紀行」に書いているが、そのとき韓国人に「大韓帝国が自ら独立し強力な国家になるためにはどうしたらいいと思っているか」と尋ねたら、「義と理を堅固にしていくことが大切だ」と答えたという。愛山としてはまさに帝国主義戦争が行われている今日において韓国は生き残る瀬戸際だと考えてどういう切迫感があるかを尋ねたかったと思われるが、韓国人は朱子学に基づいて義を重んじ理に沿って行動することしか考えていなかった、ということなのだと思う。

愛山は韓国人の独立心に期待し、日本とともに列強諸国に対抗しようと考えたのだと思われるが、韓国人の頭の中はいまだ朱子学的世界観に支配されていた、ということなのだろう。

実際のところ韓国人の中には日本が古来の習俗を捨てて西欧化していることを苦々しく思っている人たちも多かったわけだから、「天下の形勢にのっとって文明を西欧風に開化し列強に伍していく」という日本的な考え方自体が全く受け入れがたかったのだろうと思う。原理主義的でないことは日本の美点であると我々は考えているけれども、アジアにおいては必ずしもそうは受け取られない、ということは明治人たちもあまり分かってなかったのだろうなと思う。

逆に言えば、日本には江戸時代に頼山陽がいたために世界の形勢を考え現実に即した対応ができるようになったということになる。ということは世界の形勢に振り回されてドイツ側で参戦してしまった第二次世界大戦の失敗は、明治維新の成功体験からきているということになるわけで、著者の射程は長いなと改めて思ったのだった。

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「鎌倉殿の13人」第40回「罠と罠」を見た。

https://www.nhk.or.jp/kamakura13/story/40.html

和田合戦の前日譚という感じなのだが、まずは朝廷側から幕府に仕掛けられた罠。後鳥羽上皇が閑院内裏の修築を幕府に命じる。多額の費用が掛かり、御家人たちへの負担も重いため、御家人たちの不満が高まる。不満を持った御家人たちが集まったのが和田義盛の屋敷だった。また、泉親衡の乱(1213)という北条義時打倒を目指した反乱が計画されるが、このドラマではこの泉という男は実は院の近臣で鎌倉にも出入りしている源仲章だったということになっていた。ただ、それ自体は明示はされておらず、顔を見たらあれ?というような形で示されていたのだが、大江広元はそれを察知し、鎌倉を動揺させようという上皇の策謀ではないかとみていた。

それが一つの「罠」なのだが、もう一つの罠はことがあるごとに義時の執政に不満を持つ御家人たちが集まる和田義盛を危険視した大江と義時が、三浦義村を使って反乱を煽り、それを口実に打ち取ろうというものだった。このあたりは史実でもことあるごとに義時は義盛を挑発している。

その大きな糸口になったのは先に書いた泉親衡の乱に和田義盛の息子たちと甥が加担していたことが明らかになったことだった。義時は義盛の息子たちは放免したが、甥の和田胤長は許されず、和田一族が90人で赦免を直訴に行った面前で胤長を引っ立てるという挑発が描かれている。

一触即発の事態になってから、義時のやり方に反対する泰時が政子に訴え出、また事態を知った実朝も動いて義盛を呼び出し(政子の提案で義盛を女装させて参上させた・これが今回の数少ない笑いどころだっただろう)、義時と和解させる。しかし義盛の帰りが遅いと激昂した和田一族の勢いはもう押しとどめられず、また三浦義村の動きを警戒した巴によって義村らは起請文を書かされそれを焼いて飲まされる一味同心の儀式が行われて(これを破ると神罰が下る)、義村も和田に「取り込まれてしまった」、という展開だった。

頼朝が御家人や警戒するものを排除してきたとき、義時は一人で奔走して撤回させようとするがことごとく失敗する、というパターンが繰り返されてきたが、今度は義時が心を鬼にして和田を排除しようとして、泰時や政子や実朝がそれをやめさせる、というパターンになったわけだ。

義時はすでに牧の方(りく)を排除するためにトウに命じていたのが三浦義村に阻止されて失敗しているのだけど、今回も和田邸にいる義村に義時の意思を伝えに行く役目を振られて一瞬間があったのは、そのときのことを思い出したということなのだろう。

結局のところ、義時も一度は和田を討つのを諦めることになってから、義盛が一族を押さえ切れず反乱を起こしてしまうということになるのだろうと思うが、今回は今まであったこのパターンが少しくどく感じられたのは、他のキャラに比べても和田義盛のキャラが立ち過ぎというか、存在自体がうるさい(誉めているつもりではある)からということはあったのではないかと思う。

ただ、実朝が義盛は討つなという自分の意思を、政子を味方につけて実行したという脚本になったのは「義時に逆らえない軟弱な将軍」という実朝の印象をはねのける意味ではよかったのではないかと思う。

また泰時に内緒で初が朝時を伊豆から呼び戻していたのは和田合戦に備えてのことではあるが、先週の実朝の思いを知ってひとり黙って酒を飲む泰時を見つめる初の姿を思い出すと、史実の通りこのおしどり夫婦にひびが入る前兆として描かれているのかなという気はした。

次週はいよいよ和田合戦だが、これもどのように描かれるのか。泰時だけでなく朝時も活躍するわけだが、そのあたりも見てみたいと思う。


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